表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/30

第二十七話 夏祭りの夜

夏祭りの日は、朝から少しだけ落ち着かなかった。


 空はよく晴れていた。

 雲は薄く、強い日差しが校舎の窓を白く照らしている。

 教室では、すでに祭りの話で持ちきりだった。


「お前、今日ほんとに行くんだな」


 蓮が机に頬杖をつきながら言う。


「ああ」


「白峰さんと」


「そうだ」


「……お前、ほんとに迷わないな」


「何が」


「返事」


「そうか?」


「そうだよ。即答すぎる」


 九条はため息をついた。

 だが、蓮の言いたいことは分かる。

 自分でも、今は少しだけ浮ついている。


 放課後の教室は、いつもより早くざわつき始めていた。

 早く帰る者、着替えに向かう者、友達と合流する者。

 夏祭りの熱気が、まだ始まってもいないのに校舎の中に入り込んでいる。


 九条悠理は、約束の時間より少し早めに駅前へ向かった。


 夏の夕方は長い。

 空はまだ明るいが、太陽は少し傾き始めている。

 駅前の広場には、すでに浴衣姿の学生や家族連れがちらほら見えた。


 九条は待ち合わせ場所の時計を見上げる。


 午後六時。

 約束の時間までは、まだ少しある。


 そのとき。


「悠理」


 背後から、静かで少しだけ柔らかい声がした。


 振り返る。


 白峰澪が、そこにいた。


 藤色の浴衣。

 淡い青の髪飾り。

 白地に紫の花が散る巾着。

 そして、髪は少しだけまとめられている。


 九条は、思わず言葉を失った。


 浴衣は、予想していたよりずっとよく似合っていた。

 いや、似合うだろうとは思っていた。

 だが、実際に目にすると、それ以上だった。


 静かで、上品で、少しだけ儚い。

 夏の空気の中で、澪だけが少し別の時間にいるようにも見える。


「……どう」


 澪が少しだけ不安そうに聞く。


 九条は、数秒遅れてようやく口を開いた。


「……似合ってる」


 それだけ言うのに、妙に喉が詰まった。


「……さっきも言ってたわね」


「でも、今のほうがちゃんと似合ってる」


 澪の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。


「……そんなふうに見ないで」


「見ないと分からないだろ」


「分かるでしょう」


「分からない」


「……もう」


 澪は少しだけ困ったように笑った。

 けれど、その笑顔も浴衣によく似合っている。


「髪、まとめたんだな」


「ええ。少しだけ」


「いいと思う」


「……ありがとう」


 その一言は小さかったが、九条には十分だった。


 やがて、待ち合わせの時間になる。

 駅前には、人がどんどん集まり始めていた。

 子どもの声。

 屋台の準備をする音。

 遠くから聞こえる太鼓の練習。

 夏祭りの空気が、ゆっくりと濃くなっていく。


「行こうか」


 九条が言うと、澪は小さく頷いた。


「ええ」


 二人は並んで、会場へ向かう道を歩き出す。


 最初は人通りがまだ多い程度だったが、神社へ近づくにつれて混雑が増していく。

 提灯の灯りが並び始め、赤く揺れる光が夕暮れの空に浮かんでいた。


「すごい人ね」


 澪が少しだけ周囲を見回す。


「ああ」


「少しだけ、緊張する」


「迷子になりそうか」


「ならないけど」


 澪はそう言いながら、巾着を持つ手を少しだけ強くした。


 九条は、その様子を見て、自然と少しだけ距離を詰める。


「……手、繋ぐか」


 澪が止まる。


「え」


「はぐれないように」


「……」


 澪は一瞬だけ目を見開いたあと、少しだけ視線を逸らした。


「……うん」


 そう答えた声は、いつもよりずっと小さかった。


 九条が手を差し出すと、澪は躊躇いがちにそれを取る。

 ほんのり温かい。

 祭りの人混みの中で、確かにそこにいる感触がある。


 その瞬間、九条は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 屋台の並ぶ参道は、すでに人でいっぱいだった。


