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第四十話 帰りたくない夜

放課後。


 最後の授業が終わっても、澪はすぐに席を立たなかった。


 いつもなら、帰る準備を整えてから悠理のほうを見る。


 それが、いつの間にか二人の間で当たり前になっていた。


 けれど今日は違う。


 鞄を机の横に置いたまま、澪は窓の外を見ていた。


「……帰らないのか」


 悠理が声をかける。


 澪は少しだけ振り返った。


「うん」


「何かあるのか」


「別に」


「なら帰るぞ」


 澪は一瞬、答えなかった。


 そして。


「……帰りたくない」


 小さな声で言った。


 悠理は黙った。


 教室にはまだ何人か生徒が残っている。


 蓮たちは帰る準備をしながら、何気ない会話を続けていた。


 その中で、澪の声だけが妙に静かに聞こえた。


「……家にか」


「うん」


「そうか」


 悠理は、それ以上すぐには聞かなかった。


 昼休みに泣いたばかりだ。


 今も、彼女の目元にはわずかに赤みが残っている。


 無理に理由を聞き出す必要はない。


 だが。


「じゃあ、すぐ帰らなくていい」


 悠理が言う。


 澪は目を上げた。


「……いいの?」


「ああ」


「でも、悠理は」


「俺も急いでない」


「……そっか」


 澪は少しだけ安心したように笑った。


 その笑顔を見ると、悠理は自分の判断が間違っていなかったと思う。


「おーい、九条」


 蓮がこちらを見た。


「今日、帰らないのか?」


「少しな」


「そうか」


 蓮は一度澪を見て、何かを察したように笑う。


「じゃあ、俺たちは先に帰るわ」


「ああ」


「お疲れ」


「おう」


 クラスメイトたちが一人、また一人と教室を出ていく。


 やがて、教室には悠理と澪だけになった。


 夕方の光が、机の上に長い影を作っている。


 しばらく。


 二人とも何も言わなかった。


 澪は窓の外を見ている。


 悠理は、その横顔を見ていた。


「……今日の昼」


 澪が先に口を開いた。


「ああ」


「ごめん」


「だから謝るな」


「でも、泣いて」


「泣いてもいい」


「……本当に?」


「ああ」


 澪は少しだけ笑った。


「悠理って、たまに同じことを何度も言うわね」


「覚えてほしいからな」


「……覚えてる」


 その声は、少しだけ嬉しそうだった。


「ちゃんと、覚えてるわ」


 悠理は頷いた。


 また沈黙が落ちる。


 けれど、今日の沈黙には少しだけ違うものがあった。


 昼休み、澪は泣いた。


 今まで誰にも見せなかった部分を、悠理に見せた。


 だからなのか。


 今、二人の間には、以前よりも少しだけ近い空気がある。


「……悠理」


「なんだ」


「今日、家に帰ったら」


 澪の声が止まる。


 悠理は待った。


「また、何か言われると思う」


「父親か」


「うん」


「文化祭のこと」


「たぶん」


 澪は両手を膝の上で重ねる。


「私が倒れたことも、もう知ってるかもしれない」


「連絡が行ったのか」


「先生から連絡があったかも」


「……そうか」


 澪は少しだけ笑った。


 だが、その笑顔には力がなかった。


「心配されると思う?」


 悠理は答えなかった。


 澪自身も、答えを知っている。


「……されないわ」


 自分で言った。


「たぶん、『そんなことで倒れるなんて情けない』って言われる」


「……」


「それか、『自己管理もできないのか』って」


 悠理の手が少しだけ強く握られる。


 怒りだった。


 けれど、ここで怒鳴っても意味がない。


「嫌なら、聞かなくていい」


「でも」


「無理に聞く必要はない」


「家だから」


 澪は小さく呟いた。


「帰ったら、いるもの」


「……そうだな」


「だから、帰りたくない」


 その言葉を聞いて、悠理は胸の奥が重くなった。


 家に帰りたくない。


 それは、本来なら簡単には言わない言葉だ。


 学校で一日疲れて。


 嫌なことがあって。


 それでも最後には帰れる場所がある。


