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第三十九話 初めて流した涙

翌朝。


 学校には、昨日までの騒がしさが嘘のように消えていた。


 廊下に飾られていた装飾は外され、教室の前に並んでいた案内板もなくなっている。


 昨日までなら、どこを見ても文化祭の名残があった。


 今日は違う。


 いつもの学校。


 いつもの授業。


 いつもの朝。


 けれど、悠理には少しだけ違って見えた。


 文化祭が終わったからというだけではない。


 昨日、屋上で澪と話したことが、まだ心の中に残っている。


 もう無理をするな。


 その約束。


 そして、自分の前なら「大丈夫じゃない」と言えるようになったという言葉。


 悠理は自分の席に座りながら、窓の外を見た。


 秋の空は澄んでいる。


 風も昨日より冷たい。


「おはよう」


 蓮が教室へ入ってきた。


「おはよう」


「……なんか今日、顔が真面目だな」


「いつもだ」


「いや、いつもより」


「気のせいだ」


「またそれか」


 蓮は苦笑しながら席についた。


「白峰さん、今日は来るかな」


「来るだろ」


「だよな」


 そのとき、教室の扉が開いた。


 澪が入ってくる。


 いつものように整った制服。


 いつものように綺麗に整えられた髪。


 いつものように静かな表情。


 けれど。


 悠理には分かった。


 昨日までとは少し違う。


 目元が、ほんの少しだけ赤い。


 眠れていないのかもしれない。


「……おはよう」


 澪がこちらを見る。


「おはよう」


 悠理が返す。


 澪はほんの少しだけ笑った。


 だが、その笑顔は少しだけ無理をしている。


 悠理は気づいたが、今は何も言わなかった。


 授業が始まる。


 午前中はいつものように過ぎていった。


 文化祭が終わったあとの空気は少しだけ緩んでいる。


 先生も、生徒たちも疲れていた。


 だが、澪はいつも通りノートを取り、授業に集中していた。


 それでも。


 悠理には何度か、彼女が小さく息を吐いているのが見えた。


 昼休み。


 中庭へ向かうと、澪はすでにベンチに座っていた。


「……今日は早いな」


「うん」


 澪は少しだけ笑った。


「昨日、上着ありがとう」


「どういたしまして」


「これ」


 澪は悠理から借りた上着を丁寧に畳んで差し出す。


「洗ってから返そうと思ったんだけど」


「別にそこまでしなくていい」


「でも、借りたものだから」


「分かった」


 悠理は受け取った。


 澪は少しだけ安心したように息を吐く。


「……ねえ」


「なんだ」


「昨日のこと、覚えてる?」


「ああ」


「全部?」


「たぶん」


「たぶんじゃ困るわ」


 澪は少しだけ笑った。


「屋上で話したこと」


「ああ」


「夕日」


「ああ」


「……約束」


「ああ」


 澪は少しだけ俯いた。


「私、昨日からずっと考えてるの」


「何を」


「自分のこと」


 その声は、いつもより静かだった。


「昨日まで、自分が無理していることは分かっていた。でも、やめられなかった」


「うん」


「ちゃんとしていれば、誰にも迷惑をかけないと思ってた」


「そうだな」


「でも、違った」


 澪は弁当箱の端に指を置いたまま、言葉を続ける。


「私が倒れたことで、逆にみんなに心配をかけた」


「それは仕方ない」


「分かってる」


 澪は小さく笑う。


「でも、もう少し早く止まれたんじゃないかって思うの」


「……そうだな」


「だから、これからは少しずつ変わりたい」


 悠理は静かに頷いた。


「無理しないようにする」


「ああ」


「疲れたら言う」


「ああ」


「嫌なことがあったら、一人で抱え込まない」


「ああ」


「誰かに頼る」


「ああ」


 澪は少しだけ笑った。


「……全部、悠理が言ったことね」


「そうだな」


「ちゃんと覚えてるのね」


「覚えてる」


「なら、よかった」


 悠理は、少しだけ安心した。


 昨日のことを、澪はちゃんと自分の中で考えている。


 それなら大丈夫だと思った。


 そのとき。


 澪のスマートフォンが震えた。


 澪は画面を見る。


 そして。


 表情が止まった。


「……」


 悠理はすぐに気づいた。


「どうした」


「……ううん」


 澪はスマートフォンを伏せる。


「何でもない」


 その声は、明らかに昨日までとは違った。


 悠理は少しだけ眉を寄せた。


「澪」


「……なに」


「本当に?」


「……」


 澪は答えない。


 悠理は、無理に聞き出すことはしなかった。


 だが、しばらくして澪が小さく呟いた。


「家から」


「何かあったのか」


「……ちょっと」


 そこで言葉が止まる。


 悠理は、ただ待った。


「父からだったの」


「……そうか」


「文化祭、見に来なかったでしょう」


「ああ」


「でも、終わったからって連絡が来た」


「何て?」


 澪はスマートフォンを握りしめた。


「……『また期待に応えられなかったな』って」


 悠理は言葉を失った。


 澪は笑おうとした。


 だが、うまく笑えない。


「別に、いつものことだから」


「いつものこと?」


「ええ」


「だから平気なのか」


「……平気よ」


 その声は、弱かった。


 悠理には分かる。


 平気ではない。


 けれど、今までの澪なら、本当にここで終わらせていたのだろう。


 平気だと言って。


 何でもないと言って。


