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第三十八話 屋上の夕暮れ

 文化祭が終わった。


 二日間にわたって校舎を満たしていた喧騒は、嘘のように静かになっていた。


 廊下に並んでいた装飾は少しずつ外され、教室に積まれていた段ボールも片づけられていく。


 さっきまであれほど騒がしかった校舎が、今はどこか寂しそうに見える。


 悠理は、自分の教室で最後の片づけをしていた。


「終わったな」


 蓮が大きく息を吐く。


「ああ」


「疲れた……」


「お前はかなり働いてたからな」


「だろ? もっと褒めていいぞ」


「自分で言うな」


「そこは素直に褒めろよ」


 悠理は少しだけ笑った。


 教室の隅には、昨日まで飾られていた展示板が立てかけられている。


 秋色のリボン。


 写真。


 メッセージカード。


 そのどれも、もう文化祭のためのものではない。


 けれど、そこに残っている時間だけは、簡単には消えない気がした。


「白峰さんは?」


 蓮が聞いた。


「保健室」


「まだ休んでるのか」


「ああ」


「大丈夫そう?」


「先生は今日はもう帰って休ませるって」


「そっか」


 蓮は少しだけ真面目な顔になる。


「……あいつ、昨日かなり無理してたもんな」


「ああ」


「九条、お前も心配だろ」


「……まあな」


 蓮はそれ以上何も言わなかった。


「じゃ、俺は先帰るわ」


「ああ。お疲れ」


「お前もな」


 蓮が教室を出ていく。


 九条は一人になった教室を見回した。


 静かだ。


 文化祭が終わったからではない。


 澪がいないから、そう感じるのかもしれない。


 悠理は少しだけ息を吐き、鞄を持ち上げた。


 保健室へ向かう。


 廊下にはもうほとんど人がいなかった。


 窓の外を見ると、夕方の光が校舎をオレンジ色に染めている。


「……もうこんな時間か」


 保健室の前まで来ると、扉が少しだけ開いていた。


「失礼します」


 中を覗く。


 ベッドには澪が座っていた。


「悠理」


 澪は九条を見ると、少しだけ笑った。


「まだいたのか」


「うん。少し休んでた」


「大丈夫か」


「もう平気」


「本当に?」


「……今はね」


 悠理はその返事を聞いて、少しだけ安心する。


 養護教諭は別の作業をしていたが、九条を見ると声をかけた。


「白峰さん、今日はかなり休んだから、もう帰って大丈夫よ。ただ、無理はさせないでね」


「はい」


「文化祭も終わったし、今日はゆっくり休んで」


「分かりました」


 澪はベッドから立ち上がった。


 一瞬だけ身体がふらつく。


 悠理がすぐに手を伸ばした。


「大丈夫か」


「……うん」


「今のは?」


「ちょっとだけ立ちくらみ」


「だから無理するなって」


「分かってる」


 澪は少し申し訳なさそうに笑った。


「今日はもう、ちゃんと休む」


「約束だ」


「うん」


 二人は保健室を出た。


 昇降口へ向かう途中、澪がふと足を止める。


「……屋上、行かない?」


「今から?」


「うん」


「立ちくらみは」


「もう大丈夫」


「本当に?」


「本当に」


 悠理は少しだけ考えた。


「少しだけなら」


「ありがとう」


 二人は階段を上った。


 放課後の校舎は静かだった。


 二階。


 三階。


 そして、その上。


 屋上へ続く扉の前まで来る。


「ここ、開いてるの?」


 澪が尋ねる。


「今日は文化祭の関係で開けてある」


「そうなのね」


 悠理が扉を開ける。


 夕方の風が、一気に吹き込んできた。


「……」


 澪は言葉を失った。


 屋上から見える街は、夕日に染まっている。


 建物の窓がところどころ光を反射し、遠くには山の輪郭が薄く見える。


 秋の空は高く、夏より少し透明だった。


「きれい……」


 澪が小さく呟いた。


「ああ」


 二人はフェンスの近くまで歩いた。


 強く風が吹く。


 澪の髪が揺れる。


「……少し寒い」


「言っただろ」


「言ってないでしょう」


「上着持ってこいって」


「そうだったわね」


 澪は苦笑した。


 悠理は鞄から薄手の上着を取り出した。


「これ着るか」


「え?」


「寒いんだろ」


「……いいの?」


「ああ」


 澪は少しだけ迷ってから受け取った。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 澪は上着を羽織る。


 少し大きい。


 袖が少し余って、手の先が隠れている。


 悠理はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。


「何」


「いや」


「また見てる」


「見てる」


「……もう」


 澪は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。


