第六十話 雪が消えても、残るもの
悠理がカーテンを開けると、窓の外には見慣れた街並みが広がっていた。
昨日、初雪が降った。
けれど、一晩明けた今、道路に雪はほとんど残っていない。屋根の隅や庭の植木に、ほんの少し白いものが見えるだけだった。
「……あっという間だな」
昨日の帰り道を思い出す。
空から落ちてきた白い雪。
嬉しそうに見上げていた澪の横顔。
そして、手袋越しにつないだ手。
どれも特別な出来事というほどではないのかもしれない。
それでも、悠理の中には、昨日の景色がはっきりと残っていた。
身支度を済ませて玄関を出る。
すると、隣の扉が開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
澪はいつも通り、黒いマフラーを巻いていた。
けれど、今日は玄関を出るなり、周囲をきょろきょろと見回している。
「……ほとんどなくなっていますね」
「雪?」
「はい」
澪は残念そうに空を見上げた。
「昨日は、あんなに降っていたのに」
「積もるほどじゃなかったからな」
「分かっていますけど……」
そこで言葉を切る。
「少しくらい、残っていてほしかったです」
「まあ、また降るだろ」
「……そうですね」
澪は小さく頷いた。
それから、悠理を見上げる。
「でも」
「ん?」
「昨日のことは、ちゃんと覚えています」
悠理は少し笑った。
「忘れるようなことでもないだろ」
「私にとっては、忘れたくないことです」
澪はそう言って、鞄を抱え直した。
「だから、大丈夫です」
雪は消えてしまった。
けれど、昨日の約束まで消えてしまったわけではない。
そう思うと、澪はもう一度、嬉しそうに笑った。
「行きましょうか」
「ああ」
二人は、いつもの道を歩き始めた。
◇
教室では、朝から冬休みの話題が飛び交っていた。
「もうすぐ冬休みかあ」
蓮が机に突っ伏しながら言う。
「まだ授業が残ってるだろ」
「分かってるけどさ。試験も終わったし、そろそろ休みたいんだよ」
「十分休んでるように見えるけどな」
「ひどくない?」
蓮が顔を上げた。
その向こうでは、灯が友人たちと楽しそうに話している。
「冬休み、何するの?」
「私は家族と出かけるかな」
「いいなあ。私は友達と遊びたい!」
「灯は?」
「私は買い物とか映画とか。あと、クリスマスもあるしね」
その言葉に、悠理は何となく耳を傾けた。
「クリスマスって、予定ある?」
「まだ全部は決まってないけど、あるよ」
灯がそう答えてから、こちらへ振り返った。
「そういえば、悠理は?」
「……何が?」
「クリスマス。何か予定あるの?」
「ある」
「えっ」
灯が目を丸くする。
「珍しい!」
「そこまで驚くことか?」
「だって、いつも休日は家で過ごしてそうじゃん」
「まあ、間違ってはいないけど」
「誰と行くの?」
その質問に、悠理は一瞬だけ迷った。
隠す必要はない。
けれど、わざわざ大きな声で言うのも違う気がした。
「……澪と」
「えっ?」
灯の声が少し大きくなる。
教室の一角が、ほんのわずかに静かになった。
隣の席では、澪の手が止まっていた。
「悠理と澪ちゃんが?」
「そうだけど」
「二人で?」
「ああ」
「……へえ」
灯はしばらく二人を交互に見ていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「そっか」
「何だよ」
「ううん。いいと思う!」
妙に明るい声だった。
「クリスマスなんだし、楽しんできなよ」
「……ああ」
灯はそれ以上追及せず、友人たちのところへ戻っていった。
悠理が隣を見る。
澪は教科書を開いたまま、こちらを見ていた。
「……どうかした?」
「いえ」
「何か言いたそうだけど」
「……その」
澪は周囲の様子を確かめ、声を落とした。
「クリスマスの予定、灯さんにも話したんですね」
「聞かれたからな」
「……そうですか」
澪は少し考えてから、そっと笑った。
「嫌ではありません」
「うん?」
「誰かに知られることです」
その声は穏やかだった。
「少し恥ずかしいですけど……隠したいわけではないので」
