第二十八話 花火の余韻
夏祭りの翌朝、九条悠理はいつもより少しだけ早く目を覚ました。
窓の外は明るい。
蝉の声が遠くで響いていて、カーテンの隙間から差し込む光はすでに強い夏の色をしていた。
目を開けた瞬間、昨日の夜の光景がまっすぐ頭の中に戻ってくる。
藤色の浴衣。
薄い青の髪飾り。
夜空に咲いた花火。
そして、手を握っていた感触。
「……夢じゃないよな」
小さく呟いて、九条は起き上がった。
机の上には、昨日持ち帰ったままの飴の袋と、祭りでもらった小さな紙袋が置かれている。
袋の中には、澪が取った星形のチャームと、自分が適当に買った小さな風車が入っていた。
九条はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
今日は土曜日。
学校はない。
試験も終わった。
夏休み前の少し落ち着いた時間だ。
だが、心はどうにも落ち着かない。
昨日の夜、澪は確かに「楽しかった」と言った。
何度も思い返してしまうほど、その一言は静かに残っている。
朝食を終えたあと、九条はスマートフォンを手に取った。
メッセージはすでに届いていた。
『おはよう。昨日はありがとう』
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
『おはよう。こちらこそ』
打ち込んで送ると、すぐに既読がついた。
しばらくしてから返ってきたのは、短いけれど少し嬉しそうな文だった。
『まだ少し、花火の音が残ってる気がする』
九条はその文を見て、思わず小さく笑った。
『分かる』
返すと、またすぐに既読がつく。
『来年も行けるかな』
九条は少しだけ考えてから、迷わず打った。
『行く』
送信。
少し遅れて返ってきたのは、たった一文字だった。
『うん』
だが、その一文字だけで十分だった。
午前中は家で静かに過ごした。
本を読み、少しだけ課題を進め、ふと窓の外を見上げる。
夏の空は澄んでいて、昨日の夜とはまるで違う顔をしている。
昼前、蓮からメッセージが来た。
『昨日どうだった?』
九条は少しだけ目を細める。
『普通だった』
即答で返すと、すぐに返事が来た。
『絶対ウソ』
九条は返さなかった。
返しても意味がないからだ。
その代わり、机の引き出しを開ける。
そこには、昨日買ったメモ帳が入っていた。
澪のものだ。
あの日、浴衣や小物と一緒に選んでいた小さな藤色のメモ帳。
九条はそれを見つめて、ふと思う。
昨日の夜、澪はあのメモ帳に何を書いたのだろう。
夏祭りの記録かもしれないし、花火の色かもしれない。
あるいは、自分のことかもしれない。
そんなことを考えながら、昼過ぎに九条は少しだけ外へ出た。
駅前までは行かない。
ただ、近所の静かな道を少し歩くだけだ。
夏の昼は暑い。
だが、木陰に入ると少しだけ風が通る。
その風は、昨日の夜に感じたものよりずっと乾いていた。
公園の前を通りかかったとき、誰かの声がした。
「お、悠理」
朝倉灯だった。
九条は少しだけ眉をひそめる。
「……お前、なんでここに」
「近所だから」
「それは分かる」
「こっちの台詞だよ。散歩?」
「そんなところだ」
灯はベンチに座ってアイスを食べながら、九条を見上げた。
「昨日、夏祭りだったんでしょ」
「ああ」
「どうだった?」
「……普通」
「その返し、絶対普通じゃないやつ」
「勝手に決めるな」
灯はくすくす笑った。
「白峰さん、浴衣だった?」
「ああ」
「似合ってた?」
「……似合ってた」
九条が少し間を置いてそう答えると、灯は満足そうにうなずいた。
「だよね。あれは似合うやつだもん」
「分かってるなら聞くな」
「聞きたかったんだよ」
灯はアイスをひと口かじってから、少しだけ顔を上げる。
「楽しそうだった?」
「……まあ」
「“まあ”まで出たなら、かなり楽しかったんだね」
「何でそうなる」
「顔」
「またか」
灯は肩を揺らして笑った。
九条は少しだけ面倒くさくなったが、灯の表情に悪意はない。
だから追い払う気にもなれなかった。
「それで」
「ん?」
「お前は何しに来た」
「だから散歩だって」
「それだけか」
「半分は」
灯は少しだけ目を細めた。
