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第三十七話 もう無理をするな

午後。


 保健室の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。


 窓から差し込む秋の光が、白いカーテンを薄く照らしている。廊下の向こうから、ときどき文化祭の音が聞こえてくる。誰かの笑い声、放送の声、遠くで流れている音楽。


 けれど、保健室の中では時計の針だけが静かに時間を刻んでいた。


 九条悠理は、ベッドの横に置かれた椅子に座ったまま、白峰澪を見ていた。


 澪は目を閉じている。


 先ほどまで真っ白だった顔色は少しずつ戻っているが、まだ本調子ではない。


 悠理は、何度も同じことを考えていた。


 もっと早く止めるべきだった。


 もっと強く言うべきだった。


 「大丈夫」という言葉を、信じるべきではなかった。


 だが、どれだけ考えても、時間は戻らない。


「……悠理」


 不意に、澪の声がした。


「起きたか」


「うん……」


 澪がゆっくり目を開ける。


 まだ少しぼんやりしている。


「ここ、保健室よね」


「ああ」


「文化祭は?」


「まだやってる」


「そう……」


 澪は少しだけ安心したように息を吐いた。


「よかった」


「何がよかったんだ」


「みんなに迷惑をかけなくて済んだかなって」


 悠理の眉が少しだけ寄る。


「……まだそれを言うのか」


「だって」


「澪」


 声が、少し強くなる。


 澪は目を瞬かせた。


「何?」


「もう無理をするな」


 保健室の空気が、ほんの少しだけ止まった。


 澪は何も言わない。


 悠理は、今度は目をそらさなかった。


「昨日からずっと無理してただろ」


「……」


「四時間しか寝てないのに、朝から準備して、来客の相手をして、誰かに頼まれれば全部引き受けて」


「……」


「倒れるまでやる必要なんてなかった」


 澪は布団の端を指先でつまんだ。


「でも……」


「でもじゃない」


 自分でも驚くほど強い声だった。


 澪の肩がわずかに揺れる。


「お前が何でもできるのは分かってる」


「……うん」


「責任感が強いのも分かってる」


「うん」


「みんなのことを考えるのも知ってる」


 悠理は一度息を吸う。


「でも、自分のことを後回しにするのは、優しさじゃない」


 澪の目が少しだけ揺れた。


「……」


「自分が倒れるまで頑張って、それで周りが喜ぶと思うのか」


「……思ってない」


「じゃあ、なんでやった」


 澪は答えられなかった。


 しばらくして、ほんの小さな声が落ちる。


「……怖かったの」


「何が」


「休むのが」


 悠理は少しだけ目を見開いた。


 澪は視線を落としたまま話す。


「私がいなくても大丈夫だって思われるのが、怖かった」


「……」


「みんなが頑張ってるのに、自分だけ何もしなかったら、役に立たない人だと思われるかもしれないって」


「そんなこと……」


「分かってる」


 澪が遮った。


「頭では分かってるの。でも、怖いの」


 声が少し震えている。


「ちゃんとしてないと、嫌われる気がするの」


 悠理は言葉を失った。


 学校で見せている白峰澪。


 成績優秀。


 礼儀正しい。


 何でもそつなくこなす。


 そんな彼女を見て、周囲は「完璧」と言う。


 けれど、その完璧さは、彼女自身が誰かに嫌われないように、誰かを失望させないように、必死で作り上げたものだった。


 悠理は、静かに口を開いた。


「……誰に嫌われたくないんだ」


 澪は少しだけ黙った。


「……みんな」


「みんなって誰だ」


「クラスの人とか、先生とか……家の人とか」


「俺は?」


 澪の目が大きく開く。


「……え」


「俺には、どう思われたい」


 澪は答えられない。


 しばらくして、唇がわずかに動く。


「……嫌われたくない」


 声は消え入りそうだった。


 悠理は、その言葉を聞いて胸が締めつけられるような感覚を覚えた。


「じゃあ」


 ゆっくりと言う。


「俺の前でくらい、ちゃんとしてなくていい」


 澪は何も言わない。


「疲れたら疲れたって言え」


「……」


「眠いなら眠いって言え」


「……うん」


「苦しいなら、苦しいって言え」


「……うん」


「休みたいなら、休め」


 澪の目に、少しだけ光が滲んだ。


「……でも」


「何だ」


