第五十八話 君と出かける日のために
翌朝。
悠理が目を覚ますと、窓の外は薄い雲に覆われていた。
冬らしい、静かな朝だった。
昨日、澪とクリスマスの予定を決めた。
商店街のイルミネーションを見に行くこと。
その前に、二人で昼食を食べること。
たったそれだけの約束だ。
それなのに、朝になっても昨日の会話が頭に残っていた。
「……楽しみ、か」
自分で口にしてみて、少しだけ気恥ずかしくなる。
誰かと出かける予定なら、これまでにもあった。友人と遊びに行ったこともあるし、休日に一人で本屋へ寄ることもある。
けれど、今回は少し違う。
いつ、どこへ行くのかを考えるだけで、自然と澪の顔が浮かぶ。
何を食べたら喜ぶだろう。
イルミネーションを見たら、どんな表情をするだろう。
寒がりだから、長く外にいると疲れてしまうかもしれない。
そんなことまで考えている自分に気づき、悠理は小さく息を吐いた。
「……考えすぎだろ」
そう呟いて、ベッドから起き上がる。
けれど、口元に浮かんだ笑みまでは消せなかった。
◇
玄関を出ると、隣の扉が開くところだった。
「あっ、おはようございます」
「おはよう」
澪はいつもの黒いマフラーを巻いていた。
冬の寒さに備えたコートと、淡い灰色の手袋。
最近では、その格好を見るだけで、なんとなく安心するようになっていた。
「今日は少し曇っていますね」
「ああ。雨は降らないらしいけど」
「よかったです」
「何か予定でもあるのか?」
「いえ、特には」
澪はそこで一度言葉を切った。
「……ただ、雨だと寒いので」
「確かに」
「それに、雨の日は少しだけ帰り道が寂しく感じることがあります」
「一緒に帰るのに?」
悠理が何気なく尋ねると、澪は一瞬だけ目を丸くした。
「……そうですね」
「?」
「今は、悠理くんと一緒に帰れますから」
澪はほんの少し頬を赤くして、前を向いた。
「雨が降っても、以前ほど寂しくないと思います」
「……そっか」
悠理はそれ以上何も言わなかった。
ただ、隣を歩く彼女が嬉しそうにしているのを見て、自分も少し嬉しくなった。
◇
教室に着くと、蓮が机に頬杖をついていた。
「おはよう」
「おはよう」
悠理が席に鞄を置く。
蓮はそのまま、何気ない様子で尋ねてきた。
「そういえば、もうすぐクリスマスだな」
「そうだな」
「お前、何か予定ある?」
「……まあ」
「まあ?」
蓮が目を細める。
「その反応、あるんだな」
「別に隠してないだろ」
「じゃあ誰と?」
「……」
「はい、沈黙」
「朝からうるさいな」
悠理が呆れたように返すと、蓮は声を立てて笑った。
「いや、いいことじゃん。冬休み前くらい、楽しみがあってもいいだろ」
「そういうお前は?」
「俺? 俺は友達と遊ぶ予定」
「なら、人の予定を気にするなよ」
「気になるだろ。いつも図書室にいるお前が、わざわざ予定を入れたんだから」
蓮は楽しそうだった。
悠理はこれ以上相手にしないことにして、教科書を取り出す。
そのとき、隣の席から小さな声がした。
「……クリスマス」
振り向くと、澪がノートを開いていた。
こちらを見ているわけではない。
けれど、耳が少しだけ赤い。
「澪?」
「は、はい?」
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
少し間があって。
「……楽しみですね」
澪は教科書へ視線を落としたまま、そう付け加えた。
悠理は一瞬、返事を忘れた。
「ああ。そうだな」
それだけ答えると、澪はほっとしたように微笑んだ。
そのやり取りを見ていた蓮が、何か言いたそうに口を開きかけたが、悠理と目が合うと、何も言わずに肩をすくめた。
◇
昼休み。
弁当を食べ終えた澪が、鞄からスマートフォンを取り出した。
「悠理くん」
「ん?」
「クリスマスの日のことなのですが」
「ああ」
「少し、調べてみました」
画面には、商店街のイベント情報が表示されていた。
「イルミネーションは夕方からみたいです。広場のツリーも、その時間に点灯するそうです」
「じゃあ、昼過ぎに待ち合わせればいいかな」
「はい。私もそう思っていました」
