第四十五話 放課後の図書室
秋が深まるにつれて、放課後の空気は少しずつ冷たくなっていった。
校門を出た瞬間に感じる風も、以前とは違う。
もう夏の名残はほとんどない。
木々の葉は赤や黄色に染まり、歩道には落ち葉が増えていた。
悠理は、隣を歩く澪を見た。
今日も澪は黒いマフラーを巻いている。
先日、悠理が貸したものだ。
それはもう、すっかり彼女の定位置になっていた。
「……そのマフラー、本当に気に入ったんだな」
悠理が言うと、澪は首元を少しだけ押さえた。
「ええ」
「まだ返さないのか」
「……返したほうがいい?」
「いや」
悠理は少しだけ視線を逸らした。
「寒いなら使えばいい」
澪は、ほんの少し目を細める。
「じゃあ、もう少し借りる」
「ああ」
「……嬉しい」
その言葉は小さかった。
悠理には聞こえていたが、あえて何も言わなかった。
駅へ向かう途中、澪が足を止める。
「悠理」
「なんだ」
「今日は、少しだけ図書室に行かない?」
「放課後に?」
「ええ」
「いいぞ」
澪は少し安心したように笑った。
「最近、図書室に行ってなかったから」
「文化祭の準備以来だな」
「そうね」
二人は駅ではなく、学校へ戻る方向へ歩いた。
文化祭が終わってから、放課後の図書室へ行くことは減っていた。
今考えてみれば、少し久しぶりだった。
図書室の扉を開ける。
「……やっぱり静か」
澪が小さく息を吐く。
「前と変わらないな」
「うん」
窓際の席へ座る。
夕方の光が、本棚の隙間から差し込んでいる。
以前と同じ場所。
でも、二人の距離は以前とは違う。
隣の席。
手を繋いだこと。
泣いているところを見たこと。
夏祭り。
マフラー。
積み重なったものが、静かな図書室の中で少しだけ鮮明に感じられる。
「……何を読む?」
澪が聞いた。
「適当に」
「じゃあ、これ」
澪が一冊の本を差し出してくる。
「何の本だ」
「短編集」
「珍しいな」
「たまにはこういうのもいいでしょう」
悠理は本を受け取る。
「じゃあ、読む」
「うん」
二人はそれぞれ本を開いた。
ページをめくる音。
時計の音。
外を走る車の音。
それだけが聞こえる。
しばらくして。
澪が小さく欠伸をした。
「眠いのか」
「……少しだけ」
「寝てもいいぞ」
「図書室で?」
「机がある」
「そういう問題じゃないでしょう」
「じゃあ、帰るか」
「それは嫌」
「どっちだ」
「ここにいたい」
澪はそう言って、本を閉じた。
「少しだけ疲れてるの」
「文化祭のときみたいな無理はするなよ」
「分かってる」
澪は少しだけ笑った。
「今はちゃんと休めるから」
「ならいい」
澪は椅子の背に体を預ける。
しばらく、何も言わない。
「……悠理」
「なんだ」
「こういう時間、好き?」
「ああ」
「私も」
「そうか」
「うん」
澪は窓の外を見る。
夕方の空は、少しずつ暗くなっていた。
「学校が終わって、静かな場所で一緒にいるって、なんだか不思議」
「そうか?」
「ええ」
「普通だろ」
「また普通って言う」
「悪いか」
「悪くないけど」
澪は小さく笑った。
「最近、普通って言葉が少し好きになった」
「どうして」
「前は、普通って言われるのが少し怖かったの」
「そうだったな」
「でも今は違う」
澪はマフラーの端を指先で触れる。
「普通の日を、一緒に過ごせることが嬉しいから」
悠理は、その言葉を静かに聞いた。
何気ない一日。
特別なイベントもない。
ただ図書室にいて。
少し話して。
同じ時間を過ごす。
それが、澪にとっては以前よりずっと大切になっている。
「……私ね」
「うん」
「文化祭のあとから、少しだけ変わったと思う」
「どう変わった」
「人に頼ることが、前より怖くなくなった」
「それはいいことだ」
「ええ」
澪は少しだけ目を伏せた。
「前は、疲れていても一人で何とかしようと思ってた。でも最近は……」
「最近は?」
「悠理に言えばいいって思える」
