第五十五話
朝。
目覚ましが鳴る少し前に、悠理は目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
昨日よりも空気が冷たい。
ベッドから起き上がり、窓の外を見る。
空は灰色だった。
雪が降るほどではない。
けれど。
冬がすぐそこまで来ていることだけは、はっきりと分かった。
「……今日か」
期末試験。
昨日まで積み重ねてきた勉強の結果を出す日だ。
悠理は制服に着替える。
机の上には、昨夜まで使っていた問題集が置かれていた。
その横には。
スマートフォン。
昨日、澪と交わした最後のメッセージが残っている。
『約束』
たったそれだけ。
それなのに。
今日は、それが妙に心強かった。
◇
玄関を出る。
ほとんど同じタイミングで、隣の扉が開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
澪だった。
昨日までと同じコート。
いつもの黒いマフラー。
灰色の手袋。
けれど。
今日は少しだけ眠そうに見える。
「ちゃんと寝た?」
「はい」
「本当に?」
「……六時間くらい」
「それなら大丈夫だな」
「悠理くんは?」
「同じくらい」
「よかったです」
「何で?」
「試験の日に寝不足だと大変ですから」
「澪らしいな」
澪が少し笑った。
「今日、頑張りましょうね」
「ああ」
「そして」
澪が少しだけ声を弾ませる。
「終わったら」
「うん」
「冬休みの予定を決めましょう」
「それが楽しみなんだろ?」
「……はい」
素直な返事だった。
二人は並んで学校へ向かった。
◇
一時間目。
試験が始まる。
教室の空気が一気に変わった。
普段なら聞こえる小さな話し声もない。
紙をめくる音。
シャープペンシルが答案用紙を走る音。
時計の針が進む音。
それだけだった。
悠理は問題を一問ずつ解いていく。
昨日まで勉強した内容が、少しずつ頭の中から出てくる。
難しい問題もある。
迷う問題もある。
それでも。
できることはやった。
ふと隣を見る。
澪は真剣な表情で問題を解いていた。
前髪が少しだけ目元に落ちている。
いつもより緊張しているように見える。
けれど。
その手は止まっていない。
悠理はそれを確認して、再び自分の答案へ目を戻した。
◇
二時間目。
三時間目。
四時間目。
試験は続いていく。
最後の教科が終わる頃には。
教室全体から、ようやく長い息が漏れた。
「終わった……」
「やっとかよ」
「死ぬかと思った」
あちこちから声が上がる。
蓮は机に突っ伏していた。
「もう無理」
「まだ採点されてないぞ」
「だからこそ無理なんだよ」
悠理は苦笑する。
隣では、澪が静かに筆箱を片付けていた。
「終わりましたね」
「ああ」
「……長かったです」
「頑張ったな」
「悠理くんもです」
澪が微笑む。
それだけで。
試験が終わった実感が少し強くなった。
◇
放課後。
普段なら二人で図書室へ向かう時間。
でも。
今日は誰も勉強する必要がない。
「どうしますか?」
澪が聞く。
「何が?」
「帰るのは、少しもったいない気がします」
「分かる」
「ですよね」
少し考える。
「どこか寄る?」
「はい」
「カフェとか」
「行きたいです」
「じゃあ決まり」
二人で学校を出る。
冷たい風が吹いていた。
「試験が終わっただけなのに」
澪が言う。
「すごく自由になった気がします」
「分かる」
「昨日まで、ずっと勉強していましたから」
「今日くらいは休んでいいだろ」
「では」
澪が少し笑う。
「今日は何も考えずに楽しみます」
「ああ」
「それと」
「ん?」
「冬休みのことも」
「忘れてないな」
「絶対に忘れません」
◇
二人はいつもの喫茶店に入った。
窓際の席。
以前なら、少し緊張して座っていた場所。
今では。
