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第五十一話 いつもより少しだけ特別な日

土曜日の朝。


 いつもの平日より少し遅い時間に、悠理は目を覚ました。


 カーテンを開ける。


 空は薄い灰色だった。


 雲は厚い。


 けれど、雪は降っていない。


「……寒いな」


 窓を少し開けただけで、冷たい空気が部屋へ流れ込んできた。


 今日は公開授業の日だった。


 保護者や地域の人たちが学校を訪れ、普段とは少し違った雰囲気になる。


 悠理は制服に着替え、家を出た。


 そして。


 廊下に出たところで、隣の玄関も開く。


「おはようございます」


「おはよう」


 澪だった。


 休日の朝なのに、いつもと変わらない制服姿。


 首元には、やっぱり黒いマフラー。


 そして両手には、昨日買ったばかりの淡い灰色の手袋。


「使ってるんだな」


「はい」


 澪は手を少し持ち上げる。


「暖かいです」


「よかった」


「ちゃんと大切にします」


「そんなに気を遣わなくてもいいけど」


「嫌です」


「なんで?」


「悠理くんが選んでくれたものなので」


 相変わらず、そこだけは譲らない。


 悠理は少し笑った。


「じゃあ、行くか」


「はい」


 休日の朝。


 いつもの道。


 でも今日は、いつもより少しだけ違って見えた。


 ◇


 学校に着くと、すでに多くの人が来ていた。


 保護者らしい人たち。


 近所の人。


 他学年の生徒。


 普段よりずっと多くの人が校舎を歩いている。


「すごいですね」


 澪が周囲を見回す。


「ああ」


「なんだか、学校じゃないみたいです」


「そうだな」


 二人で教室へ向かう。


 途中で、蓮と会った。


「お、来たか」


「おはよう」


「おはようございます」


 蓮は二人を見てから、目を細める。


「朝から一緒か」


「隣だからな」


「そういう問題じゃない気がするんだけどな」


「何が?」


「いや、何でもない」


 蓮は笑った。


「今日は結構忙しくなるぞ。先生がさっきから走り回ってる」


「分かった」


「あと、親が来るやつはちょっと緊張してる」


 その言葉に、澪の表情がほんの一瞬だけ変わった。


 だが。


「そうですね」


 すぐにいつもの顔へ戻る。


 悠理は気づいた。


 けれど、今は何も言わない。


 人の多い廊下で聞く話ではない。


 ◇


 一時間目。


 公開授業が始まった。


 教室の後ろには、何人もの見学者が立っている。


 いつもなら騒がしいクラスも、今日は少しだけ静かだった。


 先生が黒板へ文字を書く。


 生徒たちは教科書を開く。


 いつもの授業。


 それなのに。


 後ろから見られているだけで、妙な緊張感があった。


 悠理は隣を見る。


 澪はいつも通り、真面目に授業を受けている。


 姿勢も綺麗で、ノートも整っている。


 けれど。


 右手の指先が、ほんの少しだけ動いていた。


 緊張しているのかもしれない。


「……」


 悠理は小さく紙を一枚切り取り、そこに文字を書いた。


『大丈夫』


 それを机の端から澪へ滑らせる。


 澪が気づく。


 一瞬、驚いたように目を見開いた。


 そして。


 小さく頷いた。


 返事の代わりに、机の下で親指を少しだけ立てる。


 悠理は思わず笑った。


 すると。


 澪も少しだけ笑った。


 授業中だというのに。


 二人だけに分かる、小さなやり取りだった。


 ◇


 授業が終わる。


 見学者が入れ替わり、教室の空気が少し緩んだ。


「いやあ、疲れた」


 蓮が机に突っ伏す。


「授業するだけなのにな」


「人に見られると違うんだよ」


「そういうものか」


「そういうもの」


 そのとき。


「澪」


 後ろから女子生徒が声をかけた。


「さっきのカードの展示、見に行っていい?」


「もちろん」


 澪は立ち上がる。


「悠理くんも行きますか?」


「うん」


 教室の後ろに設置された展示へ向かう。


 そこには、クラスのみんなが書いた「季節の思い出」が並んでいた。


 春。


 夏。


 秋。


 冬。


 それぞれに違う思い出がある。


「これ、面白いですね」


「本当に人それぞれだな」


「海の思い出、結構多いです」


「夏だからな」


 澪は一枚ずつ見ていく。


 そして。


 一枚のカードの前で足を止めた。


『好きな季節は冬。静かなところが好きだから』


 それを見て。


 澪が小さく笑う。


「何か思うところある?」


「少しだけ」


「冬、好きなんだっけ」


「好きですよ」


「寒いのに?」


「寒いのは嫌です」


「じゃあ何で」


「静かだからです」


 以前と同じ答え。


 けれど今回は。


「それと」


「ん?」


 澪が悠理を見る。


「誰かと一緒に歩ける季節になったからです」


 悠理の胸が、少しだけ熱くなる。


「……そうか」


「はい」


 澪はカードへ視線を戻した。


