第四十二話 ぎこちない朝
翌朝。
悠理は、いつもより少しだけ早く学校へ着いた。
理由は、特にない。
……いや。
正確には、ある。
昨日の高台の公園での会話が、頭から離れなかった。
――今は、このままでいましょう。
澪がそう言った。
恋人ではない。
けれど、ただの友達でもない。
そんな曖昧な距離。
昨日までは、それを心地いいと思っていた。
だが、一晩経っても考え続けてしまうと、今までとは少し違う。
「……何考えてるんだ、俺」
悠理は小さく呟いた。
教室はまだ人が少ない。
窓の外から朝の風が入り込んでくる。
机に鞄を置き、席へ座る。
いつもと同じ朝。
それなのに、今日は少しだけ落ち着かない。
しばらくして、教室の扉が開いた。
「おはよう」
聞き慣れた声。
悠理は反射的に顔を上げる。
白峰澪だった。
目が合う。
二人とも、ほんの一瞬だけ止まった。
「……おはよう」
「……おはよう、悠理」
いつもと変わらない。
それだけなのに。
昨日の会話が頭をよぎる。
――私も、少しだけどきどきする。
その言葉を思い出した瞬間、悠理は視線を逸らした。
澪も同じように目を逸らす。
「……」
「……」
沈黙。
今までなら、こんな沈黙は気にならなかった。
今日は違う。
妙に長く感じる。
「……じゃあ、またあとで」
澪が小さく言う。
「ああ」
澪は自分の席へ戻っていった。
悠理は、机に置いた教科書を開く。
だが。
ページを開いても、頭に入ってこない。
――ぎこちない。
自分でも分かる。
昨日までは、名前を呼ぶことも自然だった。
今は、名前を呼ぶだけで少し緊張する。
「……最悪だな」
小さく呟く。
「何が?」
突然、隣から蓮の声がした。
「……いつからいた」
「今来た」
「聞いてたのか」
「ちょっとだけ」
蓮は椅子を引きながら、悠理をじっと見る。
「お前、今日明らかに変だぞ」
「そうか?」
「そうだよ」
「気のせいだ」
「それ、もう通じないからな」
蓮は笑った。
「白峰さんと何かあった?」
「何もない」
「絶対ある」
「ない」
「じゃあ、何で二人とも朝から目合わせてすぐ逸らしてんの?」
悠理は言葉を失った。
「……見てたのか」
「いや、普通に見える」
「……」
蓮は少しだけ笑った。
「まあ、そういう時期なんだろ」
「どういう時期だ」
「自分たちで考えろ」
「意味が分からない」
「分からないふりしてるだけじゃないの?」
蓮はそれ以上言わなかった。
悠理は小さく息を吐く。
だが、蓮の言葉を完全には否定できなかった。
授業が始まる。
悠理は黒板を見る。
いつもなら集中できる。
今日は、何度か視線が窓際へ向いてしまう。
澪も同じだった。
授業中、ときどき目が合う。
そして、すぐに逸らす。
その繰り返し。
以前なら、目が合ったら小さく笑うこともあった。
今は、それすら少し難しい。
休み時間。
澪が悠理の席へやってきた。
「……悠理」
「なんだ」
「ちょっと、いい?」
「ああ」
澪は少しだけ周囲を気にしてから、小さな声で言った。
「昨日のことなんだけど」
「うん」
「……何だか、今日、変ね」
「俺も思ってた」
「やっぱり?」
「ああ」
澪は少し困ったように笑った。
「どうしてだと思う?」
「……昨日、いろいろ話したからじゃないか」
「私もそう思う」
二人とも、少しだけ視線を逸らす。
「今まで普通にできてたことが」
澪が言う。
「少しだけ恥ずかしくなってる」
「分かる」
「名前で呼ぶのも」
「分かる」
「隣に座るのも」
「……分かる」
「目が合うのも」
「……それも」
澪は少しだけ笑った。
「全部じゃない」
「全部だな」
「そうね」
二人で顔を見合わせる。
そして。
同時に笑ってしまった。
ぎこちない。
でも、悪くない。
むしろ。
今までになかった感覚だからこそ、少しだけ新鮮だった。
「……じゃあ」
澪が言う。
「どうする?」
「何が」
「このぎこちなさ」
「そのうち慣れるだろ」
「本当に?」
「ああ」
