第三十一話 秋の気配
夏が終わってから、校舎の空気は少しずつ変わっていた。
朝の風は涼しくなり、昼の光もどこか柔らかい。
蝉の声は遠のき、代わりにどこからか虫の音が混じり始めている。
季節は、確かに秋へ向かっていた。
九条悠理は、窓際の席からグラウンドを眺めながら、ぼんやりとその変化を感じていた。
「何を見てるの」
隣から白峰澪の声がする。
「外」
「知ってるわ。何を考えてるのかって聞いてるの」
「秋だなと思ってた」
「それだけ?」
「それだけだ」
澪は少しだけ目を細めた。
「……嘘じゃない顔ね」
「嘘をつく理由がない」
「そう」
彼女は小さく頷き、ノートに視線を戻した。
夏祭りが終わってから、二人の距離は相変わらず穏やかだった。
劇的に何かが変わったわけではない。
だが、放課後に並んで歩くことや、何でもない話をすることが、以前より少しだけ自然になっている。
昼休み。
中庭のベンチでは、風が葉を揺らしていた。
「少し寒いかも」
澪が制服の袖を少し引く。
「まだ早いだろ」
「でも、朝と違って風が冷たいの」
「秋だからな」
「またそれ」
澪は小さく笑った。
弁当を食べながら、九条はふと思い出す。
秋といえば、学校行事が増える時期だ。
文化祭。
体育祭は終わっているが、その準備や後片付けの記憶はまだ新しい。
その先には、定期試験や冬が待っている。
「……文化祭、もうすぐだな」
九条が言うと、澪が顔を上げた。
「ええ。掲示板に予定が出てたわ」
「何かやるのか」
「まだ決まってないみたい」
「そうか」
澪は少しだけ考えるように視線を落とした。
「でも、文化祭って少しだけ苦手」
「なんでだ」
「人が多いから」
「夏祭りは平気だっただろ」
「……あれは、あなたがいたから」
九条は、その一言に少しだけ息を止めた。
澪は自分で言ってから、ほんの少し頬を赤くする。
だが、もう隠すつもりもないのか、視線だけはそらさなかった。
「文化祭は、学校の中でしょう」
「そうだな」
「だから、余計に落ち着かないの」
「なるほど」
九条は少しだけ頷く。
「でも、行くんだろ」
「ええ。行くわ」
「じゃあ、少しは楽しめる方法を探せばいい」
「簡単に言うのね」
「簡単じゃない」
「そう?」
「ああ」
澪はしばらく九条を見ていたが、やがて小さく笑った。
「……そういうところ、変わらないのね」
「何が」
「人の気持ちを、勝手に軽くしないところ」
九条は少しだけ首をかしげる。
「軽くしてるわけじゃない」
「分かってる」
「ならいい」
「ええ」
午後の授業が始まる前、廊下に出ると掲示板の前に人だかりができていた。
文化祭の出し物の案が貼り出されているらしい。
「何かあるのか」
九条が聞くと、蓮が人混みの隙間から顔を出す。
「クラスで何やるか決めるんだってさ」
「まだ決まってないのか」
「そう。だから、放課後に話し合い」
「面倒だな」
「ほんとにな」
蓮はため息をつくが、どこか楽しそうでもある。
そのとき、九条の背後から澪の声がした。
「……文化祭の話?」
「ああ」
澪は掲示板を見上げる。
「何をするか、まだなんだ」
「決めるみたいだ」
「そう」
少しだけ間が空く。
澪は何か考え込むようにしてから、静かに言った。
「……私、手伝うことがあったらするわ」
「手伝うって」
「準備。飾りとか、企画とか」
「澪が?」
「ええ」
「意外だな」
「そう?」
「ああ。人前で目立つより、裏方のほうが向いてそうだけど」
「それは褒めてるの」
「褒めてる」
澪は少しだけ口を尖らせたが、その表情はやわらかい。
「……文化祭、少しだけ頑張ってみる」
その言葉に、九条は静かに頷いた。
放課後。
クラスの話し合いは、思ったより長引いた。
黒板にはいくつもの案が書かれ、誰かが消して、誰かが付け足す。
飲食店。
展示。
小さな催し。
案は多いのに、なかなか決まらない。
「お前、何かないのか」
蓮が九条に言う。
「別に」
「別に、が一番困るんだよ」
「じゃあお前は」
「俺は……まあ、外で売る系が楽そうかなって」
「楽そう、か」
「そういうの大事だろ」
そんなやり取りの中で、白峰澪は静かに意見を挟んだ。
「……教室を使う展示なら、準備の負担が少ないかもしれないわ」
数人が彼女を見る。
「展示?」
「ええ。写真とか、手作りの小物とか。見る側にも負担が少ないでしょう」
九条はその発言を聞いて、少しだけ驚いた。
澪はこういうとき、必要なことを静かに言う。
目立とうとはしないが、場の空気をちゃんと見ているのだ。
「それ、いいかも」
「じゃあ展示も候補に入れるか」
クラスの空気が少しだけ動く。
九条はその様子を見て、澪が思っていた以上にこういう場に向いているのかもしれないと思った。
話し合いが終わるころには、窓の外はもう夕方だった。
教室を出ると、空気が少しだけ冷たい。
「文化祭、どうなるかしら」
澪が並びながら言う。
「たぶん展示になるんじゃないか」
「そう?」
「ああ。さっきの雰囲気だと」
澪は少しだけうなずく。
「……私、役に立てたのかしら」
「立てたと思う」
「本当に?」
「ああ」
「なら、よかった」
彼女は少しだけ安心したように笑った。
駅へ向かう道、街路樹の葉が少しだけ色づき始めている。
澪がふいに足を止め、空を見上げた。
「秋ね」
「ああ」
「夏が終わって、少しだけ静かになる」
「そうだな」
「でも、静かになるぶん、見えるものもあるのかも」
「何が」
「……たぶん、今まで気づかなかったこと」
九条は少しだけ彼女を見た。
澪は空を見たまま、静かに続ける。
「夏の間は、ただ走っていた気がするの。祭りも、試験も、浴衣も、全部、目の前のことばかりで」
「今は違うのか」
「ええ。少しだけ、立ち止まれる」
「それはいいことだろ」
「そうね」
澪は少しだけ微笑んだ。
「立ち止まると、ちゃんと見えるの。誰といるか、とか」
九条は、その言葉に少しだけ息を止める。
澪はそこまで言ってから、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……今のは、忘れて」
「無理だな」
「やっぱりそれ」
「でも、忘れない」
澪は少しだけ目を細めた。
「……そう」
駅前で別れる前、風が一度だけ強く吹いた。
澪が髪を押さえる。
「秋風って、少しだけ冷たいのね」
「そうだな」
「でも、嫌いじゃない」
「俺もだ」
「本当に?」
「ああ」
澪はその返事を聞いて、少しだけ嬉しそうに笑う。
「じゃあ、秋も悪くないかも」
「そうだろ」
「ええ」
九条は、秋の気配が少しずつ強くなっていく空を見上げた。
夏の鮮やかさは消えつつある。
けれど、その代わりに、静かで、落ち着いた時間が来る。
そしてその時間は、きっと白峰澪となら悪くない。
九条悠理はそう思いながら、駅へ向かう澪の背中を見送った。