 そして、しばらく二人で夕日を見る。


 言葉はない。


 けれど、嫌な沈黙ではなかった。


「……文化祭、終わったわね」


 澪が言った。


「ああ」


「昨日まで、あんなに忙しかったのに」


「今日は静かだな」


「ええ」


 澪は屋上から校舎を見下ろした。


「なんだか、不思議」


「何が」


「楽しい時間って、始まるまでは長いのに、終わると一瞬なのね」


「そういうものかもな」


「……夏祭りもそうだった」


「確かにな」


 澪は少しだけ目を伏せた。


「また、終わっちゃった」


「文化祭か」


「ええ」


「寂しい?」


「少し」


 悠理は何も言わずに聞く。


「でも」


 澪は少しだけ笑った。


「前より、寂しくない」


「どうして」


「終わっても、次があるって分かったから」


 悠理は澪を見る。


「次?」


「うん」


 澪は夕日を見つめたまま続ける。


「夏祭りが終わったとき、最初は夏そのものが終わるみたいに思ったの。でも、そのあとも一緒に過ごせたでしょう」


「ああ」


「だから、今回もきっとそうなんだと思う」


「……そうだな」


 澪は小さく頷いた。


「文化祭が終わっても、明日がある」


「その通りだ」


「明日も学校がある」


「ああ」


「放課後もある」


「あるな」


「……だから、少し安心した」


 悠理は、静かに空を見る。


 夕日はゆっくり沈んでいる。


 赤と橙と薄紫が混ざった空。


 その色は、夏祭りの日とも、夏の終わりの日とも違う。


 けれど、きっとこれも二人の記憶になる。


「……今日は、ごめんなさい」


 澪が突然言った。


「何が」


「文化祭」


「だから、謝るな」


「でも」


「文化祭は終わった」


「うん」


「お前が倒れたことも、今はもう過ぎた」


「……そうだけど」


「次に同じことをしないなら、それでいい」


 澪は少しだけ目を伏せる。


「分かった」


「約束」


「約束」


 悠理は少しだけ安心した。


「でも」


 澪が小さく続ける。


「私、倒れてよかったのかもしれない」


「……何言ってるんだ」


「だって、あんなに無理しなくてもいいって、ちゃんと気づけたから」


「……」


「今までなら、たぶんまた『大丈夫』って言ってた」


「今も言ってるだろ」


「それは……」


 澪は少しだけ困ったように笑う。


「でも、前とは違う」


「どう違う」


「今は、悠理に『大丈夫じゃない』って言える気がする」


 悠理の胸に、静かな熱が広がった。


「それなら、十分だ」


「……うん」


 風が吹く。


 澪の髪が揺れ、九条から借りた上着の裾も少しだけ揺れた。


「ねえ、悠理」


「なんだ」


「もう少し、ここにいてもいい?」


「ああ」


「ありがとう」


 二人は再び夕日を見る。


 しばらく何も話さなかった。


 けれど、その沈黙は以前よりもっと自然だった。


 澪が隣にいる。


 それだけでいい。


 悠理は、ふとそんなことを思う。


 恋というものが、どういうものなのか。


 まだ、はっきりとは分からない。


 ただ、彼女と一緒にいる時間が失われるのは嫌だと思う。


 彼女が無理をしているなら止めたい。


 嬉しいなら、一緒に嬉しくなりたい。


 悲しいなら、そばにいたい。


 そして、これからも隣にいてほしい。


 それだけは、もうはっきりしていた。


「……夕日、綺麗ね」


 澪が言う。


「ああ」


「去年も同じ夕日を見た人がいるんでしょうね」


「いるだろうな」


「でも」


 澪は少しだけこちらを見る。


「今日の夕日は、今日しか見られない」


「そうだな」


「だから、覚えていたい」


「覚えてる」


「まだ何も言ってないのに」


「どうせそういう話だろ」


「……ばれてた」


 澪は少しだけ笑った。


「じゃあ、二人で覚えておきましょう」


「ああ」


「今日の夕日」


「約束だ」


「うん」


 夕日が、ゆっくりと山の向こうへ沈んでいく。


 空が赤から紫へ。


 そして、夜へ。


 文化祭という大きな一日が終わった。


 けれど、それは何かの終わりではない。


 むしろ、二人の距離がひとつ深くなっただけだった。


 屋上の夕暮れの中で、九条悠理と白峰澪は、静かにそのことを確かめていた。


 やがて、澪が小さく笑う。


「……帰りましょうか」


「ああ」


「上着、返す」


「そのままでいい」


「でも」


「明日返せばいい」


「……明日?」


「ああ」


 澪は少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「分かった」


 二人は屋上を出る。


 扉が閉じる。


 夕暮れは終わった。


 けれど、その先には明日がある。


 そして明日もまた、きっと二人の新しい一日になる。

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