 普通なら、家とはそういうものだ。


 だが、澪にとっては違う。


 家は休む場所ではない。


 また「ちゃんとしているか」を見られる場所。


 また「期待に応えられたか」を問われる場所。


 悠理は、静かに言った。


「じゃあ」


「うん?」


「今日は、俺と一緒にいるか」


 澪がこちらを見る。


「……え」


「すぐには帰らなくていい」


「でも」


「飯でも食って、どこか歩いて」


「……」


「少し落ち着いてから帰ればいい」


 澪はしばらく悠理を見つめていた。


「……いいの?」


「ああ」


「悠理の家には」


「まだ帰らない」


「家族、心配しない?」


「連絡すれば大丈夫だ」


「……そう」


 澪の目が少しだけ潤む。


 だが、今度は泣かなかった。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 二人は学校を出た。


 外はすでに夕方になっている。


 空は少しずつ暗くなり始めていた。


「どこ行く」


「……どこでもいい」


「一番困る答えだな」


「じゃあ、悠理が決めて」


「俺も困る」


「ふふ」


 澪が小さく笑った。


 その笑い声を聞いたとき、悠理は少しだけ安心した。


 とりあえず、いつもの商店街まで歩く。


 秋の夕方。


 店の明かりが少しずつ灯り始めている。


 文化祭が終わったばかりの学校とは違う、いつもの街の空気。


「……何食べたい」


「温かいもの」


「それだけか」


「うん」


「分かった」


 二人は小さな定食屋へ入った。


 店内は、夕食の時間にはまだ少し早く、比較的空いている。


 窓際の席に座る。


「……落ち着く」


 澪が小さく言った。


「そうか」


「うん」


「良かった」


 温かい料理が運ばれてくる。


 湯気が立ち上る。


 澪は少しだけ目を細めた。


「……美味しい」


「ちゃんと食え」


「うん」


「今日は倒れたんだから」


「分かってる」


「残すなよ」


「……お母さんみたい」


「誰がだ」


「悠理が」


「俺は男だ」


「そういう意味じゃない」


 澪は少し笑う。


 さっきまでの重い空気が、少しずつほどけていく。


 二人で食事を終えたあとも、すぐには帰らなかった。


 近くの公園へ行く。


 夜の公園は静かだった。


 ベンチに座る。


「寒くないか」


「少し」


「……」


 悠理はまた上着を脱ごうとした。


「待って」


「何だ」


「前も借りたでしょう」


「だから」


「今日はいい」


「寒いんだろ」


「でも」


 澪は少しだけ笑った。


「今日は、悠理の隣にいるから」


「……意味が分からない」


「分からなくていい」


 悠理は少しだけ困った。


 澪は、前よりも少しだけ素直になっている気がする。


 昼に泣いたからなのか。


 それとも、昨日の約束があるからなのか。


 どちらにしても。


 悠理はその変化を嫌だとは思わなかった。


「……今日」


 澪が夜空を見ながら言った。


「うん」


「帰りたくないって言ってよかった」


「ああ」


「もし、前の私だったら」


「言わなかった?」


「絶対に言わなかった」


「そうだろうな」


「でも、今日は言えた」


「俺がいたからか」


 澪は少しだけ黙る。


 そして。


「……うん」


 小さく頷いた。


「悠理がいたから」


 悠理の胸が、少しだけ強く鳴った。


「……そうか」


「それだけ?」


「何て言えばいいんだ」


「分からないなら、それでいい」


 澪は笑った。


 しばらくして。


 澪のスマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 父親からの着信だった。


 澪の表情が固まる。


「……出なくていい」


 悠理が言った。


「でも」


「今すぐじゃなくてもいい」


「……」


「さっき、無理しないって約束しただろ」


 澪は画面を見る。


 着信音は止まった。


 しかし、すぐにメッセージが届く。


 澪はそれを開こうとした。


「見なくていい」


「でも、見ないと」