 ◇


 昼休み。


 教室には、公開授業を終えた保護者たちの姿もまだ残っていた。


 そんな中。


 一人の女性が悠理へ近づいてきた。


「あなたが九条くん?」


「はい」


「いつも澪と一緒にいる子よね?」


 悠理は少し驚いた。


「……はい」


「やっぱり」


 その女性は穏やかな笑顔を浮かべる。


「この前も朝、二人で歩いているところを見たの」


「そうなんですか」


「仲がいいのね」


 どう返せばいいのか分からない。


「……まあ」


「ふふ」


 女性は楽しそうに笑った。


「澪、最近少し変わったでしょう?」


 悠理の視線が、教室の向こうへ向く。


 澪はクラスメイトと話している。


 以前より自然な表情で。


「……そうですね」


 悠理が答える。


「よく笑うようになった気がします」


「それなら、よかった」


 女性は安心したように頷いた。


「昔は、何でも一人で抱え込む子だったから」


「……」


「今は、頼れる人がいるみたいね」


 その言葉に。


 悠理はすぐには答えられなかった。


 自分がそうなのか。


 まだ自信はない。


 ただ。


 澪が自分を頼ってくれることが嬉しい。


「……そうだといいです」


 そう答えると。


「きっと大丈夫よ」


 女性は笑って、その場を離れていった。


 ◇


 午後。


 公開授業が終わり、交流企画も無事に終了した。


 最後まで残っていた生徒たちも片付けを終え、教室には二人だけになった。


「終わりましたね」


「ああ」


 澪が教室を見渡す。


 朝から飾られていたカード。


 写真。


 紙飾り。


 そのどれも、少しずつ片付けられていく。


「なんだか、少し寂しいですね」


「そうだな」


「準備していた時間が長かったからでしょうか」


「たぶん」


 澪は一枚のカードを手に取った。


「このまま全部なくなってしまうのが、少し惜しいです」


「写真に残せば?」


「それもいいですね」


 澪はスマートフォンを取り出した。


「せっかくなので、一緒に撮りませんか?」


「展示を?」


「はい」


「いいよ」


 二人で展示の前に立つ。


 澪がスマートフォンを持つ。


「もう少しこちらへ」


「このくらい?」


「もう少し」


 肩が触れそうになる。


 澪が少しだけ近づく。


「これでいいです」


「撮るぞ」


「はい」


 シャッターが切られる。


 一枚。


 続けてもう一枚。


「……見せてください」


 澪が画面を見る。


 写真には。


 展示と、その前に並んだ二人の姿が写っていた。


「……いいですね」


「そう?」


「はい」


 澪はしばらく画面を見つめる。


「この写真も、残しておきます」


「うん」


「藤色のメモ帳にも入れておきます」


「そこに入れるんだ」


「もちろん」


 澪は微笑んだ。


 ◇


 学校を出る頃には、空が薄い橙色に染まっていた。


「今日は疲れましたね」


「ああ」


「でも」


「ん?」


「楽しかったです」


「俺も」


 二人はいつもの帰り道を歩く。


 今日だけでたくさんの人に見られた。


 いつもと違う学校。


 いつもと違う教室。


 いつもより少しだけ特別な一日。


 それでも。


 学校を出た瞬間には、またいつもの二人に戻っていた。


「悠理くん」


「ん?」


「今日、途中で手紙をくれましたよね」


「ああ」


「『大丈夫』って」


「うん」


「あれ、嬉しかったです」


「そうか」


「すごく」


 澪はマフラーに顔を少し埋める。


「たった三文字なのに」


「……三文字じゃないだろ」


「細かいです」


「まあ」


 澪が笑う。


「でも、本当に安心しました」


「それならよかった」


 しばらく歩いて。


 澪が小さな声で言った。


「これからも」


「ん?」


「ああいうときは、よろしくお願いします」


「分かった」


「……頼ってもいいですか?」


 悠理は少しだけ澪を見る。


「もちろん」


 澪は黙った。


 そして。


 手袋をした手を、ゆっくりと差し出す。


「……では」


「?」


「帰り道だけ」


「何?」


「手、つないでもいいですか?」


 悠理は一瞬だけ驚いた。


 けれど。


「ああ」


 そう答えた。


 澪の手が、そっと重なる。


 新しい灰色の手袋越しでも分かる。


 小さくて、温かい。


「……暖かいですね」


「手袋だからな」


「そうじゃなくて」


「?」


 澪は答えなかった。


 ただ。


 少しだけ握る力を強めた。


 悠理も、同じくらいの力で握り返す。


 夕暮れの道を。


 二人はゆっくり歩いていった。


 公開授業は終わった。


 特別な一日も、もうすぐ終わる。


 それでも。


 今日の帰り道だけは。


 いつもの道より、ほんの少しだけ特別だった。

土曜日学校の日って萎えるよね

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