第三十四話 文化祭前夜
文化祭の前日は、学校全体がいつもと違う顔をしていた。
廊下には飾りが増え、教室の前には段ボールや道具箱が並び、どこからともなく笑い声と確認の声が混ざっている。
授業はあるのに、もう気分は半分以上、明日に向かっていた。
九条悠理も、その空気をはっきり感じていた。
「おはよう」
蓮が机に腰掛けたまま言う。
「おはよう」
「今日で最後の準備か」
「そうだな」
「お前、意外と落ち着いてるよな」
「何度目だ、それ」
「だって本当なんだもん」
蓮は肩をすくめる。
「白峰さんがいると、ほんと空気違うよな」
「何だそれ」
「いや、いい意味で。ちゃんと文化祭っぽいっていうか」
九条は少しだけ視線を逸らした。
澪のことを名前に出されると、まだ少しだけ落ち着かない。
朝のHRが終わるころ、白峰澪が教室に入ってきた。
今日の彼女は、いつもより少しだけ表情がやわらかい。
明日が本番だからだろうか。
それとも、ここまでの準備が終わりつつある安心感か。
九条が目を向けると、澪も気づいたように小さくうなずいた。
昼休み。
中庭のベンチでは、秋の風が少し強かった。
「……明日ね」
澪が弁当の蓋を閉じながら言う。
「ああ」
「文化祭、本当に始まるのね」
「そうだな」
「少しだけ、実感がないわ」
「準備ばかりだったからな」
「ええ」
澪は少しだけ空を見上げた。
雲は薄く、風は冷たい。
秋らしい、落ち着いた空だった。
「……緊張してる?」
「少し」
「何に」
「展示を見て、がっかりされたらどうしようとか」
「そんなことないだろ」
「分からないわよ」
「でも、準備したのはお前だ」
澪は少しだけ黙った。
「……そうね」
「そこまで心配する必要はない」
「あなたは、簡単に言うのね」
「簡単じゃない」
「そう?」
「ああ」
澪はその返事に少しだけ目を細めた。
「……じゃあ、少しだけ信じることにする」
「それでいい」
午後の授業は、ほとんどが明日に向けた最終確認だった。
先生の声も、どこかいつもより柔らかい。
クラス全体が、明日の空気に向かって少しずつ整えられていく。
放課後。
展示の最後の確認が終わるころには、夕方の光が教室の奥まで差し込んでいた。
「これで完成、かな」
誰かがそう言う。
掲示板の前に立つと、写真やメッセージカード、秋色の飾りがきれいに並んでいた。
全体は落ち着いていて、それでいて少しだけ温かい。
「……いい出来だと思う」
九条が言うと、近くにいたクラスメイトが頷く。
「だよな」
「白峰さん、めちゃくちゃ助かってたし」
「ほんとそれ」
澪は少しだけ肩を引いた。
褒められるとまだ少し慣れないらしい。
「……私は、少し手伝っただけよ」
「少しじゃないだろ」
蓮が笑いながら言う。
「かなりやってたぞ」
「そうかしら」
「そうだよ」
九条も静かに頷いた。
澪は少しだけ困ったように笑う。
その笑顔が、今日の中ではいちばん自然だった。
教室の片づけが終わるころには、すっかり日が傾いていた。
明日からの文化祭に備えて、校舎は少しずつ静かになっていく。
校門を出ると、風がひときわ冷たかった。
「……明日、寒いかも」
澪が袖を少し引く。
「文化祭にしては涼しすぎるくらいだな」
「上着、持って行ったほうがいいかしら」
「持っていけばいい」
「でも、邪魔にならない?」
「ならないだろ」
「……そう」
澪は少しだけ考えてから、静かに頷いた。
駅前の角で、二人は少し立ち止まる。
「明日、朝早いんだろ」
「ええ。準備があるから」
「八時集合だっけ」
「そう」
「起きられるか」
「起きるわ」
「……本当に?」
「本当よ」
澪は少しむっとした顔をしたが、すぐに口元を緩めた。
「あなたこそ、寝坊しないでね」
「しない」
「絶対?」
「ああ」
「なら、いい」
そのやり取りのあと、澪は少しだけ迷うように視線を落とした。
「……悠理」
「なんだ」
「明日、ちゃんと来てくれる?」
「来るって言っただろ」
「でも、もう一回」
「来る」
九条が即答すると、澪はほっとしたように息をついた。
「……よかった」
「そんなに不安か」
「少しだけ」
「何でだ」
「だって、明日から文化祭でしょう」
「そうだな」
「今年、少しだけ特別にしたいの」
その言葉に、九条は静かに澪を見る。
澪は何でもないふうに言ったように見えたが、耳は少し赤かった。
「……そうか」
「ええ」
「なら、ちゃんと特別になるようにする」
「どうやって」
「一緒に回る」
「それは約束したでしょう」
「じゃあ、展示も見る」
「それも決まってる」
「じゃあ、ちゃんと楽しむ」
澪は少しだけ目を丸くした。
「……そういうこと、簡単に言うのね」
「簡単じゃない」
「そう?」
「ああ」
九条は少しだけ笑う。
「でも、文化祭なら少しは特別にしてもいいだろ」
澪はその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「……そうね」
「明日、楽しみにしてる」
九条がそう言うと、澪の表情がやわらかくなる。
「私も」
「本当に?」
「ええ」
「なら、よかった」
澪は少しだけ笑った。
その笑顔を見ていると、前夜の落ち着かなさも、少しだけ和らぐ気がした。
別れ際、澪は一度だけ振り返る。
「悠理」
「なんだ」
「明日、何かあったらちゃんと言うこと」
「何かって」
「疲れたとか、困ったとか」
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「約束」
「約束だ」
澪はそれでようやく満足したように頷く。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「明日から文化祭ね」
「そうだな」
「……楽しみ」
「俺もだ」
澪は少し照れたように目を伏せ、それから静かに家のほうへ向かった。
その背中を見送りながら、九条は思う。
文化祭は、もう始まる。
準備は終わった。
あとは本番を迎えるだけだ。
教室での展示。
秋の空気。
少しだけ冷たい風。
そして、白峰澪と過ごす明日の時間。
それらすべてが、きっとひとつの思い出になる。
九条悠理は、夜へ変わり始める空を見上げながら、静かに明日を待った。