「もう半分は、悠理が昨日どうだったか気になったから」
「……お前な」
「だって気になるじゃん。昔からそういうの、ちゃんと覚えてるのか」
九条は少しだけ黙る。
灯は何でもないように続けた。
「白峰さんのこと、ちゃんと大事にしてる?」
その言葉に、九条は少しだけ息を止めた。
「……急に何だ」
「いや、昨日の様子見てたら、そう思っただけ」
「見てたのか」
「ちょっとだけね」
灯は悪びれず笑う。
「でも、ちゃんと分かるよ。ああいうときの顔って」
「どんな顔だ」
「大事にしたいって顔」
九条は返せなかった。
灯はそれ以上踏み込まず、アイスの棒を指先で転がす。
「まあ、いい感じならいいんだけど」
「……何が」
「悠理が今の時間を大事にしてるなら、それで」
その言い方は、少しだけ優しかった。
九条はその場で少しだけ目を伏せる。
「大事にしてる」
「うん」
「……たぶん、してる」
「そこは迷うんだ」
「うるさい」
灯はくすくす笑ったが、次の瞬間、少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「夏祭り、これからもちゃんと行くんでしょ」
「ああ」
「来年も、その次も」
「……そうなるな」
「ならいい」
灯は満足そうに頷いた。
「白峰さん、たぶん嬉しいと思うよ」
「何が」
「来年も一緒にって、ちゃんと口にすること」
九条は少しだけ黙った。
灯の言うことは、妙に核心を突いている。
「……そうか」
「うん」
「お前、たまに面倒くさいな」
「今さら?」
灯は笑ったあと、ベンチから立ち上がった。
「じゃ、私は帰る。暑いし」
「そうか」
「またね、悠理」
「ああ」
灯は軽く手を振って去っていった。
その背中を見送りながら、九条はしばらくその場を動けなかった。
来年も、その次も。
その言葉が妙に残る。
昨日の夜の花火は、もう終わった。
だが、余韻はまだ消えていない。
午後になり、九条は再びスマートフォンを開いた。
澪から新しいメッセージが届いている。
『午前中、少しだけメモを書いた』
続けて、写真が一枚。
藤色のメモ帳が開かれていて、そこには小さく何かが書かれていた。
九条は画面を見つめる。
文字は短い。
『花火の夜は、忘れたくない』
その下に、さらにもう一行。
『悠理と一緒だったから』
九条は、画面を見たまましばらく動けなかった。
そして、ようやく返す。
『俺もだ』
送信すると、少ししてから澪の返信が来た。
『本当?』
『ああ』
『よかった』
たったそれだけだ。
だが、そのやり取りだけで、九条の胸の奥は十分に静かに熱かった。
夕方になり、澪から通話がかかってくる。
普段ならあまりないことだった。
「……どうした」
出ると、少しだけ小さな声が返ってきた。
「別に……少しだけ」
「少しだけ?」
「昨日の花火のこと、もう少し聞きたくなって」
「聞きたいのか」
「ええ。だって、思い返すと、少しだけ恥ずかしいの」
「何が」
「……手」
その一言で、九条はすぐに昨日のことを思い出す。
人混みの中で握った手。
少しだけ震えていた澪の指先。
「……あれか」
「うん」
「恥ずかしかったのか」
「当たり前でしょう」
澪の声は少しだけ拗ねているが、拒絶ではなかった。
「でも」
「ん」
「嫌じゃなかった」
九条は、その一言に何も返せなくなる。
通話の向こうで、澪が少しだけ息をつく。
「……だから、来年も」
「ああ」
「その次も」
「ああ」
「……忘れないで」
「忘れない」
短いやり取りだった。
だが、昨日の夜に続いて、今日もまた新しい記憶がひとつ増えた気がした。
通話を切ったあと、九条はしばらくスマートフォンを見つめたまま動けなかった。
夏祭りは終わった。
花火も終わった。
けれど、そこで生まれた余韻は、まだ二人の間に静かに残っている。
九条悠理は、机の上に置いた小さな風車を見つめた。
回すと、薄い音がした。
昨日の提灯や花火とは違う、もっと静かな音。
だが、その静けさの中にこそ、確かな温度があった。
夏は、まだ続く。
そして、白峰澪と過ごす日々も、まだ続いていく。
九条はそう思いながら、ほんの少しだけ笑った。




