第五十二話 昨日より近い朝
翌朝。
目を覚ました悠理は、しばらく天井を見つめていた。
まだ外は薄暗い。
布団の中は暖かい。
起きなければならない時間は近づいているのに、なかなか身体を起こす気になれなかった。
理由は分かっている。
昨日の帰り道。
澪と手をつないだ。
それだけのことなのに。
朝になっても、手袋越しに伝わってきた小さな温度が、妙にはっきりと思い出せた。
「……」
悠理は自分の手を見る。
特に何かが変わっているわけではない。
いつもと同じ手。
昨日までとは、少しだけ違って見えた。
結局、考えがまとまらないまま起き上がる。
制服に着替えて、朝食を済ませる。
玄関を出る。
そして。
ほとんど同じタイミングで、隣の扉が開いた。
「あ……」
「……おはようございます」
「おはよう」
澪も一瞬、固まった。
昨日と同じマフラー。
昨日と同じ灰色の手袋。
ただ、いつもと違うのは。
お互いに、相手の手を見てしまったことだった。
「……」
「……」
数秒。
どちらも何も言わない。
先に視線を逸らしたのは澪だった。
「行きましょうか」
「ああ」
二人で歩き始める。
昨日までなら、これだけで何も問題はなかった。
けれど。
今日は違う。
歩く距離は同じなのに、妙にお互いを意識してしまう。
「……昨日のこと」
澪が小さく口を開く。
「うん」
「忘れてませんよね?」
「忘れるわけないだろ」
「……そうですよね」
澪は少し安心したように笑った。
「私も、ずっと考えていました」
「何を?」
「昨日、手をつないだことです」
言われてしまうと、悠理も少しだけ恥ずかしい。
「嫌だった?」
「違います」
澪はすぐに首を横に振った。
「その反対です」
「……そっか」
「はい」
しばらく歩いて。
澪がぽつりと言った。
「でも、少しだけ安心しました」
「何で?」
「昨日だけのことじゃないんだって思えたので」
「どういう意味?」
「今日も、会えたからです」
悠理は少しだけ目を見開いた。
澪は前を向いたまま。
「昨日の帰り道が特別だっただけなら、朝になったら元に戻るのかなって」
「……」
「でも、今こうして一緒に歩いているので」
澪は小さく笑った。
「ちゃんと続いているんだなって思いました」
その言葉に。
悠理も少しだけ肩の力が抜けた。
「ああ」
短い返事。
けれど、それで十分だった。
◇
教室に入ると、まだ朝の空気が残っていた。
窓から差し込む光も弱い。
暖房は入っているものの、教室の隅にはまだ冷気が残っていた。
「おはよう、悠理」
蓮が手を上げる。
「おはよう」
澪も自分の席へ向かう。
いつもと同じ。
けれど、蓮は二人を見比べて、何かに気づいたようだった。
「……なんか今日、二人とも静かじゃない?」
「いつもだろ」
「そうだけど」
蓮は少し考える。
「昨日より距離が近い気がする」
「気のせい」
悠理が答える。
その横で。
「……」
澪がほんの少しだけ顔を伏せた。
「やっぱり何かあった?」
「何もない」
「そう?」
「ああ」
「そっか」
蓮はそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ楽しそうに笑っていた。
◇
二時間目の終わり。
担任が教室へ入ってきた。
「はい、少し連絡がある」
教室が静かになる。
「来月の期末試験についてだ」
その言葉に、あちこちから小さな声が漏れた。
「もうそんな時期か」
「早すぎるだろ」
「全然勉強してない」
悠理は机に置いていたノートへ目を落とした。
時間が過ぎるのは早い。
気がつけば、もう一年の後半だ。
「試験範囲は後で配る。特に数学と英語は少し広いから、今からやっておくように」
担任がそう言って黒板へ予定を書いていく。
その横で。
澪が静かに息を吐いた。
「どうした?」
「いえ」
「試験?」
「はい」
「苦手なのある?」
「苦手というほどではないですけど」
澪は少しだけ考える。
「最近、ちゃんと勉強できていないので」
「文化祭とか、公開授業とかあったからな」
「そうですね」
「じゃあ、そろそろ戻さないと」
「……はい」
澪は少しだけ困った顔をした。
◇
昼休み。
澪は弁当を食べ終えると、教科書を机へ広げた。
「もう始めるの?」
悠理が聞く。
「少しだけです」
「真面目だな」
「前に無理をしたので、今回は早めにやっておきたいんです」
その言葉に、悠理は苦笑した。
「それならいい」
「ちゃんと休みながらやります」
「なら安心」
澪が顔を上げる。
「……心配してくれてるんですね」
「ああ」
「嬉しいです」
