第三十二話 文化祭準備
秋が深まるにつれて、学校の空気は少しずつ忙しくなっていった。
廊下には文化祭の掲示が増え、各クラスの準備予定や役割分担の紙が貼られている。
授業の合間にも、誰かが「文化祭どうする?」と話している声が聞こえてきた。
九条悠理は、そうした空気を横目に見ながら教室へ入る。
朝の空は少しだけ高く、風は涼しい。
夏の熱気はもうほとんどなく、代わりにどこか乾いた匂いが混じっていた。
「おはよう」
蓮が机に座ったまま、軽く手を上げる。
「おはよう」
「お前、文化祭の話し合い、まだ覚えてるか」
「覚えてる」
「ほんとか?」
「何だその疑い方は」
「だってお前、最近あんまり慌てないから」
「悪いか」
「悪くないけど、たまに不安になる」
「何が」
「ちゃんと人間かって」
「失礼だな」
蓮は笑ったが、その笑いはいつもより少しだけ抑えめだった。
教室の空気が、文化祭準備のせいで少し落ち着かないのだろう。
昼休み。
九条は中庭へ向かう途中、白峰澪に呼び止められた。
「悠理」
「なんだ」
「今日の放課後、少しだけ時間ある?」
「ああ」
「文化祭の準備で、クラスの展示を手伝うことになったの」
九条は少しだけ頷く。
「展示か」
「ええ。写真とか、小物とか、メッセージカードとかを並べるみたい」
「澪が手伝うのか」
「少しだけ」
「意外だな」
「そう?」
「ああ」
澪はわずかに口元を緩めた。
「……あなたも来るでしょう?」
「行く」
「本当に?」
「当たり前だろ」
その返事に、澪は少しだけ安心したようにうなずいた。
放課後。
教室の後方では、すでに机が寄せられていた。
段ボール箱、画用紙、はさみ、のり、マスキングテープ。
文化祭準備らしい雑多な物が、教室の一角を占領している。
「おーい、九条!」
蓮が大きく手を振る。
「こっち手伝ってくれ」
「何をだ」
「この棚、ちょっと動かしたい」
九条が行くと、蓮は机の上の荷物をどかし始めた。
その横で、澪も静かに役割を果たしている。
写真を並べる位置を確認したり、飾り紙の色を相談したり、思った以上に手際がいい。
「白峰さん、これ貼る場所どこがいい?」
「……その左、少し上のほうが見やすいかも」
「お、了解」
クラスメイトが素直に従う。
澪は派手に仕切るわけではないが、自然と場に溶け込んでいた。
九条はその様子を見て、少しだけ意外に思う。
澪は学校一の才女として知られている。
だが、こうした準備の場でこそ、彼女の落ち着いた気配は強く映えるのかもしれない。
「……何」
視線に気づいた澪が、少しだけこちらを見る。
「いや」
「いや、じゃない顔」
「別に」
「またそれ」
澪は少しだけむくれたが、すぐに手元へ戻った。
その横顔は、集中しているせいか少しだけ幼く見える。
教室の後ろでは、展示の骨組みが少しずつ形になっていく。
写真を貼った画用紙。
メッセージを書くスペース。
文化祭のテーマに合わせた飾り。
何人かのクラスメイトが、放課後の喧騒の中で笑っていた。
「これ、もっと色いるかな」
「いや、今くらいでちょうどよくない?」
「じゃあ、リボン足す?」
「いいかも」
そうしたやり取りの中で、九条は澪と並んで作業をする。
「このメッセージカード、どう思う」
澪が小さな紙片を差し出す。
そこには、少しだけ丁寧な字で『秋の思い出』と書いてあった。
「いいと思う」
「本当?」
「ああ」
「……ありがと」
澪は小さく頷いて、そのカードを展示板の端に置いた。
「写真の並べ方、少し悩むわね」
「何がだ」
「順番。季節順にするか、雰囲気で並べるか」
「雰囲気のほうがいいんじゃないか」
「どうして」
「見てて楽しいから」
澪は少しだけ考え、それから静かに頷いた。
「……たしかに」
