第三十六話 倒れた彼女
文化祭二日目。
昨日の疲れが残っているはずなのに、校舎は朝から昨日以上に騒がしかった。
開場前から廊下には生徒の姿が多く、各クラスが最後の確認に追われている。
九条悠理は教室へ入ると、昨日と同じように展示板の状態を確認した。
写真はずれていない。
メッセージカードも問題ない。
飾りもきちんと残っている。
「……大丈夫だな」
「おはよう」
背後から澪の声がした。
振り返る。
白峰澪は、昨日と同じように整った姿で立っていた。
「おはよう」
「今日も早いのね」
「澪もな」
「私は昨日より少し早く来たの」
「どうして」
「昨日、最後まで残れなかったでしょう」
「昨日は十分やってた」
「でも、今日はもう少しやりたいの」
その言葉に、九条は少しだけ眉を寄せた。
「無理するなよ」
「してないわ」
「本当か?」
「本当」
澪はそう言った。
だが、九条には分かった。
昨日より少しだけ顔色が悪い。
目の下に、ほんのわずかな疲れが見える。
「……寝たのか」
「寝たわ」
「何時間」
「普通よ」
「何時間」
「……少しだけ短かったかも」
「どれくらい」
「四時間くらい」
九条は黙った。
「それは普通じゃない」
「文化祭の前日は、どうしても準備をしたくて」
「だからって」
「大丈夫だから」
澪は微笑んだ。
その笑顔が、逆に九条には心配だった。
完璧な笑顔。
何も問題ありません、と言っているような顔。
それが、彼女が無理をするときの顔だと、もう知っている。
「……分かった」
九条はそれ以上追及しなかった。
ただ、今日はいつもより注意して見ることにした。
文化祭二日目が始まる。
昨日より来場者は多かった。
展示室にも次々と人が入ってくる。
「これ、綺麗」
「写真の配置いいね」
「こっちのカードも可愛い」
そんな声が聞こえるたび、澪は丁寧に説明をする。
「ありがとうございます」
「この写真は、クラスのみんなで撮ったものです」
「こちらのカードは自由に書いていただけます」
いつも通りだった。
いや。
いつも以上だった。
澪は昨日より積極的に動いていた。
来場者が増えればすぐ対応し、展示の乱れに気づけば直し、他のクラスメイトが困っていれば助ける。
その姿を見て、九条は少しずつ不安になっていった。
「白峰」
「なに?」
「休め」
「まだ大丈夫」
「今のうちに」
「大丈夫よ」
澪は笑う。
「本当に」
「……分かった」
九条はそれ以上言わなかった。
だが、昼前にはさらに忙しくなった。
展示に使っている写真が一部外れ、メッセージカードが足りなくなり、受付の人数も不足する。
「白峰さん、これどこ?」
「こっちです」
「誰か、追加の紙ある?」
「今持ってくるわ」
「白峰、ちょっと待て」
九条が声をかけるより先に、澪は走り出していた。
「……あいつ」
蓮も少し心配そうに見ていた。
「白峰さん、昨日からずっと動いてないか?」
「そうだな」
「大丈夫かな」
「俺もそう思う」
午後になると、さらに客が増えた。
校内放送も頻繁に入り、廊下を歩く人も多い。
澪はそれでも動き続けた。
「白峰、少し休め」
「大丈夫」
「でも」
「大丈夫だから」
また同じ答え。
九条は、少しだけ強い声を出した。
「澪」
その呼び方に、彼女が振り返った。
一瞬だけ、驚いた顔をする。
九条が学校で名前を呼ぶのは、ほとんどなかった。
「……何?」
「休んでくれ」
「今は……」
「俺が代わる」
「でも」
「いいから」
澪は九条を見つめる。
その目には、少しだけ迷いがあった。
「……分かった」
ようやく、彼女が頷く。
九条はほっとした。
「そこ座ってろ」
「うん」
澪は教室の隅の椅子へ向かった。
だが、そこへ来客が増える。
「すみません、これってどういう展示ですか?」
「……あ」
澪は反射的に立ち上がろうとした。
「白峰」
「大丈夫よ」
「俺がやる」
「でも……」
「いいから」
九条が説明を引き受ける。
澪は、申し訳なさそうに椅子へ戻った。
しばらくして、少しだけ顔色が戻ったように見えた。
だが、それは一時的だった。
午後三時を過ぎたころ。
文化祭のピークが少し落ち着き始めたところで、澪が立ち上がる。
「……水、取ってくる」
「俺が行く」
「大丈夫」
「澪」
「本当に大丈夫だから」
その声は、少しだけ弱かった。
九条は嫌な予感がした。
「待て」
しかし、澪はすでに歩き出していた。
廊下へ出る。
数歩。
さらに数歩。
そのとき。
澪の身体が、ほんの少しだけ揺れた。
「……え」
近くにいた女子生徒が声を上げる。
