第四十一話 意識してしまう距離
文化祭が終わり、秋の日常が戻ってきてから数日が過ぎた。
大きな行事が終わったあとの日常は、少しだけ静かだった。
廊下から聞こえる声も、教室の空気も、以前と変わらない。
けれど。
悠理にとって、何かが変わっていた。
澪を見るたびに、以前より少しだけ意識してしまう。
文化祭で倒れたこと。
初めて見た涙。
「ここにいて」と言われたこと。
そして、その夜、家まで送ったこと。
それらが頭の片隅に残っている。
それだけなら、まだよかった。
問題は。
昨日まで自然だった距離が、少しだけ分からなくなってしまったことだった。
「おはよう」
朝の教室。
いつものように澪が声をかけてくる。
「おはよう」
悠理も返す。
ただ、それだけ。
なのに。
澪が少しだけ近くに立っていることが、妙に気になる。
以前なら何も感じなかった距離。
今は、ほんの少しだけ近いだけで、心臓が意識してしまう。
「……どうしたの?」
澪が首を傾げた。
「何が」
「さっきから、少し変」
「そうか?」
「ええ」
悠理は視線を逸らした。
「……寝不足かもしれない」
「大丈夫?」
澪が一歩だけ近づく。
その瞬間。
悠理の心臓が、ほんの少し強く鳴った。
「……大丈夫」
「本当に?」
「ああ」
「なら、いいけど」
澪は少し不安そうにしながら、自分の席へ戻っていった。
悠理は小さく息を吐く。
――何でこんなに意識するんだ。
自分でもよく分からなかった。
けれど、たぶん原因は分かっている。
今までなら。
澪が弱さを見せても、支えてあげたいと思うだけだった。
けれど今は。
彼女が自分を頼ってくれることが、少し嬉しい。
「ここにいて」と言われたことも。
手を握られたことも。
全部、妙に鮮明に残っている。
昼休み。
悠理は中庭のベンチに座っていた。
しばらくして、澪がやってきた。
「……隣、いい?」
「ああ」
澪が隣に座る。
肩と肩の距離は、ほんの少し。
以前なら何も思わなかった。
今は。
近い。
妙に近く感じる。
「……悠理?」
「なんだ」
「今日、やっぱり変よ」
「そうか」
「さっきから、私を見てすぐ目を逸らすでしょう」
「……そうか?」
「そうよ」
「気のせいじゃないか」
「気のせいじゃないわ」
澪は少しだけ頬を膨らませる。
「何かした?」
「してない」
「じゃあ、どうして?」
悠理は答えられなかった。
自分でも説明できない。
ただ、意識してしまう。
それだけだった。
澪はしばらく悠理を見ていたが、やがて少しだけ顔を近づけた。
「……もしかして」
「なんだ」
「私のこと、避けてる?」
悠理はすぐに首を横に振った。
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「……」
悠理は少しだけ考えた。
そして、正直に言った。
「意識してるだけ」
「……え?」
澪が固まった。
悠理も、言ってしまってから気づく。
今のは、かなり危ない言い方だった。
「何を?」
澪の声が少し小さくなる。
「……いろいろ」
「いろいろって何よ」
「分からない」
「分からないの?」
「ああ」
澪は少しだけ困った顔をした。
「……それ、私のせい?」
「たぶん」
澪の頬が少し赤くなる。
「……そう」
「嫌か」
「嫌じゃない」
澪はすぐに答えた。
その返事の速さに、今度は悠理のほうが少し驚いた。
「……そうか」
「ええ」
澪は視線を逸らした。
「私も……少し意識するから」
「何を」
「あなたのこと」
悠理の心臓が大きく鳴った。
「……そうか」
「うん」
それ以上は、二人とも言えなかった。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
中庭の向こうでは、他の生徒たちが話している。
二人の周囲だけ時間がゆっくりになったように感じられた。
「文化祭のあとから」
澪が小さく言う。
「うん」
「あなたが前より近く感じるの」
「……」
「でも、近いと思うと、少し恥ずかしい」
悠理は少しだけ目を伏せた。
「分かる」
「本当に?」
「ああ」
「……そう」
澪は小さく息を吐く。
「なら、私だけじゃないのね」
「そうだな」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
だが、気まずくはなかった。
むしろ。
これまでとは違う、少しだけ甘い沈黙だった。
放課後。
悠理は教室で帰り支度をしていた。
今日はいつものように澪と帰る。
そう思っていた。
だが。