 焼きそばの匂い。

 綿あめの甘い香り。

 金魚すくいの水音。

 提灯に照らされた浴衣姿の人々。

 それらが一斉に押し寄せてくる。


「何から見る?」


 九条が尋ねると、澪は少しだけ考えた。


「……まずは、あまり混んでないところから」


「了解」


 二人は人の流れを避けるように、少し脇の屋台へ向かう。


 最初に立ち寄ったのは、金魚すくいだった。

 子どもたちが夢中になっている。


「やるのか」


「見るだけでいいかなって思ってたけど……」


 澪は少しだけ興味深そうに覗き込む。


「……少しだけやってみたい」


「いいぞ」


 九条が言うと、店主がポイを差し出してくれた。


 澪は少しだけ構え、慎重に金魚を追う。

 だが、思っていたより難しいらしく、紙はすぐに破れてしまった。


「……むずかしい」


「そんなに簡単じゃない」


「分かってるわ」


 澪は少し悔しそうに笑った。

 その横顔が、昼間の完璧な才女ではなく、少しだけ年相応の少女に見える。


「もう一回やるか」


「……ううん。見てるほうが楽しいかも」


「そうか」


「ええ」


 今度は射的に立ち寄る。

 ここでは蓮がいれば喜びそうだな、などと九条は思う。


「欲しいものあるか」


「特には」


「本当に?」


「うん」


 だが、澪の視線は景品の中にある小さな星形のチャームに向いていた。


 九条はその視線を見逃さない。


「……あれか」


「え」


「欲しいんだろ」


「……別に」


「別じゃない顔だな」


「うるさいわね」


 澪は少しだけむくれたが、九条はすぐに射的の台へ向かった。

 結果は一発で当たらなかったが、二発目でなんとかチャームを落とす。


「取れた」


 九条が言うと、澪は目を丸くした。


「……ほんとに?」


「ああ」


「すごい」


「たまたまだ」


「たまたまで、あれを取るの?」


「そういうこともある」


 澪は景品を受け取り、少しだけそれを見つめた。


「……ありがとう」


「欲しかったんだろ」


「……少しだけ」


 その声は、さっきよりずっと嬉しそうだった。


 参道をさらに進むと、境内のほうから太鼓の音が大きくなってくる。

 夜が近い。

 提灯の明かりが濃くなり、空の青は少しずつ紺へ変わっていく。


「綺麗ね」


 澪が空を見上げる。


「ああ」


「夏の夜って、こういう色なのね」


「そうかもな」


「……忘れたくないわ」


 九条は、その言葉に少しだけ黙った。


 祭りの夜は、今この瞬間しかない。

 それを分かっているからこそ、忘れたくないという言葉が重く響く。


 神社の階段を登ると、さらに人が増えた。

 澪が少しだけ九条の手を握り直す。


「大丈夫か」


「ええ。少しだけ」


「疲れたら言え」


「まだ平気」


 そう答えながらも、澪は少しだけ周囲を気にしている。


 人が多い。

 音が大きい。

 でも、九条の手を握っているから、なんとか保てているのだろう。


 境内の一角に、小さなベンチを見つける。


「少し座るか」


「……うん」


 二人は並んで腰を下ろした。

 目の前では、子どもたちが風車を持って走り回っている。

 屋台の灯りが、揺れるように広がっていた。


「ここ、落ち着く」


 澪が息をつく。


「そうか」


「ええ。少しだけ、人が見えるのがちょうどいいの」


「混みすぎないしな」


「うん」


 澪は巾着を膝の上に置き、少しだけ姿勢を整えた。

 浴衣の藤色が、夜の灯りの中でやわらかく浮かぶ。


 九条は、つい見てしまう。


「……何」


「いや」


「見てたでしょう」


「見てた」


「否定しないのね」


「する必要ないし」


 澪は少しだけ頬を染める。


「……恥ずかしいから、あまりじっと見ないで」


「無理だな」


「どうして」


「似合ってるから」


 澪は、その一言で完全に黙る。

 数秒後、顔をそらして小さく息を吐いた。


「……本当に、ずるい」


「知ってる」


「今日、何回それ言えば気が済むの」


