第二十六話 前夜
夏祭りの前日、学校は妙にそわそわしていた。
夏休み目前の浮つきに加えて、明日から始まる祭りの話題があちこちで飛び交っている。
誰が行く、誰と行く、どの屋台が人気だ、何時に集まる。
そんな会話が、授業の合間にも廊下でも、絶えず聞こえていた。
九条悠理は、その空気を少しだけ遠くに感じながら教室へ入った。
「おはよう」
蓮が机に突っ伏したまま手を上げる。
「おはよう」
「お前、今日も落ち着いてるな」
「別に」
「明日、夏祭りだぞ」
「知ってる」
「知っててその顔か」
「どんな顔だ」
「行くの楽しみな顔」
「違う」
「違うのかよ」
蓮は笑いながら顔を上げた。
「まあいいけど。白峰さん、明日浴衣なんだろ」
「……そうだな」
「お前、ちゃんと見ろよ」
「言われなくても見る」
「お、即答」
九条は軽くため息をついた。
蓮は試験の頃から、少しだけこういう話に敏感になっている。
からかうというより、面白がっているだけなのだろうが、九条としては落ち着かない。
朝のHRが終わり、授業が始まる。
だが、今日はいつもより少しだけ長く感じた。
明日のことが気になっているのか、それとも単に暑いからか。
どちらにせよ、頭の片隅に祭りの光景がずっと残っていた。
昼休み。
九条が中庭へ向かうと、白峰澪はベンチに座っていた。
今日は少しだけ違う。
いつもより早く来ていたのか、手元には小さなメモ帳がある。
薄い藤色の表紙。
先日買ったばかりのものだ。
「何を書いてるんだ」
「明日のことを少し」
「メモ帳、使ってるのか」
「ええ」
澪は少しだけ恥ずかしそうに閉じた。
「待ち合わせの時間とか、持ち物とか、念のため」
「もう全部決めただろ」
「でも、書いておきたいの」
「几帳面だな」
「あなたに言われたくないわ」
澪はそう言って、小さく笑う。
二人で弁当を食べながら、明日の流れを確認する。
駅前に六時。
人が多ければ連絡。
見つけやすいように、澪は髪を少しまとめる。
浴衣は藤色。
髪飾りは薄い青。
巾着は白。
「忘れ物はないな」
「たぶん」
「たぶん、はやめろ」
「ふふっ」
澪は珍しく声を出して笑った。
その笑い方を聞くたびに、九条は少しだけ胸の奥が温かくなる。
そうした小さな感情は、もう隠しようがなかった。
午後の授業が終わるころ、教室の空気はさらに浮ついていた。
明日が夏祭りだと分かっているからだろう。
友達同士で服装の話をしたり、屋台の予定を立てたりしている。
放課後。
九条が荷物をまとめると、教室の入口に澪が立っていた。
「……今日は、早いな」
「少しだけ」
「どうした」
「明日の前日だから」
「前日だから何だ」
「……少し落ち着かないの」
澪は視線を逸らした。
「え」
「だから、少しだけ歩きたい」
「いいぞ」
そう答えると、澪は少しだけほっとしたように肩を下ろした。
二人は学校を出て、いつもの帰り道へ向かう。
だが、今日は喫茶店には寄らなかった。
代わりに、住宅街の静かな道を少し遠回りする。
夏の夕方は長い。
空には薄い雲が流れていて、風はまだ熱を帯びている。
けれど、どこかで蝉の声が強くなり始めていた。
「明日、大丈夫かしら」
澪がぽつりと言う。
「何が」
「……ちゃんと似合ってるか」
「似合うだろ」
「そういうのじゃなくて」
「じゃあ何だ」
「……浮いてないか、とか」
九条は少しだけ歩く速度を緩めた。
「浮く?」
「ええ。浴衣って、見るのはいいけど、自分が着ると少しだけ不安になるの」
「そんなものか」
「そういうものよ」
澪は苦笑した。
「明日、変じゃないかちゃんと見て」
「見るって言っただろ」
「でも、しっかり見て」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
澪は少しだけ安心したように息をつく。
そのとき、空の向こうで小さく雷が鳴った。
低い音。
九条が上を見上げると、雲の端が少しだけ重くなっている。
「……降るかもな」
「今日はもう降らないと思ってたのに」
「夏だしな」
「それ、便利な言葉ね」
「事実だ」
そう言いながらも、九条は澪の歩幅が少しだけ小さくなったのに気づく。
雷鳴が苦手なのだろうか。
それとも、明日のことで頭がいっぱいなのか。
「白峰」
「なに」
「明日、少しでも不安なら言え」
「……不安、って」
「浴衣でも、待ち合わせでも、何でも」
澪は少しだけ黙った。
「……多いわね、あなたは」
「何が」
「気にしすぎるところ」
「そうか?」
「そうよ」
澪はそう言いながらも、少しだけ嬉しそうだった。
「でも、嫌じゃない」
「そうか」
「ええ」
やがて、澪が足を止める。
いつもの家の角だ。
「今日はここまで」
「ああ」
「……明日ね」
「明日だな」
「六時に駅前」
「分かってる」
「絶対来て」
「来る」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
澪はそれを聞いて、ようやく安心したように笑う。
「じゃあ、信じる」
「それが正しい」
「ふふっ」
澪は小さく笑い、少しだけ言いにくそうに続けた。
「……明日、楽しみ」
九条は、その言葉に少しだけ黙る。
明日が来る。
それは分かっていた。
けれど、彼女の口からそう言われると、胸の奥が静かに熱くなる。
「俺もだ」
短く返すと、澪は目を瞬かせた。
「……そう」
「そうだ」
「なら、よかった」
澪は小さく頷く。
「明日、ちゃんと見ててね」
「ああ」
「浴衣も、髪飾りも、全部」
「全部見る」
「……本当に?」
「ああ」
「約束」
「約束だ」
澪は満足したように息をついた。
そのまま背を向けて歩き出す。
けれど、数歩進んだところで振り返った。
「悠理」
「なんだ」
「明日、迷子になったら探してね」
「前にも聞いた」
「ええ。でも、もう一回」
「分かった」
「絶対よ」
「絶対だ」
澪はそれでようやく納得したのか、今度こそ家のほうへ向かった。
九条はその背中が見えなくなるまで立っていた。
前夜。
夏祭りの前の日。
何かが始まる直前の、いちばん落ち着かない時間。
けれど、その落ち着かなさすら、今は少しだけ愛おしかった。
家に帰る道すがら、九条はスマートフォンを取り出す。
澪とのやり取りを見返すまでもなく、メッセージはすでに届いている。
『明日、よろしくね』
その一文だけで、胸の中に静かな期待が広がった。
夏祭りの前夜は、思っていたよりずっと長い。
だが、その長さが明日への待ち遠しさを、少しだけ濃くしていく。
九条悠理は、空の端に残る薄い雷雲を見上げながら、
明日、藤色の浴衣を着た白峰澪と並んで歩く光景を、もう何度目か分からないほど思い浮かべた。
その想像は、やはり何度見ても飽きなかった。




