第四十三話 隣の席
第四十三話 隣の席
翌朝。
悠理が教室へ入ると、まだ生徒は少なかった。
窓の外には薄い雲が広がっている。
悠理は自分の席へ向かう。
そして、ふと気づいた。
澪の席が空いている。
「……まだ来てないのか」
珍しい。
澪は遅刻をするようなタイプではない。むしろ、いつもかなり早めに来る。
悠理が時計を見る。
始業まで、まだ時間はある。
「体調悪いのかな」
そう考えた瞬間、教室の扉が開いた。
「おはよう」
澪だった。
「おはよう」
悠理も返す。
澪は自分の席へ向かったが、その途中で少しだけこちらを見る。
目が合う。
昨日のことを思い出したのか、お互いに少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……」
「……」
まだ、ぎこちなさは残っている。
それでも。
以前のように何も考えずに話していた頃とは違い、互いを意識していることが分かる。
澪が席に座る。
悠理も教科書を取り出す。
それからしばらく。
何も起きなかった。
朝のHR。
先生が黒板に今日の予定を書き込む。
「それじゃあ、今日は席替えするぞ」
教室がざわついた。
「席替え?」
「マジか」
「やった」
「最悪……」
様々な声が上がる。
悠理は特に気にしていなかった。
席など、どこでもいい。
そう思っていた。
だが。
「じゃあ、このくじを引いて」
先生が箱を机の上へ置く。
一人ずつ番号を引く。
悠理の番。
紙を開く。
「……」
番号を確認する。
「どこだ?」
蓮が覗き込もうとする。
「言わない」
「なんでだよ」
「まだ決まってないだろ」
「それもそうか」
生徒たちが順番に移動していく。
教室の中は騒がしい。
悠理も新しい席へ向かった。
そして。
自分の机を見つけた。
「……窓際か」
前の席には誰もいない。
後ろもまだ空いている。
そして、隣の席。
そこへやって来たのは。
「……え」
澪だった。
悠理も、澪も、同時に固まった。
「……隣?」
澪が小さく呟く。
「ああ」
悠理も答える。
教室の端から蓮の声が響く。
「おお、マジか!」
「黙れ」
「悠理、運いいな!」
悠理は蓮を睨む。
「何で俺だけなんだ」
「いや、白峰さんも嬉しそうだぞ」
「……」
悠理が澪を見る。
澪は少しだけ顔を赤くしていた。
「……うるさいわね」
小さく呟く。
その声には、少しだけ笑いが混じっていた。
「ここ、座るわね」
「ああ」
二人で新しい席へ座る。
机と机の距離は近い。
以前なら、何も感じなかっただろう。
今は違う。
肩を動かすだけでも、距離が近く感じる。
澪が教科書を置く。
悠理も同じように置く。
「……近いわね」
澪が小さく言う。
「ああ」
「少し、緊張する」
「俺も」
「……」
澪は少しだけ笑った。
「昨日より、ぎこちないかも」
「そうだな」
そのとき、前の席の男子が振り返った。
「白峰さんと九条って、仲いいよな」
悠理は少しだけ固まる。
澪も一瞬だけ目を丸くした。
「……普通よ」
澪が答える。
「そう?」
「ええ」
男子は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず前を向いた。
悠理は、少しだけ息を吐いた。
「……緊張した」
「私も」
「どうする」
「どうするって?」
「周囲」
「……今まで通りでいいと思う」
「そうだな」
チャイムが鳴る。
一時間目が始まる。
だが、今日ばかりは授業に集中するのが少し難しかった。
隣に澪がいる。
ノートを取る音。
ページをめくる音。
時々、髪が揺れる。
何気ない動作まで気になってしまう。
悠理は自分でも困っていた。
以前なら、こんなことはなかった。
だが、今では。
隣にいるというだけで、少しだけ意識してしまう。
休み時間。