「そうか」
「はい」
澪は教科書へ視線を戻した。
そして、誰にも聞こえないくらいの声で付け加えた。
「……楽しみにしているので」
悠理は、返事の代わりに小さく頷いた。
◇
昼休み。
悠理が弁当を食べ終えた頃、澪が小さな紙袋を机の上に置いた。
「これ、どうぞ」
「……何?」
「昨日のお礼です」
「昨日?」
「初雪を一緒に見てくれたこと」
悠理は紙袋を見た。
中には、小さな焼き菓子が二つ入っていた。
「わざわざ用意したのか?」
「はい。朝、少し早く起きたので」
「……無理してない?」
「していません」
澪はすぐに首を横に振った。
「昨日、帰ってから作ったんです。簡単なものですし、ちゃんと寝ましたから」
「それならいいけど」
「安心しました?」
「ああ」
澪は嬉しそうに笑った。
「では、食べてください」
悠理は紙袋から一つ取り出した。
小さな丸い焼き菓子で、表面には粉砂糖が薄くかかっている。
一口食べる。
「……おいしい」
「本当ですか?」
「ああ」
「よかった……」
澪の表情が明るくなる。
「実は、少しだけ心配だったんです」
「何が?」
「甘さです。いつもより控えめにしたので」
「ちょうどいいよ」
「……よかったです」
澪は自分の分を取り出し、一口食べた。
それから、ふと思い出したように尋ねる。
「悠理くんは、甘いものは好きですか?」
「普通かな」
「普通?」
「嫌いじゃないけど、自分で買うほどでもない」
「なるほど……」
澪は何かを考えるように、少しだけ視線を落とした。
「それなら、覚えておきます」
「何を?」
「悠理くんの好きなものです」
「……そんなに大げさな話じゃないだろ」
「私には大切です」
また、そう言う。
澪は最近、時々こういうことを口にするようになった。
誰かのために何かを覚えておくこと。
誰かが喜ぶものを考えること。
以前の彼女にとって、それは期待に応えるための行動だったのかもしれない。
けれど今は、少し違う。
「……ありがとう」
悠理が言うと、澪は驚いたように顔を上げた。
「どういたしまして」
そして、照れくさそうに微笑んだ。
◇
放課後。
授業が終わると、二人は一緒に昇降口へ向かった。
校門を出たところで、澪が足を止める。
「悠理くん」
「ん?」
「少しだけ、寄り道してもいいですか?」
「いいよ。どこに?」
「本屋さんです」
「冬休みの本でも探す?」
「それもありますけど……」
澪は少しだけ笑った。
「今日は、悠理くんの好きそうな本も見てみたいんです」
「俺の?」
「はい」
「何で?」
「最近、悠理くんが読んでいる本の話を聞くことが増えたので」
確かに、以前より自分の趣味について話すようになった気がする。
映画のこと。
昔の作品のこと。
少し変わった設定の小説のこと。
澪はそのたびに、興味深そうに耳を傾けていた。
「……面白いかは分からないぞ」
「大丈夫です」
「難しいのもあるし」
「それでも、悠理くんが好きなものを知りたいです」
まっすぐな言葉だった。
悠理は少しだけ目を逸らした。
「……じゃあ、行くか」
「はい」
二人は駅前の本屋へ向かった。
◇
店内は、暖房が効いていて暖かかった。
入口には冬休み向けの特集コーナーがあり、旅行雑誌や新刊の小説が並んでいる。
「何を探せばいいんでしょう」
澪が棚を見渡す。
「別に、何でもいいよ」
「それが一番難しいんです」
「そんなに真剣に探さなくても」
「でも、せっかくなので」
澪は一冊ずつ表紙を眺めていく。
やがて、少し奥の棚で足を止めた。
「これは?」
手に取ったのは、昔の街を舞台にしたミステリー小説だった。
「それ、前に読んだことがある」
「面白かったですか?」
「うん。最初は地味だけど、最後まで読むと印象が変わる」
「……そういう話、好きなんですね」
「まあ」
澪はあらすじを読んでから、ページを数枚めくった。
「確かに、面白そうです」
「読んでみる?」
「はい」
澪は本を閉じ、棚に戻そうとした。
そのとき、悠理が口を開く。
「……よかったら、貸そうか?」
「え?」
「俺の家にあるから。少し古いけど」
澪は本を持ったまま、驚いたように悠理を見た。
