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第二十九話 夏の静けさ

 夏祭りの余韻が消えないまま、数日が過ぎた。


 学校へ行けばいつも通り授業があり、課題があり、友人たちのざわつきがある。

 けれど、九条悠理にとっては、どうしてもあの夜の光景が頭のどこかに残っていた。


 藤色の浴衣。

 薄い青の髪飾り。

 花火の光に照らされた白峰澪の横顔。

 そして、握った手の温度。


「お前、ほんとにぼーっとする時間増えたよな」


 蓮が机に頬杖をつきながら言う。


「気のせいだ」


「気のせいじゃない。しかも、最近ちょっと穏やかだし」


「何だそれ」


「夏祭りの後遺症だろ」


「……適当なことを言うな」


「いや、かなり当たってると思うけど」


 九条はため息をつき、ノートに視線を戻した。

 反論しても無駄だろう。

 蓮はこういうところだけ妙に鋭い。


 昼休み。

 中庭のベンチに座っていると、白峰澪が少し遅れてやってきた。


「待った?」


「今来たところだ」


「本当に?」


「ああ」


 澪は少しだけ安心したように笑った。

 今では、このやり取りも自然になっている。


 弁当を開きながら、澪が小さく息をついた。


「……少しだけ、暑いわね」


「夏だからな」


「知ってる」


「知ってるなら文句を言うな」


「文句じゃないわ。感想よ」


 澪は少しだけ口元を緩める。


 しばらく無言で食べ進めていたが、やがて彼女がぽつりと言った。


「昨日、メモ帳に少し書いたの」


「見た」


「見たの?」


「送ってくれた写真で」


 澪は少しだけ頬を赤くした。


「……そうだった」


「忘れたのか」


「少しだけ」


「少しだけ多いな」


「うるさい」


 澪はそう言いながら、目を伏せた。


「……でも、あれ、ちゃんと残しておきたくて」


「何を」


「夏祭りのこと」


 九条は静かに頷く。


「花火も、夜の空気も、浴衣も、全部」


「そうか」


「ええ」


 澪は少しだけ言いにくそうに続ける。


「それに……悠理と一緒だったことも」


 九条はその言葉に、少しだけ息を止めた。


 澪は自分で言ってから、恥ずかしくなったのかすぐに視線をそらす。


「……今のは、深い意味はないわ」


「そうか」


「ええ」


「でも、本音だろ」


「……そうね」


 その返事はかなり小さかったが、九条にはしっかり届いた。


 夏祭りが終わり、少しだけ静かになった日常。

 だが、その中でも二人の間には、以前より確かな温度が残っている。


 午後の授業が終わると、澪が九条の席へやって来た。


「少し、いい?」


「ああ」


「今日、放課後どうする?」


「特に予定はない」


「そう」


 澪は少しだけ考えてから言った。


「じゃあ、少し歩きたい」


「昨日も言ってたな」


「そうだったかしら」


「忘れるな」


「ふふっ」


 澪は小さく笑った。


「じゃあ、今日は海沿いの公園まで行かない?」


「海沿い?」


「と言っても、ここから少し行ったところの小さな公園。景色がいいの」


「行ったことあるのか」


「ええ。前に一度だけ」


「そうか」


「夜もきれいだけど、夕方も好きなの」


 九条は少しだけ考えたあと、頷いた。


「いいぞ」


「ほんと?」


「ああ」


 澪は嬉しそうに笑う。

 それだけで、すでに放課後が少しだけ特別に思えた。


 夕方。

 二人は駅を越え、少し遠回りして海沿いの公園へ向かった。


 街の喧騒が少しずつ遠ざかる。

 風に混じる潮の匂い。

 低く鳴くカモメの声。

 空は広く、雲は長く伸びている。


「……ここ、好きなの」


 澪がベンチに座りながら言う。


「静かだな」


「ええ。人も少ないし」


「確かに」


 公園の向こうには、海がゆっくりと光っていた。

 夕日が水面に反射し、波が細い金色の線を揺らしている。


「綺麗だ」


 九条が言うと、澪は少しだけ目を細めた。


「でしょう」


「ああ」


「夏祭りの夜とは、また違うでしょう」


「確かにな」


「私は、こういう静かな景色も好きなの」


「白峰らしいな」


「またそれ」


 澪は少しむくれたが、その表情もやわらかい。


 ベンチで少し話したあと、二人は公園の遊歩道をゆっくり歩くことにした。

 潮風は少しだけ強く、髪を揺らす。


「……夏祭りのこと、まだ思い出す?」


 澪が問う。


「ああ」


「どんなふうに?」


「いろいろ」


「いろいろ、って何よ」


