第五十六話 返ってきた答え
試験が終わってから、数日が経った。
朝の空気は、さらに冷たくなっていた。
吐く息はもう、はっきりと白い。
学校へ向かう道の木々はほとんど葉を落とし、空は高く澄んでいる。
悠理はいつものように歩いていた。
そして、少し先から見慣れた姿が近づいてくる。
「おはようございます」
「おはよう」
澪だった。
黒いマフラー。
淡い灰色の手袋。
冬の装いも、すっかり見慣れてきた。
「今日は少し寒いですね」
「ああ」
「昨日より寒い気がします」
「朝の気温、かなり下がったらしい」
「そうなんですね」
澪はそう言って、手袋をした両手を少し重ねた。
「でも」
「ん?」
「試験が終わったので、気分は少し暖かいです」
「分かる」
「ですよね」
そんな他愛のない会話をしながら学校へ向かう。
以前なら、学校へ着くまでほとんど話さなかった。
今では。
朝のこの時間も、二人にとって大切な日常になっている。
◇
教室に入ると、いつもよりざわついていた。
「今日、返ってくるらしいぞ」
「何が?」
「試験」
蓮が机に肘をついている。
「もう採点終わったのか」
「先生、昨日遅くまでやってたって」
「早いな」
「俺は見たくないけどな」
蓮がため息をつく。
悠理は席に座る。
隣では澪が静かに教科書を机の中へしまっていた。
「澪はどうだった?」
「普通です」
「普通?」
「はい」
「それなら大丈夫そうだな」
「悠理くんは?」
「普通」
「……同じですね」
二人で少し笑う。
そのとき。
教室の前の扉が開いた。
「はい、席につけ」
担任が答案の束を持って入ってくる。
教室が一気に静かになった。
「先に言っておくが、今回の平均は少し低かった」
あちこちから小さな声が上がる。
「なので、悪かったからといって落ち込むな。次に繋げればいい」
そう言って。
一人ずつ答案が返されていく。
悠理も自分の名前を呼ばれ、答案を受け取る。
「……まあ、こんなものか」
大きく崩れてはいない。
それを確認して、次に隣を見る。
澪も答案を受け取ったところだった。
「どうだった?」
「……」
澪が答案を見ながら、少しだけ目を伏せる。
「数学が思ったより低かったです」
「そうなのか」
「はい」
悠理が点数を見る。
「でも十分高いだろ」
「でも、前より下がっています」
「前と比べなくていいんじゃないか」
「……」
澪が顔を上げる。
「どうしてですか?」
「今回は文化祭も公開授業もあったし」
「……」
「それでもちゃんと勉強しただろ」
澪はしばらく黙って。
「……そうでしたね」
「ああ」
「でも」
「ん?」
「悔しいです」
意外な答えだった。
澪は答案を見つめる。
「完璧にできなかったことが、少し悔しいです」
「澪」
「はい」
「それ」
悠理は少しだけ笑う。
「前なら、もっと自分を責めてただろ」
澪が黙る。
「……そうかもしれません」
「でも今は?」
「悔しいですけど」
澪は少し考えてから。
「次に頑張ればいいと思えます」
「なら、それで十分だろ」
澪の表情が、少しずつ柔らかくなる。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
◇
昼休み。
蓮が答案を机の上に広げていた。
「終わった」
「何が?」
「俺の学生生活」
「大袈裟だな」
「数学、赤点じゃなかっただけ奇跡」
悠理は苦笑する。
その横で、澪が弁当を食べながら言った。
「蓮くん、昨日一緒に勉強したところですよね」
「そうなんだけどさ」
「じゃあ、復習すれば大丈夫ですよ」
「澪さん、優しい」
「普通です」
「悠理、お前も何か言ってくれ」
「復習しろ」
「冷たい」
澪が笑う。
その笑い声を聞いて。
悠理も自然と笑っていた。
「……最近、本当に変わったな」
蓮がぽつりと言う。
「何が?」
「教室の空気」
「そうか?」
「ああ」
蓮は二人を見ながら続ける。