澪は壁に手をつこうとした。
けれど、手が届かない。
「白峰!」
九条が駆け出す。
次の瞬間。
澪の身体が力を失った。
九条は、倒れる寸前でその身体を抱き止めた。
「澪!」
返事がない。
顔色が真っ白だった。
「白峰さん!」
「先生呼んで!」
周囲が一気に騒がしくなる。
九条は澪を支えたまま、必死に声をかける。
「澪、聞こえるか」
「……」
反応がない。
九条の胸に、冷たいものが落ちた。
いつもならすぐに大丈夫だと言ってくれる。
今は、それすらない。
「先生、来ました!」
教師が駆けつける。
「どうした?」
「急に倒れました」
「保健室へ運ぼう」
「はい」
九条は澪の身体を支えながら、教師と一緒に保健室へ向かった。
廊下の喧騒が、遠く聞こえる。
文化祭の音。
笑い声。
音楽。
全部が、今はどうでもよかった。
保健室に着くと、養護の先生がすぐに対応する。
「君は一度外で待って」
「でも」
「大丈夫。こちらで見るから」
九条は立ち尽くした。
「……お願いします」
扉が閉まる。
廊下に一人残される。
その瞬間、ようやく九条は自分の手が震えていることに気づいた。
「……何やってるんだ、俺」
もっと早く止めるべきだった。
四時間しか寝ていないと聞いたとき。
何度も大丈夫と言われたとき。
顔色の悪さに気づいたとき。
全部、分かっていたはずなのに。
それでも彼女の「大丈夫」を信じてしまった。
「……馬鹿だろ」
自分自身に向けた言葉だった。
しばらくして、保健室の扉が開く。
「九条くん」
養護の先生だった。
「白峰さん、意識が戻ったわ」
「……本当ですか」
「ええ。疲労と寝不足が重なったみたい。念のため少し休ませるから、今日はもう無理をさせないで」
「……はい」
九条はようやく息を吐いた。
「会ってもいいですか」
「少しだけなら」
扉を開ける。
ベッドの上に、澪が横になっていた。
顔色はまだ少し青い。
九条の姿を見ると、澪はゆっくり目を開けた。
「……悠理」
「……何してるんだ」
声が、少し震えた。
澪は申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「謝ることじゃない」
九条はベッドの横の椅子に座った。
「ただ、心配した」
澪の目が少しだけ揺れる。
「……ごめん」
「だから謝るなって」
「……うん」
しばらく沈黙が続く。
澪は布団の端を握った。
「文化祭、どうなってる?」
「今はどうでもいい」
「でも……」
「文化祭より、お前のほうが大事だ」
澪は目を見開いた。
九条自身も、口にしてから少し驚いた。
だが、撤回する気にはならなかった。
「……私のほうが?」
「ああ」
「……そう」
澪は小さく息を吐く。
「嬉しい」
「喜ぶな」
「だって……」
澪は少しだけ目を細めた。
「私、あなたに心配してもらえるの、嫌じゃないから」
九条は返事ができなかった。
しばらくして、澪が小さく言う。
「私ね」
「ん」
「文化祭、ちゃんとしたかったの」
「ああ」
「みんなが頑張ってるから、私だけ休むのが嫌だった」
「……うん」
「役に立ちたかった」
その声は、いつもの澪よりずっと弱かった。
九条は静かに聞く。
「でも、頑張りすぎた」
「……そうみたい」
「自分を後回しにするな」
「うん」
「約束だ」
「……約束」
澪は小さく頷いた。
九条は、その横顔を見ながら思った。
完璧であろうとする彼女は、きっと簡単には変わらない。
だからこそ、自分がそばにいる必要がある。
支えるだけではなく、止めることも。
無理をしているなら、無理するなと言うことも。
「……悠理」
「なんだ」
「今日は、そばにいてくれる?」
九条は一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに答える。
「ああ」
「……ありがとう」
澪は目を閉じる。
少しだけ安心したような顔だった。
保健室の外では、まだ文化祭の音が聞こえている。
笑い声。
音楽。
廊下を走る足音。
けれど、この部屋の中だけは静かだった。
九条は椅子に座ったまま、澪が眠るまで動かなかった。
文化祭はまだ終わっていない。
けれど、九条にとってはもう、文化祭どころではなかった。
今日初めて、はっきりと分かった。
白峰澪を失うかもしれないという想像は、思っていた以上に怖かった。
それほどまでに、彼女はもう、自分の日常の一部になっていた。
そして、そのことを認めるのが怖いほど、胸の奥には確かな感情が芽生えていた。