「……悠理」
澪が後ろから声をかけてきた。
「なんだ」
「今日、少しだけ寄り道したい」
「ああ」
「いい?」
「もちろん」
学校を出て、二人は駅とは反対方向へ歩く。
秋の夕方は日が短い。
空はすでに橙色に染まり始めていた。
「どこへ行くんだ?」
悠理が聞く。
「……秘密」
「またか」
「たまにはいいでしょう」
澪は小さく笑う。
しばらく歩くと、以前二人で行った高台の公園が見えてきた。
「ここか」
「ええ」
夕焼けを見るには、ちょうどいい時間だった。
二人でベンチに座る。
風が少し冷たい。
「……ここに来たかったの」
「どうして」
「少しだけ話したかったから」
「何を」
澪は少しだけ黙った。
そして、静かに言った。
「文化祭のあとから、私も少し変なの」
「どう変なんだ」
「悠理のことを、前より考えるようになった」
「……」
「朝、顔を見ると安心する」
「……うん」
「放課後、一緒に帰れると嬉しい」
「……」
「メッセージが来ると、少しだけ嬉しくなる」
悠理は何も言えなかった。
「それに」
澪は少しだけ声を落とした。
「私が泣いたとき、隣にいてくれたことを、何度も思い出すの」
夕日の中で、彼女の横顔が少し赤く染まっていた。
「……あれは」
「うん」
「忘れていい」
「嫌」
澪は即答した。
「忘れたくない」
「……そうか」
「私にとって、すごく大切なことだったから」
悠理は、静かに空を見る。
自分にとっても同じだった。
「俺も忘れない」
「……うん」
澪は嬉しそうに笑った。
けれど、次の瞬間。
「だから、少し困ってるの」
「何が」
「悠理との距離」
「距離?」
「ええ」
澪は少しだけ九条を見る。
「前は、隣に座っても、手を繋いでも、ただ安心するだけだった」
「今は?」
「……少しだけ、どきどきする」
悠理は、思わず黙った。
澪は自分で言ってから顔を伏せる。
「……言わなきゃよかった」
「いや」
「恥ずかしい」
「俺も同じだ」
「……本当に?」
「ああ」
「どんなとき?」
悠理は少し考える。
「お前が近くにいるとき」
「……」
「名前を呼ばれたとき」
「……」
「笑ってるのを見たとき」
「……もういい」
「なんでだ」
「恥ずかしいから」
澪は完全に顔を赤くしていた。
悠理も少しだけ視線を逸らす。
秋の夕方。
冷たい風が二人の間を通り抜ける。
なのに、妙に熱かった。
「……ねえ、悠理」
「なんだ」
「私たち」
「うん」
「今、どういう関係なのかしら」
悠理は答えられなかった。
友達。
それは確かだ。
普通の友達とは違う。
秘密を共有して。
休日を一緒に過ごして。
夏祭りで手を繋いで。
泣いている姿まで見せてもらって。
そして今。
互いに相手を意識している。
「……分からない」
悠理は正直に答えた。
「私も」
澪も小さく頷く。
「でも」
「うん」
「分からないままでも、いい気がする」
「どうして」
「今の関係を、急いで変えたくないから」
悠理はその言葉を聞いて、少しだけ安心した。
「ああ」
「これから、もっといろんなことを知っていけばいいと思う」
「そうだな」
「だから」
澪は少しだけ笑った。
「今は、このままでいましょう」
「ああ」
二人は夕日を見る。
沈んでいく光。
長く伸びる影。
少しずつ近づいていく季節。
恋人ではない。
ただの友達でもない。
二人はまだ、その間にいた。
ただ。
その曖昧な距離は、決して不快ではなかった。
むしろ。
二人にとって、今は一番心地いい場所だった。
駅前に着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「また明日」
澪が言う。
「ああ」
「……悠理」
「なんだ」
「今日は、ありがとう」
「何に対して」
「話をしてくれたこと」
「こっちこそ」
「……うん」
澪は少しだけ笑う。
そして、いつものように歩いていく。
悠理も、その背中を見送る。
以前なら、ただの帰り道だった。
今は違う。
彼女が振り返るかもしれない。
名前を呼ぶかもしれない。
そんな小さな期待が生まれている。
やがて澪は角のところで一度だけ振り返った。
「……おやすみ」
「おやすみ」
小さく手を振る。
それだけだった。
けれど。
悠理の胸の中には、確かに何かが残った。
意識してしまう距離。
近くなった心。
言葉にはできない感情。
それはまだ恋と呼ぶには少しだけ早い。
けれど、二人の間にあった距離は、もう以前と同じではなかった。
そして二人とも、その変化を、少しだけ嬉しいと思い始めていた。




