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第三十五話 文化祭の朝

 文化祭の朝は、校舎全体が少しだけ違って見えた。


 いつもなら静かな廊下には、朝から生徒たちの足音が響いている。

 教室の前には飾りつけの確認をする声があり、窓際には開け放たれた空気が流れ込んでいた。

 秋の朝らしく少し冷たい風が、準備の熱気とまじり合っている。


 九条悠理は、いつもより少し早く学校に着いた。


「おはよう」


 教室に入ると、すでに蓮が机を寄せている途中だった。


「おはよう」


「早いな」


「そうか?」


「そうか、じゃない。今日、文化祭本番だぞ」


「だからだろ」


「意味が分からん」


 蓮は笑いながら、段ボールを少しだけ脇へ押した。


 九条はそのまま教室の後ろへ向かう。

 展示板は昨日までの準備で整っていたが、最終確認はまだ残っている。


 写真の位置。

 メッセージカードの並び。

 飾りのひとつひとつ。

 少しでも崩れていないか、目で追いながら確かめる。


「……大丈夫そうだな」


「だろ」


 蓮が肩をすくめた。


「昨日のうちに、かなり頑張ってたしな」


「そうだな」


 九条が答えた、そのときだった。


「おはよう」


 白峰澪が教室に入ってきた。


 いつもの静かな声。

 だが今日は、少しだけ違う。


 文化祭の朝というだけで、彼女の空気にもほんの少しだけ緊張が混じっていた。


「……早いのね」


「澪もな」


「まあ、準備があるから」


「そうか」


 澪は、教室の中を一度見回した。

 展示板を見て、少しだけ安心したように息をつく。


「……ちゃんとできてる」


「昨日、確認しただろ」


「でも、今日見るまでは少し不安だったの」


「そうか」


「ええ」


 澪は少しだけ笑った。

 その笑みは、朝の冷たい空気の中でやわらかい。


 文化祭の開始まではまだ少し時間がある。

 だが、準備に追われる生徒たちの動きはすでに慌ただしい。


「九条くん、これどこ置く?」


「こっち」


「白峰さん、受付の札、こっちでいい?」


「もう少し上のほうが見やすいわ」


 そんなやり取りが飛び交う中で、九条も澪も自然に動く。

 蓮は机を並べたり、来客用の動線を確認したりと、思った以上に頼りになる。


「お前、ほんと助かる」


「今さらだろ」


「今さらだな」


 文化祭は、いよいよ始まる。

 その実感が、校舎の空気を少しずつ濃くしていく。


 開会式のチャイムが鳴る少し前、澪が九条のそばへ来た。


「……悠理」


「なんだ」


「少しだけ、緊張してる」


「そうか」


「ええ」


 澪は自分の袖を指で軽くつまんだ。


「展示、ちゃんと見てもらえるかしら」


「見てもらえるだろ」


「本当に?」


「ああ」


「……ならいいんだけど」


 九条は少しだけ彼女を見た。


 こんなふうに緊張する澪は珍しい。

 完璧に見える彼女でも、やはり本番は別なのだろう。


「大丈夫だ」


 九条が言うと、澪は目を上げた。


「……どうして言い切れるの」


「お前がやったから」


 澪の表情が止まる。


「……それ、反則」


「何がだ」


「そういうふうに言われると、もう頑張るしかなくなる」


「頑張るだろ」


「……ええ」


 澪は少しだけ笑った。

 その笑顔には、さっきまでの不安が少しだけ薄れている。


 やがて、校内放送が流れ、文化祭の開始を知らせる拍手が校舎に広がった。


「始まったな」


 蓮が言う。


「ああ」


「いよいよか」


「そうだな」


 教室の前では、すでに最初の来客を迎える準備が整っている。

 展示の前には、落ち着いた秋色の装飾と、写真の並んだパネル。

 澪が提案した配置は、実際に見てもかなり見栄えがよかった。


 開場してしばらくすると、他のクラスや保護者らしき人々が、ぽつぽつと見に来始める。


「これ、いいね」


「写真の並びがきれい」


「秋っぽくて落ち着く」


 そんな声が耳に入るたびに、九条は少しだけ肩の力が抜けた。


 澪も、わずかに安心したように表情をやわらげる。


「……よかった」


「言っただろ」


「ええ」


 だが、文化祭はまだ始まったばかりだ。

 展示を見せるだけでは終わらない。

 午後には、校舎のあちこちを見て回る時間もある。


「少し休めるか」


 九条が小声で言う。


「ええ。少しだけなら」


「じゃあ、後で回るか」


「本当に?」


「ああ」


