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第三十話 夏の終わる音

夏祭りが終わってから、しばらくのあいだ、九条悠理は少しだけ時間の流れが変わったように感じていた。


 朝は暑い。

 昼も暑い。

 夕方になってもまだ暑い。

 けれど、その暑さの質が少しずつ違ってきている。


 空は高く、蝉の声は相変わらず騒がしい。

 ただ、どこかで風の匂いが変わり始めていた。


 夏の終わりが、少しずつ近づいている。


「おはよう」


 教室に入ると、藤堂蓮がすでに机に座っていた。


「おはよう」


「お前、最近ほんと落ち着いてるな」


「何度も聞いた」


「だってほんとだし」


 蓮はそう言いながら、外の空を見上げる。


「祭り終わったから、少し静かになったのか?」


「別に」


「別に、ね」


 九条は否定しなかった。

 実際、祭りが終わってからも、澪との時間は続いている。

 だが、あの夜の鮮やかさが残っているせいで、教室での何気ないやり取りまでも少し特別に感じてしまう。


 朝のHRが終わるころ、白峰澪が教室に入ってきた。


 九条は自然に視線を向ける。

 澪も、ほんの一瞬だけこちらを見て、小さく頷いた。


 それだけだ。

 それだけなのに、胸の奥が静かに温かくなる。


 昼休み。


 中庭の木陰は、以前より少しだけ風が柔らかくなっていた。


「……夏も、終わるのかしら」


 澪が弁当を食べながら、ぽつりと言う。


「まだ終わらないだろ」


「そう?」


「蝉はまだ鳴いてる」


「それを基準にするの?」


「分かりやすいだろ」


 澪は少しだけ笑う。


「私は、少しだけ寂しいの」


「何が」


「夏祭りが終わったこと」


「もう何日も前だ」


「分かってるわ」


 澪は視線を落とす。


「でも、あれが終わったあとって、なんだか空白があるでしょう」


「空白?」


「ええ。すごく楽しかったもののあとに来る、静かな感じ」


 九条は少しだけ黙った。

 それは、たしかに少し分かる。


 花火の夜のような強い記憶のあとには、どうしても静けさがやってくる。

 だが、その静けさは嫌いではなかった。


「……空白なら、埋めればいい」


 九条が言うと、澪は顔を上げた。


「何でそんな簡単に言うの」


「簡単じゃない」


「そう?」


「ああ」


 九条はゆっくり答える。


「でも、空白は次の記憶で埋まる」


 澪はしばらく彼を見つめていた。


「……あなた、時々すごくまっすぐなことを言うわね」


「そうか」


「ええ」


「褒めてるのか」


「たぶん」


 澪は少しだけ笑う。


 午後の授業が終わると、空は少し雲が増えていた。

 風がわずかに涼しい。

 セミの声も、朝ほど勢いがない。


 放課後、澪が九条の席へやって来た。


「今日は、少し遠回りしたいの」


「いいぞ」


「駅前じゃなくて、川沿いの道を歩きたい」


「分かった」


 九条は鞄を持ち上げる。


 ふたりは学校を出て、住宅街を抜け、川沿いの道へ向かった。


 そこは夕方になると人通りが少ない。

 川面を渡る風が少しだけ涼しく、足元の草も夏の終わりを待っているように見える。


 しばらく無言で歩く。

 だが、今の二人にその沈黙は気まずくない。


「……この道、前より好きかも」


 澪が言う。


「前にも来たことあったか」


「ううん。今日が二回目」


「なのに?」


「二回目だから、かもしれない」


「よく分からないな」


「分からなくていいの」


 澪は少しだけ笑った。


 川の向こうでは、夕日が低くなり始めている。

 空は橙色に染まり、ところどころ薄い雲が光を受けていた。


 その景色を見ながら、澪がふいに立ち止まる。


「悠理」


「なんだ」


「夏祭り、楽しかった」


「ああ」


「もう一回言いたくなったの」


「何回でも言えばいい」


「……そういうの、ずるい」


「知ってる」


 澪は少しだけ頬を赤くしたが、笑顔はやわらかい。


「でも、本当に楽しかったの。あなたとだったから」


 九条は少しだけ息を止める。

 それは、夏祭りの夜にも聞いた言葉に近かった。

 だが、何度聞いても胸に残る。


「……そうか」


「ええ」


「なら、よかった」


「うん」


 澪はしばらく川を見ていたが、やがて小さく言った。


「夏が終わるのって、少しだけ嫌」