悠理は少しだけ黙る。
「……そうか」
「うん」
「頼られるのは、別に嫌じゃない」
「本当?」
「ああ」
「迷惑じゃない?」
「ならない」
澪は、小さく笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、悠理も少しだけ安心した。
「……私も、何かできることがあれば言ってね」
「分かった」
「絶対よ」
「ああ」
「約束」
「約束」
また静かな沈黙が訪れる。
今度は、少しだけ澪が九条のほうへ寄った。
肩が触れる。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
以前なら、手を繋いでも平気だった。
今は肩が触れるだけでも、少しだけ意識する。
「……近いな」
悠理が小さく言う。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「……ならいい」
澪はそのまま離れなかった。
悠理も離れない。
図書室の静けさが、二人の間を包む。
やがて、澪が小さく呟いた。
「……暖かい」
「暖房ついてるからな」
「そういう意味じゃないわ」
「……」
悠理は言葉を失った。
澪は少しだけ笑う。
「分かった?」
「たぶん」
「ふふ」
その笑い方が、妙に近く感じる。
しばらくして、図書室の時計が五時を指した。
「そろそろ帰るか」
悠理が言う。
「うん」
二人は本を戻し、図書室を出る。
廊下はもうかなり暗かった。
窓の外には、夕暮れの残りがわずかに残っている。
「今日は、来てよかった」
澪が言う。
「ああ」
「久しぶりだったから」
「図書室が?」
「それもあるけど」
澪は少しだけ九条を見る。
「悠理とこうして静かに過ごす時間が」
「……そうか」
「うん」
階段を下り、昇降口へ向かう。
外へ出ると、冷たい風が吹いた。
澪は反射的にマフラーを少し上げる。
「寒い?」
「少し」
「だから言っただろ」
「でも、このマフラーがあるから平気」
「……それならいい」
澪は、マフラーの端を少しだけ握った。
「これ、気に入ってるの」
「そうか」
「大事にする」
「ならよかった」
二人は並んで歩く。
街灯が道を照らしている。
落ち葉が、風に乗って足元を転がっていく。
「悠理」
「なんだ」
「冬になったら、もっと寒くなるでしょう」
「ああ」
「そのときも、これ借りていい?」
「いいぞ」
「……本当に?」
「何度聞くんだ」
「大事なことだから」
澪は少しだけ笑う。
「じゃあ、冬まで借りる」
「それは長いな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「……よかった」
少し歩いたところで、澪がふいに立ち止まった。
「……悠理」
「なんだ」
「今日、もう少しだけ一緒に歩いていい?」
「もちろん」
「ありがとう」
そこから二人は、駅とは反対方向へ少しだけ遠回りした。
秋の夜は静かだった。
木々は色を失い始め、風が少し冷たい。
でも、隣に誰かがいるだけで、その寒さも嫌ではなかった。
「ねえ」
澪が言う。
「うん」
「来年の秋も、こうして歩けるかしら」
「歩けるだろ」
「……約束?」
「ああ」
「じゃあ、忘れないで」
「忘れない」
澪は、少しだけ安心したように笑う。
「これから先の季節も、ちゃんと一緒に見たいな」
悠理の足が、ほんの少しだけ止まりそうになった。
その言葉は、今までよりずっと未来を感じさせた。
「……そうだな」
悠理は静かに答える。
「一緒に見よう」
澪は少しだけ目を見開き、それから、ゆっくり微笑んだ。
「うん」
秋の夜。
冷たい風の中で。
二人は並んで歩いていた。
恋人ではない。
まだ、その名前をつけるには少しだけ早い。
けれど。
春も。
夏も。
秋も。
そして、これから来る冬も。
その先まで一緒にいたい。
その気持ちだけは、もう二人とも隠せなくなり始めていた。