「いいんですか?」
「もちろん」
「……嬉しいです」
澪は丁寧に本を棚へ戻した。
「では、今度貸してください」
「ああ」
「楽しみにしています」
本を借りる。
ただ、それだけの約束。
けれど、澪は何度もその言葉を口の中で確かめるように、小さく頷いていた。
◇
本屋を出る頃には、空が薄い橙色に染まっていた。
昨日の雪は、もうほとんど残っていない。
歩道の隅に、ほんのわずかな白い塊が見えるだけだった。
澪はそれを見つけて、少しだけ足を緩めた。
「……本当に、溶けてしまいましたね」
「ああ」
「昨日は、あんなに嬉しかったのに」
「雪が?」
「はい」
澪は白い塊を見つめる。
「少し寂しいです」
「また降るだろ」
「そうですね」
それから、悠理を見た。
「……でも、昨日のことがなくなるわけではありませんから」
「ああ」
「来年になっても、たぶん覚えています」
「俺も覚えてるよ」
澪の目が、少しだけ大きくなった。
「……本当ですか?」
「ああ。約束しただろ」
「……はい」
澪は微笑んだ。
「では、来年も覚えていてくださいね」
「分かった」
「その次も」
「……気が早いな」
「いいじゃないですか」
澪は少しだけ頬を膨らませた。
「約束は、多いほうがいいです」
「そうか?」
「はい」
澪は歩き始めた。
「だって、約束があれば、その先の楽しみが増えますから」
悠理は隣に並んだ。
そうなのかもしれない。
次に会う約束。
一緒に出かける約束。
雪が降ったら一緒に見る約束。
そして、来年も隣にいる約束。
まだ実現していない未来が、少しずつ増えている。
以前の悠理なら、そんな先のことを考えるのは得意ではなかった。
けれど今は。
澪が当たり前のように未来の話をするたび、その景色を想像してしまう。
来年の春。
また暖かくなった頃。
夏祭りの季節。
そして、次の冬。
その隣に澪がいることを。
「……そうだな」
悠理が答えると、澪は嬉しそうに笑った。
◇
家の前に着く。
いつものように、二人の玄関は隣り合っている。
「今日はありがとうございました」
澪が言った。
「本屋に寄っただけだろ」
「それだけじゃありません」
「……そう?」
「はい」
澪は少しだけ迷ったあと、素直に言葉を続けた。
「私の好きなことだけではなくて、悠理くんの好きなことも、もっと知りたいと思ったんです」
「……」
「だから、今日は楽しかったです」
悠理は少し考えてから答えた。
「俺も、澪の好きなものをもっと知りたいよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
澪は目を伏せた。
そして、小さく笑った。
「……ずるいです」
「またか」
「だって、そんなことを言われたら」
澪はマフラーに口元を埋める。
「もっと、いろいろ話したくなってしまいます」
「話せばいいだろ」
「……はい」
しばらく、二人はその場に立っていた。
別れたくないわけではない。
明日になれば、また会える。
それでも、あと少しだけ話していたいと思う。
そんな気持ちが、二人の間には自然に生まれていた。
「では、また明日」
「ああ。また明日」
澪が玄関の扉を開ける。
中へ入る直前、もう一度だけ振り返った。
「悠理くん」
「ん?」
「クリスマス、楽しみにしています」
「俺も」
澪は満足そうに笑って、扉を閉めた。
悠理も自分の部屋へ戻る。
机の上には、読みかけの小説が置かれていた。
今度は、あれを貸すことになる。
澪がどんな感想を言うのか、少しだけ気になった。
もしかすると、自分とは違うところに面白さを見つけるかもしれない。
そう考えると、また少し楽しみになった。
雪は消えてしまった。
昨日と同じ景色が戻ってきた。
けれど、二人の間に残ったものは、雪だけではなかった。
思い出したいこと。
知りたいこと。
一緒に楽しみにしたいこと。
それらは、雪が溶けても消えることなく、少しずつ積み重なっていく。
そして、次に雪が降る日も。
二人はきっと、同じ空を見上げるのだろう。
そんな未来を、今は自然に思い描くことができた。




