第二十五話 準備の途中
夏祭りまで、あと二日。
夕立のあった翌朝は、空気が少しだけ澄んでいた。
校舎の窓から見える空は高く、雲は薄い。
湿気はまだ残っているが、昨日までよりはずっと過ごしやすい。
九条悠理は、教室に入ってすぐ、自分の席へ座った。
だが、机にノートを広げたまま、少しだけ手が止まる。
夏祭り。
浴衣。
髪飾り。
巾着。
白峰澪と過ごす、その日のことばかりが、どうしても頭の片隅に残っている。
「おはよう」
蓮が欠伸をしながら隣に座る。
「おはよう」
「お前、最近ほんと分かりやすいな」
「何が」
「顔だよ。夏祭りのこと考えてるだろ」
「考えてない」
「即答が怪しい」
「うるさい」
蓮はにやにや笑いながら、机に頬杖をついた。
「まあいいけど。楽しみなんだろ」
「……まあな」
「やっぱり」
九条はノートに視線を戻す。
否定しようがない。
澪の浴衣姿を見るのは、たぶん自分でもかなり楽しみにしている。
昼休み。
今日は中庭ではなく、教室の窓際で軽く昼食を済ませることにした。
夏が近いとはいえ、まだ木陰のベンチは少し蒸し暑い。
そのとき、澪が静かに九条の席へやって来た。
「少し、いい?」
「ああ」
澪は周囲を軽く見回したあと、声を少しだけ落とした。
「夏祭りなんだけど」
「ああ」
「当日のこと、少しだけ決めておきたくて」
「何を」
「待ち合わせの場所と、時間」
九条は少しだけ頷いた。
「駅前でいいだろ」
「ええ」
「時間は?」
「午後六時でどうかしら」
「六時か」
「早すぎる?」
「いや」
九条は少し考えてから答える。
「ちょうどいい」
「そう」
澪の表情がほんの少しだけやわらぐ。
「それと、もし人が多かったら、先に連絡しようと思うの」
「連絡?」
「はぐれたときのため」
「前にも言ってたな」
「ええ。約束でしょう」
澪は小さく頷く。
その真剣な言い方が、九条には少しだけ可笑しくもあり、嬉しくもあった。
「分かった。連絡する」
「……うん」
澪はそこで少しだけ間を置き、続けた。
「それから」
「まだあるのか」
「……当日は、少しだけ髪をまとめようと思うの」
「そうか」
「その、暑いでしょう」
「まあな」
「だから、できるだけ見やすいようにしたいっていうか……」
途中で言いにくくなったのか、澪は視線を落とした。
「変かしら」
「変じゃない」
九条は即答した。
「むしろ、楽しみだ」
澪は目を瞬かせてから、少しだけ耳を赤くする。
「……そういうことを、普通に言うのやめて」
「思ったことを言っただけだ」
「それが困るの」
「何がだ」
「恥ずかしいでしょう」
九条は少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、見なければいい」
「見るに決まってる」
「なら、仕方ないな」
澪は少しだけむっとしたが、その顔にはもう強い棘はない。
むしろ、照れ隠しに近い。
放課後になると、二人は駅前へ向かった。
今日は少しだけ寄りたい場所がある。
昨日までに揃えた浴衣、小物、髪飾り。
そのほかにも、夏祭り用に少しだけ必要なものがあるのだ。
「どこへ行くの」
澪が歩きながら尋ねる。
「文具店」
「文具店?」
「ああ。絵の具売り場みたいなものじゃなくて、紙とか小物とかがある店」
「何を買うの」
「お前の巾着に入れる、予備の小さい絆創膏とか」
澪は少しだけ目を丸くした。
「……そんなのまで気にしてるの?」
「気にしてる」
「どうして」
「人が多いし、靴擦れとかあるかもしれない」
「……」
澪は少しだけ黙り、それから小さく微笑んだ。
「そういうところ、ほんとに優しいのね」
「何度も聞いた」
「でも本当だもの」
「そうか」
文具店は、駅前から少し離れた静かな通りにあった。
店内はこじんまりしていて、夏祭り用の文具や小物も並んでいる。
九条は必要なものをいくつか見つけ、レジへ向かおうとしたが、澪が棚の前で足を止めた。
「……これ」
「どうした」
「小さなメモ帳」
澪の指先が、淡い藤色の表紙のメモ帳に触れている。
「それがどうかしたか」
「夏祭りの日、何か書いておけるかなって」
「何を書くんだ」
「忘れ物とか、待ち合わせ場所とか」
「スマホでいいだろ」
「でも、こういうのも悪くないでしょう」