その後も作業は続く。
教室の空気は少しずつ文化祭らしくなっていった。
途中、蓮が工具箱を持ちながら小声で九条に言う。
「お前と白峰さん、普通に息合ってるよな」
「何だそれ」
「作業してる時のやり取りが自然すぎる」
「そうか?」
「そうだよ」
蓮は少しだけ笑ってから、わざとらしく肩をすくめる。
「まあ、いい感じならいいけど」
「何がだ」
「いや、なんでもない」
九条はその含みのある言い方に眉をひそめたが、蓮はもう離れていった。
教室の端では、澪が飾りを一つずつ整えている。
彼女は、作業そのものよりも、全体の見え方を気にしているようだった。
「白峰」
「なに」
「ちょっといいか」
「ええ」
九条が示したのは、展示板の右下だった。
「この辺、少し空いてる」
「……ほんとね」
「何か足すか」
「そうね」
澪はしばらく考えたあと、小さな秋色のリボンを取り出した。
赤すぎず、茶色すぎず、少しだけ落ち着いた橙色。
「これなら、目立ちすぎないかも」
「いいな」
「でしょ」
澪は少しだけ嬉しそうに笑って、それを貼り付ける。
展示板が一気に柔らかく見えた。
「やっぱり、こういう細かいところに気づくの上手いな」
「そうかしら」
「ああ」
「……褒めてる?」
「褒めてる」
澪は一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ視線を逸らした。
「……じゃあ、受け取っておくわ」
その反応が、九条には少しだけ可笑しい。
作業がひと段落ついたころ、窓の外はすっかり夕方の色になっていた。
秋の空は早い。
夏のように長く残らず、少しずつ群青へ沈んでいく。
「今日はここまでかな」
誰かがそう言う。
教室の中は、段ボールと画用紙とテープの匂いが混ざっていた。
片づけをしながら、澪が小さく息をつく。
「……思ったより疲れたわ」
「慣れてないだろ」
「そうね」
「でも、ちゃんと手伝えてた」
「ほんと?」
「ああ」
澪は少しだけ安心したように笑う。
「なら、よかった」
片づけを終えて、ふたりは校舎を出た。
外の空気はもう少し冷たく、上着が欲しいくらいだった。
「秋って、やっぱり早いのね」
澪が腕をさすりながら言う。
「夏が長すぎただけだろ」
「そうかもしれない」
駅へ向かう道、街路樹の葉が少しずつ色を変え始めている。
歩くたびに、カサ、と乾いた音がした。
「展示、うまくいきそうか」
澪が聞く。
「たぶん」
「たぶん、なの」
「いや、かなりいい感じだった」
「……ほんと?」
「ああ」
「なら、楽しみ」
澪の声は静かだったが、その中に確かな期待があった。
九条はその横顔を見ながら、少しだけ思う。
文化祭は、まだ始まっていない。
けれど、準備の時間そのものが、すでにひとつの思い出になっているのかもしれない。
駅前の角で、澪が立ち止まる。
「悠理」
「なんだ」
「今日はありがと」
「何が」
「手伝ってくれたこと」
「別に」
「別じゃないわ」
澪は小さく笑った。
「あなたがいたから、ちゃんとできた気がする」
九条は少しだけ黙る。
その言葉は、さりげないのに妙に胸に残った。
「……そうか」
「ええ」
澪は少しだけ頷く。
「文化祭、本番も一緒に見て回れるといいわね」
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
「ふふっ」
澪は嬉しそうに息を吐いた。
秋の風が、ふたりの間を静かに通り抜ける。
夏の熱が去ったあと、こういう穏やかな時間が、少しだけ増えていくのだろう。
そして、その穏やかさの中で、九条悠理は気づく。
文化祭準備は面倒だ。
だが、白峰澪と一緒にやるなら、悪くない。
むしろ、少しだけ楽しみでもあった。