「でも、今は少し困るわ」
「俺も」
澪は少しだけ目を細めた。
「……なら」
「うん」
「今日は、無理に戻そうとしない?」
「どういうことだ」
「今までみたいにしようとしない」
「……」
「少し恥ずかしくても、そのままでいる」
悠理は少し考える。
「それでいいと思う」
「そう?」
「ああ」
「じゃあ、そうしましょう」
澪は小さく笑った。
「少しだけ、慣れるまで」
「そうだな」
昼休み。
二人は中庭へ向かった。
いつものベンチ。
ただし。
以前なら自然に並んでいた二人は、今日は少しだけ距離を空けて座っている。
「……遠いな」
悠理が言う。
澪は少し驚いた顔をした。
「え?」
「いや」
「何?」
「いつもより距離がある」
澪は自分と悠理の間を見る。
確かに、拳二つ分ほど余計に空いている。
「……意識してたのね」
「そっちもだろ」
「……うん」
澪は少しだけ笑った。
「でも、ちょっと安心する」
「何が」
「近すぎると、まだ少し緊張するから」
「分かる」
「ふふ」
二人の間には、少しだけ空間がある。
でも。
それが嫌ではない。
むしろ、その距離を意識できること自体が、昨日までにはなかったことだった。
しばらく弁当を食べていると、澪が突然、箸を止めた。
「悠理」
「なんだ」
「昨日、帰ってから何考えてた?」
悠理は少しだけ黙った。
「……お前と同じこと」
「どんなこと?」
「この関係のこと」
澪は目を少し見開く。
「……そっか」
「ああ」
「それで?」
「まだ分からない」
「私も」
二人は静かに頷いた。
「でも」
澪が続ける。
「分からなくても、今は嫌じゃない」
「俺も」
「それなら、十分よね」
「ああ」
風が木の葉を揺らす。
秋の空気が少しだけ冷たい。
その冷たさが、かえって心地よかった。
放課後。
二人はいつも通り一緒に帰る。
ただ、最初の頃のように完全に自然ではない。
歩く速度が少しずれたり。
会話が途切れたり。
名前を呼ぶまでに少し間があったり。
「……悠理」
「ん」
「何でもない」
「何だそれ」
「呼びたかっただけ」
「……そうか」
「うん」
澪は少しだけ笑った。
悠理も笑う。
澪が、小さく手を伸ばした。
だが、悠理の手に触れる直前で止まる。
「……どうした」
「……何でもない」
「今、手を繋ごうとした?」
澪の顔が真っ赤になる。
「……知らない」
「分かりやすいな」
「うるさい」
澪は慌てて手を引っ込める。
悠理は少しだけ笑った。
「……繋ぐか?」
澪が顔を上げる。
「え」
「別に、嫌ならいいけど」
「……」
澪はしばらく黙っていた。
そして。
「……嫌じゃない」
悠理が手を差し出す。
澪は少しだけ躊躇ってから、その手を取った。
文化祭のときとは違う。
人混みではない。
はぐれないためでもない。
ただ、繋ぎたいから繋ぐ。
その事実が、二人を少しだけ緊張させた。
「……やっぱり、少し恥ずかしい」
澪が小さく言う。
「俺も」
「でも」
「ん?」
「……嬉しい」
悠理は、その言葉に少しだけ笑った。
「ああ」
二人はそのまま歩いた。
以前より少しぎこちない。
けれど、そのぎこちなさは決して悪いものではなかった。
それは、二人がお互いを少しずつ異性として意識し始めた証だった。
駅前に着くころには、空はすっかり夕方の色に染まっていた。
手を離す。
それだけのことが、少し寂しい。
「……また明日」
澪が言う。
「ああ」
「今度は、もう少し普通に話せるようにする」
「俺も」
「約束」
「約束」
澪は少しだけ笑う。
「でも、今のままでも悪くないわね」
「俺もそう思う」
「……そっか」
澪は満足そうに頷いた。
ぎこちない朝から始まった一日。
目を合わせるだけで照れてしまう。
名前を呼ぶだけで緊張する。
隣に座るだけで意識する。
それでも最後には、また手を繋いだ。
まだ恋人ではない。
けど
二人の距離は、昨日より確実に近くなっていた。
それを一番よく知っているのは、きっと二人自身だった。




