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約束までの時間

次の日の朝。


 空はよく晴れていた。


 けれど、冬の朝らしい冷たさは残っている。


 悠理が玄関を出ると、少し遅れて隣の扉が開いた。


「おはようございます」


「おはよう」


 澪が出てくる。


 昨日と同じ灰色の手袋。


 黒いマフラー。


 そして。


 悠理の姿を見ると、ほんの少しだけ嬉しそうに笑った。


「今日は早いですね」


「澪もな」


「昨日、少し早く寝たので」


「珍しい」


「最近はちゃんと休むようにしています」


「それならいい」


 文化祭のときに無理をしたこと。


 あのときの約束を、澪はちゃんと守ろうとしている。


 それが悠理には少し嬉しかった。


「……あの」


 歩き出して少しすると、澪が口を開いた。


「昨日の約束」


「冬休みの?」


「はい」


「うん」


「本当に楽しみです」


「まだ先だけどな」


「だからこそです」


 澪は少し笑う。


「楽しみにしている時間も、約束の一部みたいな気がするので」


「なるほど」


 悠理は少し考えて。


「じゃあ、試験が終わったら予定を決めよう」


「……はい!」


 澪の返事が、いつもより少しだけ明るかった。


 ◇


 教室では、期末試験の話で持ちきりだった。


「数学、範囲広すぎない?」


「英語もだろ」


「俺、昨日三時間やった」


「珍しい」


「追い込まれてるだけだよ」


 そんな会話があちこちから聞こえる。


 悠理が席に座ると、蓮が机を寄せてきた。


「いよいよ試験だな」


「ああ」


「勉強してる?」


「一応」


「じゃあ俺にも教えて」


「自分でやれ」


「冷たい」


「当たり前だろ」


 蓮が笑う。


 そのとき。


「悠理くん」


 澪が隣から声をかけた。


「今日も放課後、勉強しますか?」


「うん」


「よかった」


 蓮が二人の会話を聞いている。


「また二人で?」


「そうだけど」


「じゃあ、俺も混ざっていい?」


「いいですよ」


 澪がすぐに答えた。


 蓮が少し意外そうな顔をする。


「いいの?」


「もちろんです。三人のほうが集中できるかもしれませんし」


「じゃあ決まり」


 悠理は頷いた。


「分からないところを教え合えばいい」


「助かるわ」


 蓮は嬉しそうに笑った。


 こうして。


 放課後の図書室には、いつもの二人にもう一人加わることになった。


 ◇


 放課後。


 三人は図書室の奥の席に座った。


 それぞれの教科書と問題集を広げる。


 最初の一時間は、ほとんど会話がなかった。


 ただ、ページをめくる音だけが続く。


「……分からん」


 突然、蓮が呟いた。


「何が?」


「ここ」


 蓮が数学の問題を見せる。


 悠理が説明する。


「この式を先に整理して、それから……」


「ああ、なるほど」


「ここで間違えてる」


「本当だ」


 その横で。


 澪も自分の問題を見ていた。


「澪は大丈夫?」


「はい」


 そう答えた直後。


「……いえ」


「どっち?」


「少しだけ分かりません」


 悠理が澪のノートを見る。


「ここ?」


「はい」


「じゃあ、さっきと同じ」


「……本当ですね」


 澪が問題を解き直す。


 数秒後。


「あ」


 答えが合う。


「できた」


「よかった」


 澪が嬉しそうに笑った。


 その様子を見ていた蓮が、ふと口を開く。


「なんか、二人でやると教え方が違うな」


「どういう意味?」


「悠理って、澪さんに教えるときだけ妙に丁寧なんだよ」


「そう?」


「そうだよ」


 悠理は少し考える。


「……分かりやすく説明してるだけ」


「俺にもそのくらい丁寧にしてくれよ」


「お前には必要ないだろ」


「差別だ」


「うるさい」


 澪が小さく笑った。


「仲がいいですね」


「どこが?」


「二人とも、話していると楽しそうなので」


 蓮が少し驚いた顔をする。


「そう見える?」


「はい」


「じゃあ、まあ悪くないか」


「何で蓮が照れてるんだ」


「照れてない」


 図書室に小さな笑い声が響いた。


 いつもの二人きりとは違う。


 けれど。


 こういう時間も悪くない。


 悠理はそう思った。


 ◇


 休憩時間。


 蓮が飲み物を買いに行くため席を立った。


「何かいる?」


「大丈夫」