「浴衣とか、花火とか、手を握ったこととか」


 澪の足が、ほんの少しだけ止まる。


「……そんなに普通に言わないで」


「普通じゃないか」


「普通じゃないわ」


「そうか?」


「そうよ」


 澪は少しだけ頬を赤くする。


 九条は、その反応を見て少しだけ笑った。


「でも、思い出すのは悪くない」


「……そう」


「お前は」


「私も」


 澪は少しだけ視線を落とした。


「思い出すわ。あの夜、少しだけ勇気を出したことも」


「勇気?」


「ええ。人混みで手を握ってもらうこととか、ちゃんと見てほしいって言ったこととか」


「そうだったか」


「そうよ」


 澪は少しだけ笑う。


「今考えると、かなり恥ずかしいことばかり言ってた気がする」


「今さらだな」


「今さらね」


 海沿いの風が吹く。

 澪は巾着を抱え直し、少しだけ空を見上げた。


「……でも、嫌じゃなかった」


「何が」


「全部よ」


 その返事は、とても静かだった。

 けれど、九条の胸には深く残る。


「……そうか」


「ええ」


 夕日が少しずつ低くなっていく。


 遊歩道の先に、小さな売店が見えた。

 夏の終わりに向けた風鈴やラムネが並んでいる。


「少しだけ寄る?」


「いいぞ」


 売店の前で、澪はラムネを一本手に取った。


「懐かしいわね」


「飲んだことあるのか」


「ええ。子どもの頃に」


「白峰も飲むんだな」


「どういう意味」


「なんでもない」


 澪は少しだけむっとしたが、結局自分でも少し笑ってしまう。


 瓶のビー玉を鳴らして、二人で少し離れたベンチに座る。

 澪は慎重にビー玉を押し込んでから、少しだけ口をつけた。


「……おいしい」


「そうか」


「ええ。冷たい」


「夏だしな」


 九条も同じように飲む。

 炭酸が喉を通る感覚が、少しだけ心地よかった。


「ねえ、悠理」


「なんだ」


「夏祭り、また来年もあるわよね」


「ああ」


「来年も、浴衣着るのかな」


「着るんじゃないか」


「……そう」


「着たいのか」


「少しだけ」


「なら着ればいい」


「簡単に言うのね」


「そうか?」


「ええ」


 澪はラムネの瓶を両手で包むように持ちながら、少しだけ考えた。


「来年は、もう少しだけ違う色でもいいかも」


「藤色じゃないのか」


「ええ。藤色も好きだけど」


「じゃあ、何色だ」


「……まだ秘密」


「秘密ばかりだな」


「悪い?」


「悪くない」


 九条がそう言うと、澪は少しだけ安心したように笑った。


 夕日はさらに沈み、海面の光が淡くなる。

 空の色は朱から橙、そして薄い群青へと変わっていく。


「……静かね」


 澪が呟く。


「ああ」


「祭りの夜とは全然違う」


「そうだな」


「でも、こういうのも好き」


「分かる」


「……あなたといると、どっちも好きになるの」


 その言葉に、九条は少しだけ黙った。


 澪は何でもないように海を見ている。

 だが、その言葉はたしかに九条の胸に落ちた。


「……そうか」


「ええ」


 ベンチの上で、二人は少しだけ沈黙する。

 潮の匂い、風の音、遠くの車の走る音。

 それらが静かに混ざっていた。


 やがて、澪が小さな声で言う。


「夏祭り、終わったのにね」


「何が」


「まだ少し、特別な感じが残ってる」


「そうか」


「ええ」


「それは、悪くないだろ」


「悪くないわ」


 澪は少しだけ笑った。


 帰り道。

 駅へ向かう途中、街の明かりが少しずつ灯っていく。


「今日はありがとう」


 澪が言う。


「こっちこそ」


「海沿い、公園、また来たい」


「来ればいい」


「……一緒に」


「ああ」


 九条は自然に答えた。

 それだけで、澪の表情が少しだけやわらぐ。


 駅前で別れる前、澪が巾着を抱えたまま立ち止まる。


「悠理」


「なんだ」


「来年の夏も、きっと来るわよね」


「ああ」


「本当に?」


「本当だ」


「……なら、よかった」


 澪は少しだけ笑う。


 その笑顔を見て、九条は静かに思う。


 夏祭りは終わった。

 けれど、夏はまだ続く。

 そして、白峰澪と過ごす静かな時間も、まだ終わりそうにない。


 花火の余韻は、夜の後に残る。

 だがそれは、派手に燃え続けるものではなく、静かに心の奥へ沈んでいく種類のものだった。


 九条悠理は、海の匂いを少しだけ持ち帰るようにして、帰り道を歩いた。

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