第五十九話 初雪を見上げた日
その朝、窓の外はいつもより白く霞んでいた。
雲が低い。
風も冷たい。
悠理はカーテンを開けたまま、しばらく空を眺めていた。
天気予報では、午後から気温が下がると言っていた。山沿いでは雪になる可能性もあるらしい。
この辺りで降るとしても、まだ先だと思っていた。
「……そろそろか」
先日、澪と話したことを思い出す。
雪が降ったら、一緒に見に行く。
ただそれだけの約束だった。
けれど、彼女がどれほど楽しみにしているのかは、よく知っている。
悠理は身支度を整え、玄関を出た。
すると、ほとんど同時に隣の扉が開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
澪はコートの前をきちんと留め、いつもの黒いマフラーを巻いていた。
灰色の手袋も忘れていない。
「今日は一段と寒いですね」
「ああ。午後からもっと冷えるらしい」
「そうなんですか?」
「雪が降るかもしれないって」
「……雪」
澪の足が、一瞬だけ止まった。
そして、ゆっくり悠理を見る。
「本当ですか?」
「天気予報が言ってただけだけどな」
「そう、ですか」
澪は少し考え込むように空を見上げた。
期待しているのが、表情だけで分かる。
「……降るといいですね」
「ああ」
「でも、あまり寒くなりすぎるのは困ります」
「どっちなんだ」
「雪は見たいです。でも、寒いのは苦手です」
「難しいな」
「難しいんです」
澪は真剣な顔で頷いた。
その様子がおかしくて、悠理は小さく笑った。
「まあ、降ったら一緒に見よう」
「……はい」
澪の顔が、ぱっと明るくなった。
「約束ですからね」
「ああ。覚えてるよ」
「よかったです」
その一言を聞いて、澪は満足そうに微笑んだ。
学校へ向かう二人の足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
◇
午前中の授業は、いつも通りに進んだ。
窓の外の空は、時間が経つにつれて暗くなっていく。
休み時間になるたび、澪がちらりと窓へ視線を向けていることに、悠理は気づいていた。
「そんなに気になる?」
昼休み、弁当を広げながら尋ねる。
「……何がですか?」
「外」
「別に、気にしていません」
「そう?」
「はい」
澪はそう答えたあと、数秒ほど黙った。
それから、ほんの少しだけ窓のほうを見た。
「……少しだけです」
「やっぱり」
「だって、初雪ですよ?」
「まだ降ってないけどな」
「これから降るかもしれません」
「そうだな」
澪は箸を置いて、少しだけ考えた。
「初雪って、一年に一度しかありませんよね」
「まあ、そうだな」
「だから、見逃したくないんです」
その言葉は、いつもの彼女らしいものだった。
澪は、思い出を大切にする。
夏祭りも、文化祭も、図書室で過ごした時間も、藤色のメモ帳に残している。
きっと雪も、同じなのだろう。
「降ったら教えるよ」
悠理がそう言うと、澪は少し驚いたように顔を上げた。
「……悠理くんも、一緒に見てくださいね」
「もちろん」
「離れたところから、後で教えるだけでは駄目です」
「そんなことしないよ」
「なら、よかったです」
澪は安心したように笑った。
そのとき、前の席から蓮が振り返った。
「何の話?」
「雪の話」
「雪?」
蓮は窓の外を見る。
「お、本当に降りそうな空だな」
「そうでしょう?」
なぜか澪が少し得意げに答えた。
「いや、何で澪さんが得意げなんだよ」
「……何となくです」
「何となくか」
蓮は笑って、再び前を向いた。
その直後、教室の後ろから灯が声を上げた。
「あ、雪!」
一斉に何人もの生徒が窓を振り返った。
悠理も顔を上げる。
窓ガラスの向こう。
灰色の空から、小さな白いものが一つ、ゆっくりと落ちてきた。
続いて、もう一つ。
風に流されながら、頼りなく揺れている。
「本当に降ってきた……!」
澪が呟いた。
その声は、いつもの彼女より少しだけ幼く聞こえた。
悠理は隣を見た。
澪は窓の外に目を向けたまま、瞬きも忘れたように雪を見つめていた。
その横顔が、ひどく嬉しそうだった。
◇
放課後。
授業が終わる頃には、雪は一度止んでいた。
校庭の隅には、まだ何も積もっていない。
窓から見える景色も、普段とそれほど変わらなかった。
それでも、澪は帰りの準備をいつもより早く終えていた。
「悠理くん」
「ん?」
「……まだ降りますかね」
「どうだろうな」
「天気予報では?」
「夕方も可能性はあるらしい」
「そうですか……」
澪は少しだけ残念そうに窓の外を見る。
悠理は鞄を肩に掛けた。
「帰りながら待ってみる?」
澪がこちらを向いた。
「……いいんですか?」
「別に、急ぐ予定もないし」
「でも、雪が降るとは限りませんよ」
「それなら、降らなかったら普通に帰ればいい」
澪はしばらく黙っていた。
やがて。
「……そうですね」
小さく頷く。
「一緒に待ちたいです」
二人は昇降口を出た。
冷たい風が吹き抜ける。
空はまだ灰色だったが、ところどころ雲が薄くなっている。
雪が降るのか。
それとも、今日はもう終わりなのか。
誰にも分からなかった。
◇
帰り道。
二人はいつもの道を、ゆっくり歩いていた。
澪は何度も空を見上げている。
「首、痛くならないか?」