澪は頷き、それから少し迷うように視線を落とした。
「それと……お昼ご飯なのですが」
「うん」
「どこか、行きたいお店はありますか?」
「特にはないな。澪は?」
「私も、まだ決めていません」
「じゃあ、商店街で探してみる?」
「……一緒に?」
「そのつもりだけど」
澪がぱちぱちと瞬きをした。
そして、じわじわと頬が赤くなっていく。
「……そう、ですよね」
「嫌だった?」
「違います!」
少し大きな声が出た。
近くにいたクラスメイトがこちらを見る。
澪は慌てて声を落とした。
「嫌なわけ、ありません」
「ならよかった」
「ただ……」
「うん?」
澪は手元のスマートフォンを見つめた。
「私は、最初からお店を決めておくものだと思っていました」
「決めてもいいけど、歩きながら気になったところに入るのも楽しそうだろ」
「……はい」
「食べたいものがあれば、その店に行けばいいし」
「そうですね」
澪の表情が、少しずつ柔らかくなる。
「そういう決め方も、いいですね」
「ああ」
「では、当日までにいくつか候補を考えておきます」
「俺も調べておくよ」
「本当ですか?」
「うん」
「……ありがとうございます」
澪は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、悠理はふと思った。
彼女は、何かを決めるとき、いつも失敗しないように考えている。
勉強も、学校の仕事も、人との付き合いも。
誰かに迷惑をかけないように。
期待を裏切らないように。
けれど、今は違う。
二人で迷うことも、二人で決めることも、彼女は楽しみにしている。
それが、少し嬉しかった。
◇
放課後。
授業を終えた二人は、久しぶりに図書室へ向かった。
試験前のように勉強をするためではない。
クリスマスの予定を、もう少し具体的に決めるためだった。
「何か、調べたい本でもあるのか?」
悠理が尋ねると、澪は首を横に振った。
「今日は、こちらです」
取り出したスマートフォンには、商店街の地図が表示されていた。
「……本当に調べてきたんだな」
「はい。せっかくなので」
澪は画面を拡大する。
「ここが駅前の広場です。イルミネーションは、この通りに沿って設置されるみたいです」
「結構長いな」
「全部歩くと、少し時間がかかるかもしれません」
「寒くなったら店に入ればいいだろ」
「……」
澪の指が止まった。
「どうした?」
「いえ」
澪は少しだけ顔を伏せる。
「悠理くんは、私が寒がりなのをよく覚えていますね」
「そりゃ、何度も聞いてるからな」
「……そうでした」
澪は笑った。
「でも、覚えていてくれるのは嬉しいです」
「忘れる理由もないだろ」
何気なく返した言葉だった。
けれど、澪はしばらく黙っていた。
「……悠理くん」
「ん?」
「私、当日はちゃんと暖かい格好をしてきます」
「そうしてくれ。風邪を引いたら大変だし」
「はい」
澪は頷く。
そして、少しだけいたずらっぽい表情になった。
「でも、もし寒くなったら」
「うん?」
「温かい飲み物を買ってください」
「自分で買えばいいだろ」
「……そこは、買ってくれるところではないんですか?」
「欲しいなら買うよ」
「……ふふ」
澪は楽しそうに笑った。
「では、そのときはお願いします」
「分かった」
「約束ですよ」
「ああ、約束」
メモ帳を取り出した澪が、何かを書き留める。
「何を書いたんだ?」
「秘密です」
「またか」
「はい。またです」
そう言いながら、澪は少しだけメモ帳をこちらへ傾けた。
そこには、小さな文字でこう書かれていた。
『寒くなったら、温かい飲み物』
悠理がそれを読むと、澪は照れたように笑った。
「……これは、忘れたくないので」
「そんなことまで書くのか」
「そんなことだからです」
澪はメモ帳を大切そうに閉じた。
「きっと、あとで読み返したら、今日のことも思い出せますから」
悠理は、その言葉を聞いて少しだけ考えた。
彼女にとって、思い出を残すことは、ただ過去を振り返るためだけではない。
その日、そのとき、自分が確かに嬉しかったことを、未来の自分にも伝えたいのだろう。