澪が小声で話しかけてくる。
「ねえ」
「なんだ」
「授業、ちゃんと聞いてた?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「……じゃあ、今先生が何て言ったか分かる?」
「……」
「分からないでしょう」
「……少し」
澪は小さく笑った。
「ふふっ」
「何だ」
「あなたでもそうなるんだなって」
「どういう意味だ」
「いつも落ち着いてるから」
「俺も人間だ」
「知ってる」
澪は笑った。
「でも、少し安心した」
「何が」
「私だけじゃなかったから」
悠理は、その言葉に少しだけ口元を緩めた。
「そうだな」
昼休み。
今日は二人とも教室を出ず、そのまま席で昼食を取ることにした。
隣同士だから、以前より会話がしやすい。
「その卵焼き、おいしそう」
澪が悠理の弁当を見る。
「食べるか」
「いいの?」
「ああ」
悠理が一つ渡す。
澪は少しだけ驚いた。
「……本当に?」
「別に」
「じゃあ、いただきます」
澪が口にする。
少しだけ目を細める。
「おいしい」
「普通だ」
「またそれ」
「普通にうまいだろ」
「じゃあ、私のもあげる」
澪は自分の弁当から小さなおかずを一つ取る。
「はい」
悠理は受け取る。
「……これも美味しい」
「でしょう?」
「料理、うまいな」
「知ってるでしょう」
「改めて思った」
澪は少し照れたように笑う。
そんな何気ないやり取りが、今は妙に嬉しい。
午後の授業。
教科書を開いていた澪のペンが、ふいに床へ落ちた。
「あ」
悠理も同時に手を伸ばす。
指先が触れる。
「……」
「……」
二人とも止まる。
悠理が先にペンを拾い、澪へ渡した。
「はい」
「……ありがとう」
声が少し小さい。
「どうした」
「別に」
「顔、赤いぞ」
「あなたもでしょう」
悠理は黙った。
たしかに、自分も少し熱い。
澪はペンを握ったまま、小さく笑った。
「……隣の席って、怖いわね」
「何が」
「こんなに近いんだもの」
「そうだな」
「でも」
「うん?」
「……嫌じゃない」
悠理は少しだけ目を伏せた。
「ああ」
放課後。
ホームルームが終わる。
クラスメイトたちは帰る支度を始めた。
悠理も鞄を持つ。
隣を見る。
澪も帰る準備をしていた。
「一緒に帰る?」
澪から言った。
「ああ」
二人は並んで教室を出る。
廊下に出た瞬間、澪が小さく息を吐いた。
「……今日は、ずっと隣だったのね」
「ああ」
「なんだか、不思議」
「慣れるだろ」
「そうかしら」
「そのうち」
階段を下りる。
澪は少しだけ悠理の横に寄る。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「席替え、嫌じゃなかった?」
「嫌じゃないさ」
悠理は少し考えてから答える。
「むしろ、よかった」
澪が少しだけ目を見開く。
「……本当に?」
「ああ」
「……私も」
「そうか」
「ええ」
校門を出る。
夕方の風が涼しい。
「じゃあ、明日も隣ね」
「そうだな」
「ふふ」
澪は少し嬉しそうに笑った。
駅前で別れるとき、いつものように少しだけ振り返る。
「また明日」
「ああ。また明日」
澪が歩いていく。
悠理はその背中を見送る。
今日から、席が隣になった。
ただそれだけ。
けれど、今の二人にとっては、その「ただそれだけ」が大きかった。
授業中も。
昼休みも。
何気ない会話も。
小さな指先の接触も。
全部が、以前より鮮明に感じられる。
近すぎる距離は、ときに人を戸惑わせる。
けれど。
その距離に慣れていくことができるなら。
きっと二人は、今よりもっと近くなれる。
九条悠理は、夕暮れの空を見上げながら、そんなことを静かに考えていた。
明日も、隣には白峰澪がいる。
それが、少しだけ嬉しかった。