「大丈夫です」
「ずっと見てるけど」
「見ていないと、降ったときに気づけませんから」
「スマートフォンで確認すればいいんじゃないか?」
「違います」
澪がきっぱりと言った。
「自分の目で見たいんです」
悠理は小さく笑った。
「そっか」
「はい」
少し歩く。
その間も、雪は降らなかった。
澪の表情が、少しずつ落ち着いていく。
「……今日は、もう降らないかもしれませんね」
「そうかもな」
「残念です」
「でも、昼間に見られたんだし」
「……そうなんですけど」
澪はマフラーの端を握った。
「一緒に見たかったんです」
その言葉を聞いて、悠理は足を緩めた。
「昼間も一緒に見ただろ」
「そうですけど」
澪は少し困ったように笑う。
「学校では、皆さんも一緒でしたから」
「うん」
「二人で見るのとは、少し違う気がして」
「……そうか」
「変ですよね」
「いや」
悠理は首を横に振った。
「分かる気がする」
澪が顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ」
学校で見る雪も、帰り道で見る雪も、同じものだ。
けれど、誰と、どこで、どんな気持ちで見たかによって、その記憶は変わる。
きっと澪は、その違いを大切にしたいのだろう。
「じゃあ、もう少しだけ歩こう」
「……はい」
二人は再び歩き始めた。
◇
住宅街へ入る手前。
風が少し強くなった。
澪が寒そうに肩をすくめる。
「大丈夫?」
「はい。手袋もしていますから」
「無理はするなよ」
「分かっています」
澪はそう答えて、ふと空を見上げた。
そして。
「あ……」
立ち止まった。
悠理も空を見る。
小さな白い粒が、ひとつ。
ふたつ。
さっきよりもはっきりと、目の前を落ちていった。
街灯の光に照らされて、雪がゆっくりと舞っている。
今度は、すぐに止みそうになかった。
「……降ってきましたね」
澪の声が震えた。
寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか。
悠理には分からなかった。
ただ、彼女がどれほど嬉しそうにしているかは分かった。
「初雪だな」
「……はい」
澪は空を見上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。
白い息が、舞い落ちる雪と重なって消える。
「綺麗……」
その声は、とても小さかった。
悠理は隣に立ち、同じ空を見上げる。
積もるほどの雪ではない。
道路も、建物の屋根も、まだいつも通りだ。
けれど、二人の間を雪が静かに通り過ぎていく。
それだけで、十分だった。
「……悠理くん」
「ん?」
「一緒に見られましたね」
「ああ」
「約束、叶いました」
「そうだな」
澪は少しだけ顔を伏せた。
そして、灰色の手袋をした手を、そっと差し出した。
「……手をつないでもいいですか?」
悠理はその手を取った。
「ああ」
手袋越しに、温度が伝わる。
以前よりも自然に。
けれど、今も確かに嬉しいと思える温度だった。
「……暖かいです」
「手袋のおかげだろ」
「それもありますけど」
澪は小さく笑った。
「それだけではありません」
悠理は何も言わなかった。
ただ、彼女の手を離さないまま、雪を見上げていた。
◇
雪は、数分ほどで弱くなった。
それでも、二人はすぐには歩き出さなかった。
澪は空を見上げ、それから鞄から藤色のメモ帳を取り出した。
「今、書くのか?」
「はい」
「手、冷えるぞ」
「少しだけです」
澪は手袋を外さず、メモ帳を開いていたページに、なんとか短い文字を書き込んだ。
少し不格好な字になっていた。
けれど、彼女は満足そうに頷いた。
「何て書いたんだ?」
澪は少しだけ迷ったあと、メモ帳を悠理へ向けた。
そこには。
『初雪を、悠理くんと一緒に見た』
と書かれていた。
「……そのままだな」
「はい」
「もっと何か書いてもいいんじゃないか?」
「例えば?」
「綺麗だったとか、寒かったとか」
「それも、後で書きます」
澪はメモ帳を閉じた。
「でも、一番大切なのはこれなので」
「……そっか」
「はい」
澪はメモ帳を鞄へしまう。
それから、つないだ手を少しだけ握り直した。
「悠理くん」
「ん?」
「来年の初雪も」
少しだけ間を置いて。
「一緒に見られたら、嬉しいです」
悠理は、すぐに答えた。
「ああ。一緒に見よう」
澪がこちらを向く。
その瞳が、柔らかく細められた。
「……約束ですよ」
「約束」
何度も交わしてきた言葉。
けれど、今日の約束には、一年先の時間が含まれていた。
来年も、隣にいる。
その約束を、今は疑わずに口にできる。
それが、悠理には少し不思議だった。
雪が止みかけた道を、二人は再び歩き始めた。
家までは、もうそれほど遠くない。
けれど、いつもより少しだけゆっくり歩いた。
今日のことを、少しでも長く覚えていたかったから。
冬はこれから本格的に寒くなる。
クリスマスも、冬休みも、まだ先だ。
これから何があるのかは、まだ分からない。
それでも。
今日、初雪を一緒に見たという記憶は、確かに二人の間に残った。
澪が大切にしている藤色のメモ帳にも。
そして、悠理の心の中にも。
静かに降る雪のように。
音もなく。
けれど、消えないものとして。