「澪さんは?」


「私も大丈夫です」


「了解」


 蓮が図書室を出ていく。


 その途端。


 さっきまで賑やかだった席が静かになった。


「……急に静かになりましたね」


「そうだな」


 澪が窓の外を見る。


 もう日が落ち始めている。


「今年も、あと少しですね」


「そうだな」


「春に入学して」


「うん」


「夏祭りへ行って」


「うん」


「文化祭があって」


「……ああ」


「気がついたら、もう冬です」


 澪は少しだけ笑う。


「時間って、本当に早いですね」


「そうだな」


「でも」


 澪が悠理を見る。


「今年は、長かった気もします」


「どうして?」


「思い出が多かったからです」


 悠理はその言葉を聞いて、窓の外へ目を向けた。


 桜。


 雨。


 夏祭り。


 花火。


 文化祭。


 図書室。


 帰り道。


 そして、最近では手をつなぐことも。


「そうだな」


「来年も、たくさん増えるといいですね」


「ああ」


 澪は嬉しそうに頷いた。


「来年も」


 その言葉を、静かに口にする。


 それが当たり前になることを。


 二人とも、少しずつ嬉しく思い始めていた。


 ◇


 勉強を終えて、三人で学校を出る。


 蓮は途中の交差点で別れることになった。


「じゃあ、また明日」


「ああ」


「お疲れさまでした」


「二人とも頑張れよ」


 蓮が手を振って去っていく。


 その後ろ姿が見えなくなって。


 二人きりになった。


 澪が少しだけ息を吐く。


「今日は楽しかったです」


「勉強なのに?」


「はい」


「変だな」


「悠理くんと一緒だったので」


 あまりに自然に言うものだから。


 悠理は返事に少し困った。


「……そうか」


「はい」


 少し歩く。


「悠理くん」


「ん?」


「試験が終わったら」


「うん」


「冬休みの予定、決めましょう」


「ああ」


「最初の日は、朝ご飯からですよ」


「本当に最初からなんだな」


「はい」


「何食べる?」


「考えてませんでした」


「そこは考えてないのか」


「そこから一緒に考えたいです」


「なるほど」


 澪は笑う。


「それから、散歩して」


「うん」


「お昼を食べて」


「ああ」


「本屋さんへ行って」


「いいな」


「夕方になったら帰る」


「映画は?」


「次の日でもいいです」


「一日じゃ足りなくなるな」


「……」


 澪が少し黙る。


「だったら」


「ん?」


「二日、一緒に過ごしますか?」


 悠理は少し驚いた。


「二日?」


「はい」


「それは……」


 考える。


 けれど。


「いいよ」


 そう答えると。


 澪の顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか?」


「ああ」


「では、二日目は映画にしましょう」


「決まるの早いな」


「楽しみですから」


 澪は新しい手袋を少し握りしめた。


 ◇


 家の近くまで来る。


 いつもの別れ道。


 最近では、この場所に着くと少しだけ名残惜しく感じるようになっていた。


「では、また明日」


「ああ」


「試験勉強、ちゃんとしてくださいね」


「澪こそ」


「私はします」


「なら安心だな」


 澪は笑う。


 そして。


 今日は何も言わずに、そっと手を差し出した。


 悠理も、その手を取る。


 ほんの数秒。


 別れる前の短い時間だけ。


「……これ」


 澪が小さく言う。


「何?」


「今日の頑張ったご褒美です」


「手をつなぐのが?」


「はい」


「じゃあ、明日も勉強頑張らないとな」


「そうしてください」


 二人で笑う。


 やがて、ゆっくりと手を離す。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 澪が家へ入る。


 悠理も自分の部屋へ戻る。


 机の上には、まだ開いていない英語の教科書が置いてある。


 試験は近い。


 冬休みも近づいている。


 そして、その先には。


 二人で過ごす予定が待っている。


 その約束があるだけで。


 面倒に思っていた勉強さえ、今日は少しだけ頑張れそうだった。


 悠理は椅子に座り、教科書を開く。


「……やるか」


 静かな夜が始まった。

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