それだけ言って、澪はまた教科書へ視線を戻した。
以前なら。
もっと遠慮していた。
でも今は、こういうことも自然に言えるようになっている。
「悠理くん」
「ん?」
「放課後、一緒に勉強しませんか?」
「図書室?」
「はい」
「いいよ」
「ありがとうございます」
澪は嬉しそうに笑った。
◇
放課後。
図書室には、まだ数人の生徒がいた。
窓の外はもう暗くなり始めている。
二人は向かい合って座り、それぞれ教科書を開いた。
最初は静かだった。
紙をめくる音。
ペンを走らせる音。
時々、椅子が小さく動く音。
それだけ。
「……」
しばらくして。
「悠理くん」
「ん?」
「ここ、どうしても分かりません」
澪がノートをこちらへ向ける。
「どこ?」
「この問題です」
悠理はノートを見る。
「ここは、この公式を使えばいい」
「……あ」
「それで、この数字を入れる」
「なるほど」
澪が書き始める。
「分かりました」
「よかった」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
少しして。
「悠理くんは、教えるの上手ですね」
「そう?」
「はい」
「澪に言われると、なんか変な感じだな」
「どうしてですか?」
「普段は澪のほうが何でもできるから」
「……何でもではありません」
「そう?」
「はい」
澪は少し考えて。
「私、一人で考えすぎるところがあります」
「それはあるな」
「否定してくれてもいいのに」
「事実だから」
「もう」
澪が頬を少し膨らませる。
けれど。
すぐに笑った。
「でも、最近は少し変わった気がします」
「何が?」
「分からないときに、誰かに聞いてもいいと思えるようになりました」
「……そっか」
「以前なら、分からないままでも一人で何とかしようとしていたので」
悠理は少しだけ澪を見る。
「じゃあ、これからも分からないことがあったら聞けばいい」
「はい」
「俺でよければ」
「……」
澪のペンが止まった。
「どうした?」
「いえ」
少しだけ頬を赤くして。
「嬉しかっただけです」
「そうか」
それから澪は、ノートへ向き直る。
「では」
「うん」
「これからは、もっと頼るかもしれません」
「ああ」
「覚悟しておいてくださいね」
「分かった」
二人は顔を見合わせて。
少しだけ笑った。
◇
勉強を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
二人で図書室を出る。
「思ったより進みましたね」
「うん」
「一人でするより、やりやすかったです」
「俺も」
「悠理くんも?」
「誰かと勉強するの、悪くないなと思った」
「……よかった」
廊下を歩く。
窓の外には、冬の夜空が広がっている。
校門を出たあと。
澪がふと足を止めた。
「そういえば」
「ん?」
「昨日、冬休みの話をしましたよね」
「ああ」
「最初の日」
「うん」
「何か一緒にしたいです」
「映画とか?」
「それもいいです」
「本屋は?」
「行きたいです」
「水族館も?」
「もちろん」
澪は楽しそうに答える。
そして。
「でも、一番最初は」
「うん」
「もっと普通のことがいいです」
「普通?」
「一緒に朝ご飯を食べて」
「うん」
「そのあと、ゆっくり歩いて」
「うん」
「それから、どこかでお昼を食べて」
「……」
「そういう一日」
悠理は少し考えた。
「それ、ほとんど普段と変わらないな」
「はい」
澪は笑った。
「だからいいんです」
「どうして?」
「今の私には、そういう普通の日が一番楽しみだからです」
悠理は少しだけ笑った。
「じゃあ、それにしよう」
「本当ですか?」
「ああ」
「約束ですよ」
「ああ。約束」
澪が嬉しそうに手を差し出した。
昨日と同じ。
悠理も、その手を取った。
今度は、昨日ほど緊張しなかった。
むしろ。
自然だった。
「……慣れてきましたね」
「そうだな」
「少しだけ寂しい気もします」
「何で?」
「最初のときの特別な感じが、少しずつ普通になっているからです」
「でも」
悠理は、つないだ手を見る。
「普通になるって、悪いことじゃないだろ」
「……はい」
「俺は、こっちのほうがいいと思う」
「私もです」
二人はそのまま歩き出す。
昨日より近い距離。
昨日より自然な会話。
それでも。
この関係に名前をつけることだけは、まだしなかった。
ただ。
冬休みの最初の日を一緒に過ごす。
そして、その日までの毎日も。
できるだけ一緒にいる。
それだけは、二人の間で静かに決まっていた。
冷たい冬の夜道を。
二人の手だけが、確かな温度を持っていた。