 一人になったあとで、自分を納得させていた。


 だが。


「……平気じゃないだろ」


 悠理が言う。


 澪の表情が揺れた。


「……」


「言っていい」


「何を」


「平気じゃないって」


「……」


「俺には」


 澪は俯いた。


 肩が小さく震えている。


「……言ったら」


「うん」


「本当に、嫌にならない?」


「ならない」


「面倒じゃない?」


「ならない」


「重くない?」


「ならない」


 悠理は、迷いなく答えた。


「何度言われても、ならない」


 澪は、唇を噛んだ。


 そして。


「……私」


 声が震える。


「私、頑張ったのに」


 その一言だった。


 澪の目から、一粒の涙が落ちた。


 悠理は何も言わなかった。


 ただ、見ていた。


 澪は慌てて顔を伏せる。


「ごめん……」


「謝るな」


「でも……」


「泣いていい」


 澪の肩が揺れる。


「……私、ちゃんとしようとしたの」


「うん」


「勉強も、学校も……全部」


「うん」


「誰にも迷惑をかけないようにして……」


「うん」


「嫌われないようにして……」


 次の瞬間。


 堰が切れた。


「……なのに、どうして……」


 澪は両手で顔を覆った。


 涙が次々に落ちていく。


 声を抑えようとしているのが分かる。


 それでも、止まらない。


「どうして、頑張っても……」


「……」


「ちゃんとしてても……」


「……」


「足りないの……?」


 悠理は、胸が締めつけられるようだった。


 今まで何度も見てきた。


 澪は強かった。


 笑っていた。


 いつも正しい答えを出していた。


 だからこそ。


 この涙は重かった。


 きっと、今まで誰にも見せてこなかった涙だ。


「……澪」


「……なに」


「こっち見なくていい」


「……」


「そのままでいい」


 澪は顔を覆ったまま、小さく息を震わせる。


「……みっともない」


「そんなことない」


「泣いてる」


「ああ」


「こんなの……知られたくなかった」


「でも、今は知られてる」


「……うん」


「それでいい」


 悠理は、少しだけ距離を詰めた。


 けれど、触れる前に止まる。


「……触っていいか」


 澪は、しばらく答えなかった。


 やがて、小さく頷いた。


 悠理は、そっと彼女の肩に手を置いた。


 それだけ。


 それ以上はしない。


 澪は、その手の温度を感じたのか、少しだけ肩の力を抜いた。


「……悠理」


「なんだ」


「……ここにいて」


「ああ」


「帰らないで」


「帰らない」


「……本当に?」


「本当だ」


 澪は、その言葉を聞いて、さらに涙を流した。


 けれど、今度の涙は少しだけ違った。


 苦しさだけではない。


 安心して泣けることに気づいた涙だった。


「……ごめんね」


「だから謝るな」


「ありがとう」


「……ああ」


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 中庭には風が吹いている。


 木の葉が揺れている。


 昼休みのざわめきは遠い。


 誰も、ここで泣いている少女を知らない。


 そして悠理は、今まで知らなかった。


 彼女が、本当はどれほど傷ついていたのか。


 完璧な少女ではない。


 ただ、嫌われたくなくて。


 失望されたくなくて。


 愛されるために頑張り続けた、一人の少女だった。


「……もう少しだけ」


 澪が、小さな声で言う。


「こうしててもいい?」


「ああ」


「……ありがとう」


 悠理は、そのまま隣にいた。


 昼休みが終わるチャイムが鳴る。


 それでも、すぐには立たなかった。


 澪は涙を拭いて、少しずつ呼吸を整える。


「……授業」


「ああ」


「行かないと」


「少し遅れてもいい」


「でも」


「今日はそれくらい、いいだろ」


 澪は少しだけ笑った。


「……そうね」


 目はまだ赤い。


 それでも、少しだけ表情が軽くなっている。


「悠理」


「なんだ」


「今日、初めて泣いたの」


「そうか」


「……人の前で泣いたの、たぶん初めて」


「そうなのか」


「うん」


 澪は少しだけ目を伏せる。


「怖かった」


「何が」


「泣いたら、嫌われると思ってた」


「俺は嫌わない」


「……うん」


「何度でも言う」


「……覚えておく」


 澪は、ほんの少しだけ笑った。


「今日、泣いてよかったのかもしれない」


「ああ」


「少しだけ、軽くなった気がする」


「なら、よかった」


 悠理は立ち上がり、澪へ手を差し出した。


「行くか」


 澪はその手を見る。


 そして、少しだけ笑って、その手を取った。


「うん」


 二人で歩き出す。


 泣いたことを恥じる必要はない。


 弱さを見せたことを悔やむ必要もない。


 少なくとも、ここでは。


 澪はもう、完璧でなくてもいい。


 悠理は、それを言葉だけではなく、今日という一日を通して伝えた。


 初めて流した涙は、過去の痛みを消してくれるわけではない。


 けれど。


 誰かの前で泣けたということは、その誰かを信じられたということでもある。


 秋の風が、二人の横を静かに通り抜けていった。


 悠理は、握られた手の温度を感じながら思う。


 この日を、きっと忘れない。


 そして澪もまた、この涙を最後には「弱さ」ではなく、「誰かを信じた証」として覚えていくのだろう。

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