「まだ終わってないだろ」


「でも、終わりは近いでしょう」


「そうだな」


「……終わってほしくないの」


 その声は、少しだけ子どもっぽかった。

 澪がこんなふうに言うのは珍しい。


 九条は少しだけ考える。


「夏が終わっても、別に全部終わるわけじゃない」


「でも、夏祭りは終わった」


「ああ」


「花火も、浴衣も」


「うん」


「……少しだけ、特別が減る気がする」


 九条はその言葉に静かに頷いた。


 確かに、夏は特別なものを連れてくる。

 けれど、それが終わっても、二人の時間まで終わるわけではない。


「じゃあ、次を作ればいい」


「次?」


「今までと同じだ」


「今までと同じ?」


「ああ。会って、話して、歩いて、また少し特別にすればいい」


 澪はじっと九条を見た。


「……簡単に言うのね」


「そうか?」


「ええ。でも」


 澪は小さく息をついた。


「それなら、少しだけ安心する」


 九条は、その言葉に少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じる。

 夏が終わることが怖いのではない。

 その後に何が残るのか、まだはっきりしないから不安なのだ。


 けれど、今こうして並んで歩いているなら、きっと大丈夫だ。


 川沿いの道の先、小さな公園が見えてきた。

 ベンチに座ると、遠くで電車の音がする。


「……ねえ、悠理」


「なんだ」


「来年の夏も、こうして歩けるかしら」


 九条は少しだけ空を見上げる。

 橙色だった空が、もう薄く群青へ向かい始めていた。


「歩けるだろ」


「本当に?」


「ああ」


「どうして言い切れるの」


「続いてるからだ」


 澪が少しだけ目を瞬かせる。


「……何が」


「今が」


 九条は静かに言う。


「夏祭りも終わった。けど、今も続いてる。明日もある。来週もある。だから、来年の夏まで続く」


 澪は、その言葉を聞いてしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「……あなた、ほんとに時々、すごく安心させるわね」


「そうか」


「ええ」


 澪は少しだけ笑う。


「そのくせ、たまに無自覚だから困る」


「何が」


「今の言葉とか」


「普通だろ」


「普通じゃないの」


 澪はそう言いながら、少しだけ肩の力を抜いた。


 夕方の風が、公園の木々を揺らす。

 夏の終わりの音が、どこか遠くで鳴っている気がした。


「……悠理」


「なんだ」


「今年の夏、忘れたくない」


「忘れないだろ」


「本当に?」


「ああ」


「約束?」


「約束だ」


 澪は小さく頷いた。


 しばらくベンチに座っていると、空の色がゆっくり変わっていく。

 夕日が沈み、街灯がひとつずつ灯り始めた。


「そろそろ帰るか」


 九条が言うと、澪は少しだけ名残惜しそうに公園を見た。


「ええ」


 ふたりは立ち上がり、駅へ向かう。


 道の途中、澪がふいに立ち止まった。


「悠理」


「なんだ」


「夏が終わっても、また新しい季節が来るのよね」


「ああ」


「なら、いい」


「何が」


「……また、一緒にいられるなら」


 九条は、その言葉にしばらく返せなかった。


 澪は少しだけ恥ずかしそうに視線をそらす。

 だが、もう言ったことを取り消す気はないらしい。


「……ああ」


 九条は短く答えた。


「一緒にいる」


 澪が顔を上げる。


「本当に?」


「ああ」


「……うん」


 その一言は、さっきよりずっと静かで、ずっと温かかった。


 駅前で別れる前、澪が小さく笑った。


「夏の終わる音って、少し寂しいけど……」


「けど?」


「今年は、前より少しだけ怖くない」


 九条は、その言葉を聞いて、静かに笑う。


「なら、よかった」


「ええ」


「次の季節もある」


「うん」


「だから、夏が終わっても大丈夫だ」


 澪は少しだけ目を伏せ、それから本当に静かに微笑んだ。


 夏の終わる音は、確かにどこか寂しい。

 けれど、その音の先に、また別の季節がある。


 そしてその季節も、きっと白峰澪となら悪くない。


 九条悠理は、夕暮れの空を見上げながら、そう静かに思った。

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