「……うん」


 澪は少しだけうれしそうに頷いた。


 午前中の来客が少し落ち着いたころ、教室の外から楽しそうな声が聞こえてくる。

 他のクラスはすでに催しを始めているらしい。

 廊下を通る生徒たちの笑い声が、文化祭の空気を一段とにぎやかにしていた。


 九条は展示板の前に立ち、ふと澪を見る。


 澪は受付の近くで、来客に丁寧に説明をしていた。

 声は静かだが、言うべきことをしっかり言っている。

 その姿は、普段の教室よりずっと自然だった。


「……何見てるの」


 説明を終えた澪が戻ってくる。


「いや」


「いや、じゃない顔」


「別に」


「またそれ」


 澪は少しだけ困ったように笑った。

 そして、少しだけ声を落とす。


「……どうだった?」


「何が」


「展示」


「ちゃんと見てもらえてる」


「ほんと?」


「ああ」


「なら、少し安心した」


 九条は静かに頷く。


 そのとき、蓮が遠くから手を振ってきた。


「おい、二人とも。昼前だけど、少し交代できるぞ!」


「分かった」


「じゃあ、見て回る?」


 澪が小さく言う。


「ああ」


 展示の受付を他のクラスメイトに任せ、九条と澪は教室を出た。


 廊下はもう文化祭の空気でいっぱいだった。

 各教室からは笑い声、説明の声、音楽、拍手。

 どこを見ても、少しだけ非日常だった。


「……すごいわね」


「そうだな」


「こんなににぎやかなの、久しぶりかも」


「毎年やってるけどな」


「でも、今年は少し違う」


「何が」


「……あなたと回るから」


 九条は、その一言に少しだけ歩みを緩めた。


「そうか」


「ええ」


 澪は何でもないように言ったが、耳が少しだけ赤い。


 最初に向かったのは、隣のクラスの喫茶風の出し物だった。

 中に入ると、秋色の装飾に合わせた落ち着いた雰囲気が広がっている。


「いい感じだな」


「ええ。こういうのも文化祭っぽい」


 澪は小さなメニュー表を見ながら、少しだけ楽しそうにしていた。


 九条はその横顔を見て、こういう場所も彼女は嫌いではないのだと思う。

 人が多いのは苦手でも、雰囲気そのものはちゃんと楽しめるタイプなのだろう。


「何にする」


「……甘いのでもいいかしら」


「好きにしろ」


「うん」


 澪は少しだけ迷ったあと、紅茶と小さなケーキを選んだ。


 席に座ると、周囲はざわついているのに、不思議と落ち着いた空気が流れる。


「……この感じ、悪くないわね」


「だろ」


「うん」


「文化祭って、意外とこういう静かな時間もあるんだな」


「ええ。ずっと騒がしいわけじゃないのね」


「そりゃそうだ」


 澪は少し笑った。

 その笑顔を見るだけで、九条はここへ来た意味があると思う。


 甘い紅茶を飲みながら、二人は少しだけ話した。


「午後はどこへ行く?」


「まだ決めてない」


「私は、少しだけ落ち着いてからでいい」


「疲れてるのか」


「少しだけ」


「なら、無理するな」


「……優しいのね」


「何度目だ」


「でも、本当だもの」


 九条は少しだけ視線を逸らした。


 文化祭の騒ぎの中で、こうして落ち着いて話せる時間は貴重だった。

 展示が始まり、少し安心して、今はようやくふたりで会場を回れる。


「ねえ、悠理」


「なんだ」


「今年の文化祭、少しだけ特別になりそう」


「まだ始まったばかりだろ」


「ええ。でも、もうそう思うの」


「なら、そうなんだろ」


 澪は少しだけ嬉しそうに頷いた。


 教室へ戻るころには、外の光が少しだけ傾いていた。

 午後もまだ始まったばかりだというのに、文化祭の一日は驚くほど早い。


 展示の前を通ると、また見学者が増えている。

 その中で、澪は小さく息をつき、九条へ目を向けた。


「……戻るわ」


「ああ」


「もう少しだけ、展示の前にいる」


「分かった」


「あなたは」


「俺もいる」


 澪はほんの少しだけ笑う。


「……助かる」


「そうか」


「ええ」


 文化祭の朝は、もう終わった。

 けれど、文化祭本番はまだ続いている。

 この一日がどんな記憶になるのか、まだ分からない。

 だが少なくとも今のところ、悪くない始まりだった。


 九条悠理は、展示板の前に並ぶ秋色の飾りを見ながら、

 白峰澪と過ごす文化祭は、きっと静かで、あたたかくて、少しだけ忘れられないものになるだろうと感じていた。

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