第三十三話 近づく本番
文化祭まで、あと三日。
教室には、準備の進んだ展示板や、まだ手つかずの段ボール箱がいくつも積まれていた。
秋の空気が少し冷たくなってきたせいか、放課後の教室は夏よりも落ち着いて見える。
だが、文化祭の話題で生徒たちの気分はどこか浮ついていた。
九条悠理は、自分の席で展示の最終確認をしていた。
資料の順番。
メッセージカードの位置。
飾りの色。
細かい部分ほど、最後に気になる。
「おはよう……じゃないな、もう昼か」
蓮が眠そうに言いながら、机に突っ伏した。
「お前、今日はだいぶ疲れてるな」
「そりゃ疲れるだろ。展示って、思ったより手間かかる」
「昨日も言ってた」
「でも今日も言う」
蓮は顔を上げ、展示板のほうを見た。
「……でも、なんかちゃんと形になってきたな」
「ああ」
「白峰さん、すごいよな。細かいところまで見てるし」
「そうだな」
「お前とも息合ってるし」
「何だそれ」
「いや、ほんとに」
蓮は肩をすくめて笑った。
九条は少しだけ視線をずらす。
最近、こういう話をされると妙に落ち着かない。
だが、完全に否定するほどでもないのが、さらに困る。
昼休み。
中庭は少し風が強く、木の葉が乾いた音を立てて揺れていた。
ベンチに座ると、白峰澪が小さく息をついた。
「……少し寒いわね」
「上着、着てこなかったのか」
「一応持ってきたけど、まだ平気かと思って」
「秋だしな」
「またそれ」
澪は少しだけ笑った。
展示準備で少し疲れているのか、今日はいつもより肩の力が抜けているように見える。
「文化祭、もうすぐね」
「ああ」
「……少しだけ、緊張してるの」
「本番か」
「ええ」
澪は弁当の蓋を閉じながら、視線を落とした。
「展示は、準備しているあいだは落ち着くけど、いざ人に見られると思うと、少しだけ不安になるわ」
「澪でもそう思うんだな」
「思うわ」
「そうか」
九条が答えると、澪は少しだけこちらを見る。
「あなたは、緊張しないの?」
「する」
「本当に?」
「ああ」
「どんなふうに」
九条は少しだけ考えた。
「……見る人が多いと、少しだけ気になる」
「そう」
「でも、澪が一緒なら、たぶん大丈夫だ」
その言葉に、澪はほんの少しだけ目を見開いた。
「……そういうこと、さらっと言うのね」
「事実だ」
「……ずるい」
「またか」
「だって、そう言われると、私まで落ち着くでしょう」
九条は少しだけ笑った。
「なら、言った意味はあるな」
「ええ」
午後の授業が終わると、教室の空気はさらに慌ただしくなった。
文化祭が近いからだろう、各班の確認や買い出しの声が飛び交っている。
放課後。
今日は教室での準備の仕上げだ。
「ここ、もう少し光が欲しいな」
誰かが言う。
「じゃあ、リボン足す?」
「それいいかも」
九条は展示板の右側を確認しながら、澪と並んで作業していた。
秋色の飾りはよくまとまっている。
写真の並びも自然で、全体として落ち着いた雰囲気になっていた。
「この位置でいいかしら」
澪が一枚のカードを差し出す。
「いいと思う」
「本当?」
「ああ」
「……じゃあ、ここに置く」
澪は慎重にカードを差し込み、少しだけ後ろへ下がった。
自分の作品を見るような目だった。
「どう」
九条が聞く。
「……少しだけ、良くなった気がする」
「少しだけか」
「ええ。でも、十分」
澪は小さく笑った。
そのとき、蓮が段ボールを運びながら、ふたりの横を通る。
「おーい、もう少しで終わるぞ」
「お前、何気に頼もしいな」
「今さらだろ」
「そうかもな」
蓮は苦笑しながら、再び荷物の山へ向かった。
九条はふと、澪がその背中を見ていることに気づく。
「どうした」
「……みんな、楽しそうね」
「そうか?」
「ええ。準備って大変だけど、なんだかんだ文化祭そのものより、こういう時間のほうが思い出になるのかもしれない」
九条は少しだけ考えた。
「たしかに」
「でしょう」
澪は少しだけ嬉しそうに目を細める。
展示の仕上げが終わったころには、窓の外がすっかり夕方の色になっていた。
教室の電気がつき、飾りの紙が少しだけ暖かく見える。
「……やっと終わった」
誰かが大きく息をついた。
「お疲れさま」
澪が静かに言うと、クラスメイトたちが少しだけ笑う。
彼女の言い方は穏やかだが、ちゃんと場を落ち着かせる力があった。
教室を出るころ、九条は澪の横顔を見た。
文化祭を前にして、少しだけ不安そうではある。
だが、その不安の中に、ちゃんと楽しみも混じっている。
「……明日から本番か」
九条が言う。
「ええ」
「緊張するか」
「少し」
「でも、行くんだろ」
「もちろん」
「なら大丈夫だ」
「どうして、そんな簡単に言えるの」
「お前が準備したからだ」
澪は少しだけ目を丸くしたあと、ゆっくりと笑った。
「……そういう言い方、ほんとに反則」
「何がだ」
「頑張ってきたことを、ちゃんと認めてくれるところ」
九条は少しだけ黙る。
それは、自分ではただ見えていることを口にしただけのつもりだった。
けれど、澪にはそう聞こえるらしい。
「別に」
「別じゃないわ」
澪は少しだけ言い返したが、その表情はやわらかかった。
駅へ向かう途中、風が少しだけ強く吹く。
街路樹の葉が乾いた音を立てる。
「明日、何時集合だっけ」
「朝の準備は八時」
「早いな」
「文化祭だから」
「大変だ」
「でも」
澪は少しだけ空を見上げた。
「本番が始まると、きっとあっという間よ」
「そうかもな」
「ええ」
駅前で別れる前、澪は少しだけ立ち止まった。
夕方の光が、彼女の髪をやわらかく照らしている。
「悠理」
「なんだ」
「……明日、ちゃんと来て」
「来る」
「本当に?」
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
澪はそれを聞いて、ようやく安心したようにうなずいた。
「なら、私も頑張る」
「頑張りすぎるなよ」
「……それは、少し無理かも」
澪は少しだけ笑って、視線をそらした。
「だって、文化祭の本番でしょう」
「そうだな」
「楽しみでもあるの」
九条は、その言葉に静かに頷いた。
「なら、楽しめばいい」
「ええ」
澪は小さく息を吸い、そしてやわらかく笑う。
「明日、ちゃんと見ててね」
「ああ」
「展示も、私も」
「見てる」
「……うん」
短いやり取りだったが、その一つひとつが妙に胸に残る。
文化祭は、もうすぐだ。
準備は整った。
あとは本番を迎えるだけ。
秋の夕方は早く、駅の向こうの空にはもう薄い群青が滲み始めていた。
九条悠理は、その空を見上げながら思う。
明日から始まる文化祭は、きっと忘れられない。
そして、その中心には白峰澪がいる。
それだけで、少しだけ楽しみだった。