自然に向かい合っている。
「何にしますか?」
「俺はコーヒー」
「私は紅茶にします」
注文を終える。
飲み物が来るまでの時間。
澪は鞄から小さな藤色のメモ帳を取り出した。
「また書くの?」
「はい」
「試験終わったこと?」
「それもです」
「何を書くんだ?」
澪は少し迷って。
「冬休みの予定です」
「まだ決まってないだろ」
「だから書きながら決めるんです」
「なるほど」
澪がページを開く。
そこには、これまでの思い出がたくさん残っている。
花火。
文化祭。
図書室。
マフラー。
最近買った手袋。
悠理はページを覗き込む。
「ずいぶん増えたな」
「はい」
「最初の頃より厚くなってる」
「思い出が増えたからです」
澪は嬉しそうに答える。
「今年の冬も、いっぱい書けそうです」
「じゃあ、最初の予定を決めるか」
「はい」
澪がペンを持つ。
「冬休み初日」
「うん」
「朝ご飯」
「これは決まりだな」
「はい」
「そのあと散歩」
「はい」
「昼ご飯」
「はい」
「本屋」
「絶対に行きたいです」
「分かった」
澪が一つずつ書いていく。
「夕方は?」
「映画でもいい」
「映画は二日目にしましょう」
「じゃあ初日は?」
「……」
澪が少し考える。
「イルミネーション」
「この近くで?」
「はい」
悠理も考える。
「商店街の近くに、冬になるとイルミネーションをやる場所があったな」
「そこです」
「寒いぞ」
「ちゃんと手袋があります」
澪が灰色の手袋を見せる。
「それなら大丈夫ですね」
「はい」
メモ帳に書き加える。
『冬休み初日 イルミネーション』
澪は、その文字を少しの間眺めた。
「楽しみですね」
「ああ」
「……すごく」
その表情を見て。
悠理も自然と笑ってしまう。
◇
喫茶店を出る。
外はもう夕方だった。
空が淡い紫色に染まっている。
「次は二日目ですね」
「もう決めるの?」
「せっかくなので」
「じゃあ映画」
「はい」
「そのあと?」
「カフェ」
「昨日も行っただろ」
「好きなんです」
「知ってる」
澪が笑う。
「それから、本屋さん」
「初日にも行くぞ」
「何回行ってもいいです」
「確かに」
少し歩いて。
澪が考え込む。
「最後に」
「うん」
「雪が降ったら」
「……」
「公園へ行きたいです」
悠理は、以前した約束を思い出す。
初雪を一緒に見る。
「覚えてたんだな」
「もちろんです」
「じゃあ、それも」
「約束です」
「ああ」
澪は嬉しそうに笑った。
◇
家の近くまで戻る。
夕方の冷たい空気が、二人の間を通り抜ける。
「今日は楽しかったです」
「ああ」
「試験も終わって」
「うん」
「冬休みの予定も決まって」
「まだ全部じゃないけどな」
「でも、最初の日と二日目は決まりました」
「それだけでも十分だろ」
「はい」
澪が足を止める。
「悠理くん」
「ん?」
「試験、一緒に頑張れてよかったです」
「俺も」
「一人だったら、もっと大変だったと思います」
「じゃあ、また次の試験でも一緒に勉強するか」
「……はい」
少しだけ照れながら。
澪が手を差し出す。
悠理も、その手を取った。
「今日はご褒美じゃないですよ」
「何が?」
「手をつなぐの」
「じゃあ何?」
「……習慣です」
悠理は少し驚いた。
「もう?」
「はい」
澪は笑った。
「昨日より自然になりましたから」
「そうだな」
二人で歩く。
試験は終わった。
これから冬休みまで、まだ少し時間がある。
けれど。
その時間さえも。
今の二人には、楽しみに思えた。
来週は何をする。
その次はどこへ行く。
冬休みになったら何を食べる。
雪が降ったらどこへ行く。
そんな小さな予定が。
二人の日々を少しずつ埋めていく。
そして。
気づけば。
「次」を一緒に考えること自体が。
二人にとって、新しい日常になっていた。