「何回でも」


「……もう」


 澪は少しむくれたが、表情は明らかに嬉しそうだった。


 やがて、境内の奥で花火が上がる合図の音がした。


 ――どん。


 夜空に、最初の光が咲く。


 大輪の花が広がり、提灯の赤とは違う白い光が一面に流れる。


「……始まった」


 澪が息を呑む。


 次々と花火が打ち上がる。

 赤。

 青。

 金。

 夜空に開いて、消えて、また開く。


 九条は花火より先に、隣を見た。


 澪は空を見上げている。

 目に花火の光が映って、少しだけ潤んで見えた。


 その横顔が、あまりにも綺麗だった。


「……きれい」


 澪が呟く。


「花火か」


「ううん」


 澪は少しだけ笑った。


「夜と、提灯と、浴衣と……全部」


 九条は、その言葉に何も返せなかった。


 ただ、見ていた。

 藤色の浴衣に身を包み、夜空を見上げる白峰澪を。


 夏祭りの夜は、確かに特別だった。


 花火が上がるたびに、澪の表情が少しずつ柔らかくなる。

 そのたびに、九条の胸の奥も静かに熱くなる。


「ねえ、悠理」


「なんだ」


「連れてきてくれて、ありがとう」


 九条は、少しだけ花火から目を外した。


「俺が連れてきたというより、一緒に来たんだろ」


「……そうね」


 澪は少しだけ笑う。


「でも、あなたとじゃなきゃ、こんなふうに見られなかった気がする」


 九条は、その言葉に少しだけ息を止めた。


「……そうか」


「ええ」


「なら、よかった」


 澪は花火を見たまま、小さく頷いた。


 しばらくすると、澪がそっと巾着を開け、さっき取った星形のチャームを見せてきた。


「これ、私に?」


「ああ」


「……ありがとう」


「そんなに欲しかったのか」


「少しだけ」


「少しか」


「ええ」


 澪はそのチャームを指先で光にかざす。


「なんだか、今日の記念みたい」


「そうだな」


「持って帰る」


「巾着に入れとけ」


「うん」


 花火はまだ続いている。

 夏の夜の空を、何度も何度も照らしていた。


 最後の一発が消えたあと、境内には拍手が広がる。

 人々が少しずつ帰路につき始め、屋台の明かりも薄くなっていく。


「終わったな」


「ええ」


 澪は少しだけ名残惜しそうに空を見上げた。


「……もう少し見ていたかった」


「また来年あるだろ」


「来年も?」


「ああ」


「……約束?」


「約束だ」


 澪はその言葉に少しだけ安心したように微笑む。


 帰り道。

 人の波はまだ多いが、来るときより少しだけ歩きやすかった。

 提灯の灯りが遠ざかり、代わりに街灯が道を照らす。


 駅前へ向かう途中、澪が立ち止まる。


「悠理」


「なんだ」


「今日は、すごく楽しかった」


「ああ」


「……うん」


 澪は少しだけ言いづらそうにしてから、静かに続けた。


「浴衣、ちゃんと見てくれた?」


 九条は、その問いに少しだけ笑う。


「ああ。ちゃんと見た」


「ほんと?」


「本当だ」


「なら……よかった」


 澪の頬が、夜の灯りの中でもわかるくらい少し赤い。


「来年も、また一緒に来たい」


「来るだろ」


「うん」


「約束したしな」


「……そうね」


 澪は小さく笑った。


 駅前で別れる直前、澪が巾着を胸に抱えたまま、少しだけこちらを見上げる。


「悠理」


「なんだ」


「今日のこと、忘れないでね」


「ああ」


「絶対?」


「絶対だ」


「……なら、私も忘れない」


 九条は、夜空を見上げた。

 花火はもう終わったが、胸の中にはまだ光が残っている。


 白峰澪と過ごした夏祭りの夜。

 その記憶は、きっとかなり長く残る。


 藤色の浴衣。

 薄い青の髪飾り。

 夜空に咲いた花火。

 そして、握った手の温かさ。


 今年の夏は、まだ始まったばかりだが、

 この夜だけで、もう忘れられないものになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