「前は澪さんって、話しかけづらい感じがあったけど」
「……」
「今は普通に笑ってる」
澪が少しだけ驚いた顔をする。
「そうですか?」
「ああ」
蓮は笑った。
「なんか、いいことあったみたいな顔してる」
澪は少しだけ悠理を見る。
その視線に。
悠理も気づいた。
けれど。
何も言わなかった。
ただ、澪は少しだけ嬉しそうに笑った。
◇
放課後。
今日は図書室へ行く予定ではなかった。
試験が終わった直後なのだから、少しのんびりしようという話になっていた。
「どこ行きますか?」
澪が聞く。
「前に行った喫茶店は?」
「行きたいです」
「じゃあ、そこにするか」
「はい」
二人で学校を出る。
冷たい風が吹く。
澪はマフラーを巻き直す。
「そういえば」
「ん?」
「冬休みの予定」
「ああ」
「少し増えました」
「何が?」
「この前話した二日間以外にも」
「もう決めたの?」
「まだ候補です」
澪は指を折りながら数える。
「イルミネーション」
「うん」
「映画」
「ああ」
「本屋さん」
「うん」
「カフェ」
「それも」
「雪が降ったら公園」
「約束したな」
「それと」
澪が少しだけ迷う。
「クリスマス」
悠理が足を止めかけた。
「クリスマス?」
「はい」
「何かしたい?」
「……」
澪は少し恥ずかしそうに頷く。
「せっかくなので」
「何する?」
「まだ決めていません」
「じゃあ、それも一緒に考えるか」
「……はい」
澪は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
◇
喫茶店に着く。
いつもの席。
二人で向かい合う。
注文した飲み物が届いてから。
澪が鞄から藤色のメモ帳を取り出した。
「また増えるな」
「はい」
「予定ばかりになってない?」
「大丈夫です」
澪はページを開く。
そして、新しいページにゆっくり文字を書く。
『冬休み』
その下に。
『イルミネーション』
『映画』
『本屋』
『カフェ』
『初雪』
『クリスマス』
悠理はそれを見て。
「多いな」
「まだ増えますよ」
「まだ?」
「はい」
「どこまで増やすんだ」
澪は少し考えて。
「春まで」
「……気が早いな」
「だって」
澪はメモ帳を閉じる。
「冬が終わる頃には、春が来るので」
「そうだな」
「だから」
少しだけ笑って。
「春になっても、一緒にいたいです」
悠理は一瞬だけ言葉を失った。
「……ああ」
「本当ですか?」
「ああ」
澪の表情が柔らかくなる。
「よかった」
◇
帰り道。
空はもう暗くなっていた。
街灯が一定の間隔で道を照らしている。
「今日、楽しかったです」
「試験結果が返ってきただけなのに?」
「それも含めて」
「変わってるな」
「そうですか?」
「うん」
悠理は少し笑った。
「でも、俺も楽しかった」
「……」
澪がこちらを見る。
「それならよかったです」
しばらく歩いて。
いつもの場所で。
澪が手を差し出す。
悠理も、その手を取る。
もう、驚かない。
照れはする。
でも。
それ以上に自然だった。
「悠理くん」
「ん?」
「今日の点数」
「うん」
「最初は、少し落ち込んでいました」
「ああ」
「でも」
澪がつないだ手を少しだけ握る。
「一緒に帰っていたら、どうでもよくなりました」
「それは良いのか?」
「たぶん、良いです」
澪は笑った。
「点数は変わりませんけど」
「うん」
「次は頑張れます」
「ああ」
「だから」
澪は前を向いた。
「また次も、一緒に頑張ってください」
「もちろん」
冷たい風が二人の間を通り過ぎる。
けれど。
つないだ手は離れない。
試験の結果は、もう変えられない。
それでも。
次はどうするのか。
その先を誰かと一緒に考えられることが。
以前の澪にはなかったものだった。
そして。
それは悠理にとっても同じだった。
今日より明日。
明日より、その先。
二人で積み重ねていく時間は。
冬の寒さの中でも、少しずつ温かくなっていた。