「そんな私、嫌にならない?」


 悠理は、ほとんど迷わず答えた。


「ならない」


 澪の瞳が揺れる。


「本当に?」


「ああ」


「どんなに何もできなくても?」


「大丈夫だ」


「何も頑張れなくても?」


「それでもいい」


「……誰かに頼っても?」


「頼ればいい」


「……面倒なことを言っても?」


「聞く」


 澪の唇が、少しだけ震える。


「……ずるい」


「何が」


「そんなふうに全部肯定されたら、何も言えなくなる」


「別に、何も言わなくていい」


「……」


「ただ、無理だけはするな」


 澪はしばらく悠理を見ていた。


 やがて、ゆっくりと目を伏せる。


「……分かった」


「本当に?」


「うん」


「約束だ」


「……約束」


 澪は小さく頷いた。


 そして、少しだけ笑った。


 その笑顔は、学校で見せるものではなかった。


 弱くて、疲れていて、それでも安心している。


「……悠理」


「なんだ」


「手、借りてもいい?」


 悠理は一瞬だけ目を瞬かせた。


「ああ」


 右手を差し出す。


 澪は少しだけ躊躇ってから、その手に自分の指を重ねた。


 握るというほど強くない。


 ただ、そこにいることを確かめるような触れ方だった。


「……あったかい」


「そうか」


「うん」


 澪は目を閉じた。


「少しだけ、このままでいたい」


「いいぞ」


 悠理は手を離さなかった。


 保健室の時計が、静かに時を刻んでいく。


 外では文化祭が続いている。


 けれど、ここでは今、それより大切な時間が流れていた。


 しばらくして、澪がまた小さく口を開いた。


「……ごめんなさい」


「だから謝るな」


「でも」


「倒れたことを謝る必要はない」


「……」


「むしろ、俺がもっと早く止めるべきだった」


 澪が目を開ける。


「悠理のせいじゃないわ」


「そうかもしれない」


「そうよ」


「でも、次は絶対に止める」


「……次?」


「次に無理しそうになったら」


 悠理は真剣な顔で言う。


「俺が止める」


 澪は少しだけ驚いたあと、ゆっくり笑った。


「……分かった」


「嫌か?」


「ううん」


 澪は首を横に振る。


「むしろ、そのほうが安心する」


「そうか」


「ええ」


 しばらくして、養護教諭が保健室へ戻ってきた。


「あら、少し顔色が良くなったわね」


「はい」


 澪が答える。


 先生は悠理と繋がれた手を見て、少しだけ微笑んだ。


「今日はもう無理しないこと。文化祭は他の人に任せていいからね」


「……はい」


「九条くんも、今日はもう帰る準備をして」


「はい」


 澪の顔が少しだけ不安そうになる。


「悠理、帰るの?」


「先生が言ったからな」


「……そっか」


「また明日会える」


「明日……」


 澪は少しだけ考えた。


「明日も来てくれる?」


「ああ」


「……よかった」


 悠理はその声を聞いて、胸の奥が静かに温かくなる。


「今日はもう寝ろ」


「うん」


「ちゃんと食べろ」


「分かった」


「夜更かしするな」


「……善処する」


「約束は?」


「……する」


 澪は少しだけ笑った。


「本当に、うるさい人ね」


「知ってる」


「でも」


「なんだ」


「嫌いじゃない」


 悠理は少しだけ目を見開いた。


「……そうか」


 澪は少し恥ずかしそうに目を閉じた。


「今のは、覚えていていいわ」


「分かった」


「忘れなくていい」


「ああ」


 その言葉を最後に、澪は静かに目を閉じた。


 悠理はしばらくその横顔を見つめる。


 そして、心の中でひとつだけ決めた。


 この人が「大丈夫」と言ったとき。


 それを、そのまま信じるだけではいけない。


 彼女が本当に大丈夫なのか、自分の目で見る。


 無理をしているなら、止める。


 頼られなくても、必要なら手を差し出す。


 それが恋なのかどうか、まだ九条自身には分からない。


 ただ一つ確かなのは。


 白峰澪が苦しんでいる姿を、もう二度と見たくないということだった。


 文化祭の音は、まだ遠くで続いている。


 歓声も、笑い声も、音楽も。


 けれど悠理にとって、その日いちばん強く残ったのは、澪の小さな声だった。


 ――嫌いじゃない。


 その言葉が、静かに胸の奥へ残っていた。

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