「……じゃあ、俺も覚えておくよ」
「何をですか?」
「当日、澪が寒くなったら飲み物を買うこと」
澪は目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「それなら、メモ帳に書かなくても大丈夫ですね」
「ああ」
「悠理くんが覚えていてくれるなら」
そう言って。
澪は、いつもより少し長く悠理を見つめていた。
◇
図書室を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
校舎の窓に映る二人の姿が、廊下の照明にぼんやりと浮かんでいる。
「今日は、いろいろ決まりましたね」
「ああ」
「待ち合わせの時間も、お昼のことも」
「まだ時間はちゃんと決めてないけどな」
「それは明日でも大丈夫です」
「そうだな」
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
冷たい風が吹いていた。
澪はマフラーを巻き直し、手袋をした指先を重ねた。
「……もう少しで、クリスマスですね」
「そうだな」
「その前にも、学校がありますけど」
「ああ」
「毎日会えるんですね」
その言い方が、妙に嬉しそうだった。
「学校があるからな」
「……そうでした」
澪は小さく笑う。
少し歩いてから、ふいにこちらを見た。
「悠理くん」
「ん?」
「クリスマスの日」
「うん」
「一緒に出かけるの、楽しみにしています」
以前なら、こういう言葉を口にする前に、何度も迷っていたのかもしれない。
でも今は、伝えたいと思ったことを、少しずつ言葉にできるようになっている。
悠理は澪の目を見て答えた。
「俺も、楽しみにしてる」
「……本当ですか?」
「本当」
澪はしばらく悠理を見つめていた。
それから、安心したように微笑んだ。
「よかったです」
二人はまた歩き始める。
手をつなぐこともできた。
けれど、今日は何となく、このまま並んで歩いていたかった。
肩が触れそうで、触れない距離。
言葉がなくても、隣にいることが分かる距離。
クリスマスの日には、今日よりもう少し長い時間、一緒に過ごすことになる。
それを想像すると、少しだけ照れくさい。
それでも。
その日が来ることを、二人とも楽しみにしていた。
◇
家の前に着く。
「では、また明日」
「ああ。また明日」
澪が玄関へ向かいかけたところで、ふと思い出したように振り返った。
「……あ、そうでした」
「どうした?」
「当日の待ち合わせ場所、駅前でいいですか?」
「いいよ。時間は、あとでメッセージする」
「分かりました」
澪は頷き、少しだけ笑った。
「では、本当にまた明日」
「ああ」
今度こそ、扉が閉まった。
悠理は自分の部屋へ戻り、鞄を置く。
スマートフォンを取り出すと、澪からメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました。クリスマスの予定を一緒に考えられて、楽しかったです』
その下に、もう一通。
『当日まで、いろいろ考えてみますね』
悠理は少し笑って、返信した。
『俺も調べておく。楽しみにしてる』
送信すると、すぐに既読がついた。
そして。
『はい。楽しみにしています』
短い返事。
それだけで、今日は十分だった。
悠理はスマートフォンを机に置き、窓の外を眺めた。
冬の夜空は暗い。
まだ雪は降っていない。
初雪を一緒に見るという約束も、これからだ。
クリスマスまで、もう少し。
それまでの毎日も、きっと今までと変わらず続いていく。
朝になれば会える。
授業を受けて、昼休みに話して、放課後には一緒に帰る。
特別なことがなくても、隣には澪がいる。
けれど。
今度の約束には、まだ知らない時間が待っている。
どんな店に入るのか。
何を食べるのか。
イルミネーションを見たら、澪はどんな顔をするのか。
そんなことを考えながら、悠理は小さく笑った。
楽しみな日を待つ時間も。
その日へ向かっていく毎日も。
もう、二人にとっては大切な思い出の一部になり始めていた。