「今日はいい」


「……」


「今は、嫌なら嫌って言え」


 澪の指が止まった。


 そして。


 ゆっくりとスマートフォンの画面を伏せた。


「……見たくない」


「ああ」


「今日は、見たくない」


「なら見なくていい」


 澪は、少しだけ安心したように息を吐いた。


「……うん」


 そのまま、二人はしばらく座っていた。


 夜の空は暗い。


 けれど、隣に誰かがいるだけで、夜の怖さは少し違う。


「悠理」


「ん」


「今日は、帰りたくないって言ったけど」


「ああ」


「本当は、家が嫌なわけじゃないのかもしれない」


「どういうことだ」


「……家に帰ったあと、一人になるのが嫌なの」


 悠理は黙った。


「家に人はいる」


 澪は続ける。


「でも、一人みたいなの」


 その言葉が、胸に残った。


 誰かがいることと、誰かに寄り添ってもらえることは違う。


 家族がいることと、居場所があることも違う。


「……なら」


 悠理は言った。


「一人じゃない」


 澪がこちらを見る。


「今も」


「うん」


「明日も」


「……うん」


「これからも、俺がいる」


 澪の目が揺れる。


「……それ、約束?」


「ああ」


「……本当に?」


「本当だ」


 澪は何度か瞬きをした。


 そして。


 小さく笑った。


「……ありがとう」


「何回目だ」


「何回言っても足りない」


「そうか」


「うん」


 夜が少しずつ深くなっていく。


 帰る時間が近づいていた。


「……そろそろ帰るか」


 澪は、少しだけ寂しそうな顔をした。


 けれど、前とは違った。


「うん」


 自分で頷いた。


「今日は、帰れる」


「そうか」


「悠理といたから」


 悠理は立ち上がる。


「送る」


「いいの?」


「ああ」


 二人は並んで歩き出す。


 澪の家へ向かう道。


 昨日までなら、彼女にとって一番嫌な道だったのかもしれない。


 けれど今日は、少しだけ違う。


 隣に悠理がいる。


 家の前まで一緒に歩いてくれる。


 それだけで、澪の足取りは少しだけ軽かった。


 やがて、家の近くに着く。


「……ここでいい」


「本当に?」


「うん」


「何かあったら連絡しろ」


「……する」


「約束だ」


「約束」


 澪は少しだけ立ち止まった。


「悠理」


「なんだ」


「……今日は、私のわがままに付き合ってくれてありがとう」


「わがままじゃない」


「でも」


「わがままでもいい」


 澪が目を見開く。


「……え?」


「俺に言うくらいなら」


 悠理は少しだけ視線を逸らした。


「それくらい、何でもない」


 澪はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと笑った。


「……じゃあ、これからも言う」


「ああ」


「たくさん言うかもしれない」


「ほどほどにしろ」


「ふふ」


 澪は笑った。


 その笑顔は、昼に泣いていた少女と同じ人間には見えないほど、少しだけ明るかった。


「おやすみ」


「おやすみ」


 澪は家の方向へ歩き出す。


 数歩進んだあと。


 振り返った。


「……悠理」


「何だ」


「今日は、ちゃんと帰ってくれてよかった」


「俺が?」


「うん」


「帰ったのは澪だろ」


「違うわ」


 澪は小さく笑う。


「私のところに来てくれたから」


 その言葉を残して、澪は今度こそ家へ向かった。


 悠理は、その背中が見えなくなるまでそこに立っていた。


 そして思う。


 誰かの「帰りたくない」という言葉を、聞き流さなくてよかった。


 誰かの「そばにいてほしい」という気持ちに、気づけてよかった。


 恋なのか。


 まだ、分からない。


 けれど。


 白峰澪が「帰りたくない」と言った夜。


 悠理は、彼女の隣にいたいと、以前よりずっと強く思った。


 夜空には星が見えていた。


 その光は遠い。


 けれど、今日の二人には、もう少し近い場所に、確かな明かりがあった。

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