九条は少しだけ考える。
「……そうかもな」
澪はメモ帳を手に取り、表紙を見つめたあと、少しだけ笑った。
「これにする」
「巾着に入れるのか」
「ええ」
「必要あるか?」
「あるわ。なんとなく」
澪は少しだけ頬を赤くした。
「……夏祭りって、少しだけ特別だから」
九条はその言葉に、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
会話の中に、少しずつ“特別”が増えていく。
それは、ただの買い物ではない証拠だった。
店を出ると、夕方の風が少し涼しかった。
空は明るいが、雲がゆっくり流れていく。
その帰り道、前方から聞き慣れた声がした。
「お、また会った!」
朝倉灯だった。
九条は、もう驚くことを諦めかけていた。
「……お前、ほんとにどこでも出てくるな」
「ひどいなあ。こっちのセリフだよ」
「どういう意味だ」
「だって、最近ほんとによく見かけるし」
「気のせいだ」
「そうかな」
灯は軽く笑って、澪へ視線を向けた。
「白峰さんも一緒なんだ」
「ええ」
澪は丁寧に答えたが、今日は少しだけ雰囲気が柔らかい。
灯はその違いに気づいたのか、少しだけ目を細めた。
「夏祭り、もうすぐだよね」
「……ええ」
「準備してる?」
「少しずつ」
「そっか。楽しみだね」
「そうね」
灯は九条の手元を見て、文具店の袋に気づく。
「何買ったの」
「お前には関係ない」
「えー」
「絆創膏とかだ」
九条が答えると、灯は一瞬だけきょとんとして、それから思いきり笑った。
「優しすぎ!」
「うるさい」
「白峰さん、こういうところも見てる?」
灯が冗談めかして言うと、澪は少しだけ視線を逸らした。
「……見てます」
その返事が、あまりにも素直だったので、九条も少しだけ固まる。
灯はその反応を見て、にやっと笑った。
「だよね。そういうの、大事にしたほうがいいよ」
「何がだ」
「気配り」
「それは今さらだ」
「今さらでも大事」
灯は手をひらひらと振る。
「私はこれから家の用事があるから、もう行くね」
「そうか」
「またね、悠理。白峰さんも」
「ええ」
灯が去っていくと、二人の間に少しだけ静けさが戻った。
「……絆創膏まで気にしてたのね」
澪が小さく言う。
「一応な」
「私、そんなに頼りないかしら」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味」
「念のためだ」
澪は少しだけ考え、それからふっと笑う。
「……そう」
「何だ」
「大事にされてるみたいで、少し嬉しい」
九条はその言葉に、思わず足を止めかけた。
「……そうか」
「ええ」
澪は何でもないように歩き続けるが、耳だけ少し赤い。
九条はその横顔を見て、もう少しだけ言葉を探した。
「夏祭りの日、困ったことがあったら言え」
「困ったこと?」
「何でも」
「ほんとに?」
「ああ」
「……じゃあ、もし迷ったら、ちゃんと見つけて」
九条は少しだけ目を細める。
「言ってたな、前にも」
「ええ」
「分かった」
「約束」
「約束だ」
澪は満足したようにうなずく。
そのとき、空の向こうで小さく雷鳴が鳴った。
ごろ、と低い音。
九条が見上げると、遠くの雲が少しだけ厚くなっている。
「……夕立か」
「来るかしら」
「今日は降るかもな」
「傘、あるわ」
「俺もある」
「……なら大丈夫」
二人は少し歩く速さを上げた。
駅前の角を曲がるころには、空の色が少しだけ曇り始めていた。
「夏祭りの日も、こんな天気にならないといいけど」
澪がぽつりと言う。
「大丈夫だろ」
「どうして」
「お前がいるから」
澪が足を止める。
「……何それ」
「事実だ」
「ずるい」
「またか」
「だって、そういうのは……」
澪は言葉を切ったあと、少しだけ目を伏せた。
「……嬉しいの」
その声は、雨が降る前の静けさのようにやわらかかった。
九条は何も言わず、少しだけ頷く。
夕方の空は、まだ降っていない。
けれど、夏祭りへ向かう準備は、もうほとんど整っていた。
絆創膏。
メモ帳。
髪飾り。
巾着。
そして、約束。
必要なものは、たぶんそれで十分だった。
九条悠理は、隣を歩く白峰澪を見ながら、今年の夏はやっぱり特別になるのだと、静かに確信していた。




