第四十六話 冬の入口
朝の空気が、少しだけ変わっていた。
十一月に入ってから、教室へ向かう廊下を歩く人の吐息が、ほんのわずかに白くなる日が増えた。
窓の外では、木々の葉が風に揺れている。
赤や黄色に染まった葉が一枚、二枚と舞い落ちていく。
冬は、もうすぐそこまで来ている。
「寒いですね」
隣を歩いていた澪が、ぽつりと言った。
「ああ」
「去年の今頃は、もう少し暖かかった気がします」
「毎年そう思ってるだけじゃないか」
「……そうかもしれません」
澪は少しだけ笑った。
その手には、いつもの黒いマフラーがある。
悠理が渡したものだった。
以前は借りているだけだと言っていたのに、最近では当然のように澪が持ってくるようになった。
それどころか、少しずつ扱いが丁寧になっている気がする。
畳むときも綺麗に折っているし、椅子に置くときも乱れないように整えている。
そこまで大切にされると、なんとなく落ち着かない。
「何ですか?」
「いや」
「今、何か考えていましたよね」
「別に」
「そうですか」
澪は少しだけ目を細める。
「……怪しいです」
「何がだ」
「悠理くんが」
「俺?」
「はい」
即答だった。
悠理は苦笑する。
「それなら、澪も十分怪しいだろ」
「私ですか?」
「そのマフラー」
視線を落とす。
「……何か問題ありますか?」
「いや、ないけど」
「なら大丈夫ですね」
澪は満足そうに頷いた。
以前より、こういうやり取りが増えた気がする。
ほんの少しだけ、距離が近い。
冗談を言えるくらいには。
沈黙しても気まずくないくらいには。
そして、触れなくても互いの気持ちがなんとなく伝わるくらいには。
けれど。
二人とも、その先だけはまだ言葉にしていなかった。
昼休み。
悠理が弁当を開いていると、向かいの席から声がした。
「悠理」
「ん?」
顔を上げる。
そこには朝倉灯がいた。
相変わらず明るい笑顔で、机に両手をついてこちらを覗き込んでいる。
「今日、一緒に昼食べよ」
「今?」
「うん」
「別にいいけど」
「やった」
灯は嬉しそうに椅子を引いた。
その瞬間。
隣から、小さな気配が動いた。
「……」
澪だった。
何も言わない。
ただ、箸を持つ手がほんの少しだけ止まっている。
灯はそれに気づいたらしい。
「……あ」
「何だ」
「いや、何でもない」
灯は一度澪を見て、それから悠理を見る。
そして、にやっと笑った。
「澪ちゃんも一緒でいいよね?」
「え?」
「もちろん」
澪はすぐに答えた。
ただ。
声がいつもより少しだけ早かった。
「もちろん、いいです」
「じゃあ三人で食べよ」
灯は嬉しそうに笑う。
しばらくすると、三人で他愛のない話を始めた。
授業のこと。
文化祭の片付けのこと。
近づいてきた定期試験のこと。
何でもない話だった。
けれど。
悠理は途中から、妙な違和感を覚えていた。
澪が少し静かだった。
普段なら、灯が話していれば自然に会話へ入る。
今日はそれが少ない。
「澪」
「はい?」
「どうした」
「何がですか?」
「いや……少し静かだから」
「いつも静かですよ」
「そうだけど」
「なら問題ないです」
澪はそう言って微笑んだ。
いつもの笑顔。
なのに。
なぜか、少しだけ無理をしているように見えた。
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、澪が隣へ来た。
「悠理くん」
「ん?」
「今日は……その」
珍しく言葉を濁している。
「どうした?」
「一緒に帰ってもいいですか?」
「いつも一緒だろ」
「……そうでしたね」
澪は小さく笑った。
二人で校門を出る。
夕方の空は薄い橙色だった。
風が冷たい。
澪はマフラーを巻き直し、少しだけ顔を埋める。
「寒いな」
「はい」
「もう冬だな」
「冬……」
澪が呟く。
少し考えるように空を見上げた。
「去年の冬は、どうしていたんでしょう」
「普通に過ごしてたんじゃないか」
「そうですよね」
「何か思い出した?」
「いいえ」
澪は首を横に振った。
「去年は、あまり覚えていないんです」
その言葉に、悠理は少しだけ驚いた。
「そうなのか?」
「はい。毎日同じことの繰り返しでしたから」
澪は前を向いたまま続ける。
「学校へ行って、勉強して、帰って、眠る。それだけでした」
「……」
「だから、今年のことはよく覚えています」
澪の指が、マフラーの端をそっとつまんだ。
「夏祭りも」
一拍。
「文化祭も」
また一拍。
「喫茶店も、公園も、図書室も」
そして。
「……このマフラーも」
悠理は何も言わなかった。
澪は少し照れたように笑った。
「今年は、去年よりずっと長い一年に感じます」
「そうか」
「はい」
「なら、よかったな」
「……はい」
少し歩いて。
澪が言った。
「来年も、きっと長い一年になりますね」
「どうだろうな」
「なりますよ」
「断言するんだな」
「だって」
澪は足を止めた。
悠理も足を止める。
街灯が一つ、二人の頭上で淡く光っている。
澪はマフラーに口元を隠したまま。
それでも、目だけはまっすぐ悠理を見ていた。
「来年も、悠理くんと一緒にいたいですから」
胸の奥が、静かに鳴った。
何度も聞いているはずの言葉なのに。
今日は、いつもより強く響いた。
「……そうだな」
悠理は少しだけ笑う。
「俺も」
「本当ですか?」
「ああ」
「……よかった」
澪は、心から安心したように笑った。
その日の帰り道。
二人はいつもの公園へ寄った。
ベンチに座る。
秋の終わりを告げるように、枯れ葉が風に舞っていた。
澪はポケットから藤色の小さなメモ帳を取り出した。
「また書くのか?」
「はい」
「何を?」
「今日のことです」
「今日?」
「冬が近づいてきたこととか」
「そんなことまで書くのか」
「もちろんです」
澪はペンを走らせる。
やがて、ぱたん、とメモ帳を閉じた。
「何て書いたんだ?」
「秘密です」
「またか」
「はい。またです」
澪は楽しそうに笑う。
それから少しだけ身を寄せた。
肩が、触れそうになる。
でも。
今日は離れなかった。
「悠理くん」
「ん?」
「これから寒くなりますね」
「ああ」
「もっと寒くなったら」
「うん」
「……また、マフラーを貸してください」
悠理は笑った。
「今使ってるだろ」
「これは冬の間、借りる予定です」
「返す気あるのか?」
「ありますよ」
澪は少し考えてから。
「……春になったら」
「遅いな」
「でも、春になったら返します」
「分かった」
「約束ですよ」
「ああ。約束だ」
澪は嬉しそうに目を細めた。
風が吹く。
枯れ葉が一枚、二人の間を通り過ぎる。
季節が進んでいく。
春から夏へ。
夏から秋へ。
そして、秋から冬へ。
それでも。
二人の帰り道だけは、変わらない。
――変わらないまま、少しずつ近づいていく。
そんな時間が、今は何よりも心地よかった。




