第四十四話 秋風と一つのマフラー
席替えから数日。
最初は互いに少しだけ意識していた距離も、数日も経てば少しずつ慣れてくる。
授業中に分からないところがあれば、自然に聞ける。
消しゴムを落とせば、すぐに拾える。
昼休みには、以前より少しだけ気軽に話せる。
そんな小さな変化が積み重なっていた。
「……だいぶ慣れたな」
悠理が小さく呟く。
「何に?」
隣から澪が聞き返す。
「隣にいること」
「……そうね」
澪は少しだけ笑った。
「最初は、近すぎると思ったけど」
「俺も」
「今は?」
「普通」
「……普通、ね」
澪は少しだけ不満そうな顔をした。
「最近、何でも普通って言えばいいと思ってない?」
「便利だからな」
「ずるい」
「またそれか」
「だって、私にとっては普通じゃないもの」
悠理は思わず澪を見る。
澪は自分で言ったことに気づき、ほんの少しだけ頬を赤くした。
「……そういう意味じゃないわ」
「どういう意味だ」
「……分からない」
悠理は少しだけ笑った。
そんなやり取りも、最近では珍しくない。
朝の空気には、もう完全に秋の冷たさが混じっていた。
校庭の木々は少しずつ色づき始め、風が吹くたびに葉が揺れる。
昼休み。
今日は中庭ではなく、教室の席で昼食を取っていた。
「寒くなってきたわね」
澪が窓の外を見ながら言う。
「ああ」
「朝、少し寒かった」
「もう上着いるだろ」
「そうね」
澪は自分の制服の袖を少しだけつまむ。
「冬って、もっと寒くなるのよね」
「当然だろ」
「分かってるけど」
澪は小さく息をついた。
「寒いの、少し苦手なの」
「意外だな」
「どうして?」
「何でも平気そうだから」
「それ、褒めてないでしょう」
「褒めてる」
「……なら、いいけど」
放課後。
悠理と澪はいつものように一緒に帰ることになった。
校門を出た瞬間、冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
「……寒い」
澪が小さく呟いた。
「だから上着着ろって」
「着てるわ」
「薄いだろ」
「今日はそこまで寒くなると思わなかったの」
澪は両腕を抱えるようにして歩いている。
悠理は少しだけ考えた。
「待ってろ」
「え?」
悠理は鞄を開け、中から黒いマフラーを取り出した。
「これ使え」
澪が目を丸くする。
「……マフラー?」
「ああ」
「でも、それ悠理のじゃない」
「俺は平気」
「でも」
「いいから」
悠理が差し出すと、澪はしばらくそれを見つめていた。
「……本当に?」
「ああ」
「あとで寒くならない?」
「ならない」
「……なら、借りる」
澪は両手でマフラーを受け取った。
黒い、シンプルなマフラー。
派手さはない。
けれど、彼女の淡い色の制服によく合っていた。
澪は首に巻こうとするが、最初は少し不器用だった。
「こう?」
「もう少し長いほうを回せ」
「こう?」
「ああ」
悠理が指で示す。
澪は言われた通りに巻き直した。
「……暖かい」
「だろ」
「うん」
澪はマフラーに頬を少しだけ埋める。
その姿を見て、悠理は少しだけ目を逸らした。
「何?」
「いや」
「また見てたでしょう」
「見てた」
「……もう」
澪は恥ずかしそうにマフラーを少し上まで引き上げた。
「でも、これ」
「なんだ」
「少しだけ、悠理の匂いがする」
悠理の足が止まりそうになった。
「……何?」
「いや」
澪は自分で言ったあと、耳まで真っ赤になっている。
「今のは忘れて」
「無理だ」
「やっぱり!」
澪は顔を伏せた。
悠理も少しだけ気まずくなり、前を向いて歩き出す。
しばらく二人とも何も言わなかった。
だが、その沈黙は嫌ではない。
むしろ、妙に温かかった。
「……悠理」
「なんだ」
「このマフラー」
「うん」
「明日、返す」
「急がなくていい」
「でも、ずっと借りるわけにはいかないでしょう」
「寒い間は使えばいい」
「……え?」
「寒いなら」
澪は目を丸くした。
「じゃあ……」
少しだけ迷ってから。
「もう少しだけ借りる」
「ああ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
駅前へ続く道には、落ち葉が少しずつ増えていた。
風が吹くたびに、一枚、また一枚と舞い落ちる。
「秋って、静かね」
澪が言った。
「夏よりはな」
「夏祭りも、もうかなり前に感じる」
「そんなに前じゃないだろ」
「でも、季節が変わるとそう思うの」
澪は少しだけ空を見上げる。
「夏には夏の思い出があって、秋には秋の思い出ができていく」
「ああ」
「だから、少しだけ好き」
「寒いのに?」
「……それは嫌い」
「どっちだ」
「季節は好き。でも寒いのは嫌」
悠理は少しだけ笑う。
「面倒だな」
「うるさい」
その返しも、もう自然だった。
駅前へ着くころには、辺りはかなり暗くなっていた。
街灯が点き、吐く息が少しだけ白く見える。
澪はマフラーをぎゅっと握りながら立っている。
「今日は本当にありがとう」
「何度も言わなくていい」
「言いたいの」
「そうか」
「だって」
澪はマフラーの端を指先で触れる。
「暖かかったから」
「そうか」
「……それだけじゃなくて」
「何?」
「悠理が貸してくれたものだから」
悠理は黙った。
澪も黙る。
数秒の沈黙。
そして、澪が小さく笑った。
「変かな」
「いや」
「そう?」
「ああ」
悠理は少しだけ考えてから言った。
「大事に使ってくれ」
「……うん」
「なくすなよ」
「なくさない」
「約束だ」
「約束」
澪は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「おやすみ、悠理」
「おやすみ」
澪は少しだけ歩いてから振り返る。
「……これ、明日も借りていい?」
「いいぞ」
「本当に?」
「本当だ」
「……ありがとう」
澪はそのまま帰っていった。
黒いマフラーを巻いたまま。
悠理はその後ろ姿を見送りながら、少しだけ考える。
ただマフラーを貸しただけ。
それなのに、妙に胸に残る。
彼女が自分のマフラーを巻いて歩いている。
その光景が、思っていた以上に嬉しかった。
一方、家へ向かう澪も、同じことを考えていた。
首元は暖かい。
でも、それだけではない。
自分の知らないところで、悠理が選んで、使っていたもの。
それを今、自分が身につけている。
それが少しだけ特別だった。
「……暖かい」
澪は小さく呟く。
冷たい秋風が吹く。
それでも、不思議と寒くなかった。
秋は、夏より静かだ。
だからこそ、小さな変化がよく分かる。
隣の席。
帰り道。
名前で呼ぶ声。
そして、一つのマフラー。
どれも些細なものだ。
けれど、二人にとっては、少しずつ積み重なっていく大切な記憶になっていた。
悠理は、駅前の明かりを見ながら、静かに思った。
冬が来ても。
春が来ても。
こうして隣にいてくれたらいい。
まだ口には出せない。
けれど、その願いは確かに胸の中にあった。




