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第二十四話 夕立の予感

夏祭りまで、あと三日。


 校舎の空気は、もうほとんど夏休み前のそれになっていた。

 試験が終わった安心感と、課題がまだ残っている焦りと、祭りを待つ妙な浮つきが混ざっている。


 九条悠理は朝の教室で、窓の外をぼんやり見ていた。


 雲が多い。

 昼から夕方にかけて、にわか雨が来るかもしれない、そんな空だった。


「また空を見てる」


 後ろから藤堂蓮の声がする。


「見てない」


「見てるって。最近ほんと多いぞ、窓の外」


「気のせいだ」


「気のせい、ねえ」


 蓮はにやっと笑った。


「白峰さんと夏祭りのことでも考えてたんだろ」


「考えてない」


「即答すぎるだろ」


「うるさい」


「図星か」


 九条は返事をせず、ノートを開いた。

 だが、蓮の言葉が少しだけ頭に残る。


 白峰澪。

 藤色の浴衣。

 薄い青の髪飾り。

 夏祭りの日の約束。


 考えていない、というのは無理がある。


 昼休み。

 中庭へ向かうと、澪はもうベンチに座っていた。

 今日は日差しが少し強いが、木陰に入れば風はまだやわらかい。


「待ったか」


「ううん。今来たところ」


「そうか」


「今日は少し曇ってるのね」


「夕立が来るかもな」


「夕立……」


 澪は空を見上げた。


「夏っぽいわね」


「そうだな」


 しばらく二人で弁当を食べる。

 風が木の葉を揺らす音が、昼の静けさの中で小さく響く。


 やがて、澪が唐突に言った。


「……夏祭りの日なんだけど」


「ああ」


「髪を少しまとめようと思うの」


「そうか」


「帯とのバランスもあるでしょう」


「詳しいな」


「調べたの」


 澪は少しだけ真面目な顔で答える。


「浴衣を着るなら、髪飾りだけじゃなくて、髪型も大事だと思って」


「似合えば何でもいい気がするけど」


「それが一番困るの」


「またそれか」


 澪は少しむっとしたように口を尖らせる。


「悠理は、そうやって簡単に言うけど、こっちはちゃんと悩むの」


「悩むのか」


「悩むわ」


「どこまで」


「……あなたに、ちゃんと見てほしいから」


 その言葉に、九条は少しだけ息を止めた。


 澪は自分で言ってから、少しだけ視線を逸らす。

 耳がほんのり赤い。


「今の、聞かなかったことにして」


「無理だな」


「やっぱりそれ」


「だって本音だろ」


「……そうだけど」


 澪は小さく息を吐いた。

 恥ずかしさをごまかすように、弁当の端を見つめる。


 九条は、そこでふと気づいた。


 彼女は夏祭りそのものを楽しみにしている。

 けれど、それ以上に、どんなふうに自分が見えるかを気にしている。

 それは、単なるおしゃれではなく、きっと自分の一部を渡すようなものなのだろう。


「じゃあ、ちゃんと見る」


 九条が言うと、澪はゆっくり顔を上げた。


「……ほんと?」


「ああ」


「見逃さない?」


「見逃さない」


「絶対?」


「絶対」


 澪は、その返事に少しだけ安心したように笑った。


 放課後。

 教室を出ると、空は昼よりさらに厚い雲に覆われていた。

 風も少し強い。


「降りそうだな」


 九条が言うと、澪も空を見上げる。


「ええ。傘はあるから大丈夫」


「俺も持ってる」


「……それなら安心ね」


 駅前へ向かう途中、二人は雑貨店に寄ることにした。

 浴衣に合わせる小物をもう少しだけ見たい、という澪の希望だった。


 店内には、夏用のアクセサリーや小さな巾着が並んでいる。

 音は静かで、涼しい空気が心地いい。


「この辺り、見てみる」


 澪が棚の前で足を止めた。

 髪飾りの横に、小さな和風の巾着が並んでいる。


「浴衣の日、これ持つのか」


「ええ。スマートフォンとハンカチくらいは入れたいでしょう」


「確かに」


「どれがいいかしら……」


 澪は真剣な顔で色を見比べる。

 藤色の浴衣に合いそうなのは、淡い白か、薄い青。

 どちらも落ち着いた印象だった。


「これ、どう」


 九条が指さしたのは、白地に小さな紫の花が散った巾着だった。


 澪はそれを見て、少しだけ目を丸くする。


「……いいかも」


「だろ」


「でも、少しだけ可愛すぎる気もするの」


「そうか?」


「ええ。持つの、少し恥ずかしいわ」


「……そういうのも似合うと思うけど」


「またそういうことを言う」


 澪は小さくむくれた。


 そこへ、背後から明るい声が割り込む。


「おっ、またいた!」


 朝倉灯だった。


 九条は、もはやため息すら小さくなった。


「……お前、本当にどこにでもいるな」


「失礼だなあ。ちゃんと買い物に来てるんだよ」


「この前から、買い物の頻度に比べて遭遇率が高すぎる」


「それは運命だよ」


「違う」


 灯は笑って、澪の持っていた巾着を覗き込む。


「それ、可愛いね。白峰さんっぽい」


「……そうですか」


「うん。上品だし、夏祭りにぴったり」


 澪は少しだけ視線を落とした。

 褒められたこと自体は嬉しいのだろう。

 だが、灯の明るさには少しだけ構えているようにも見える。


 灯は九条へ視線を移す。


「悠理、ちゃんと選んでる?」


「お前には関係ない」


「あるよ。だって、白峰さんのことだもん」


「……余計なことを言うな」


「えー」


 灯は悪びれず笑う。


 そのあと、少しだけ真面目な顔になる。


「でもさ、白峰さん。夏祭りの日って、けっこう風があるから、巾着は口が閉まるやつがいいかも」


「……そうなの?」


「うん。歩くときに落としにくいし」


「なるほど」


 澪は少しだけ考え込む。

 店員に頼んで、口がきゅっと閉まるタイプの巾着をいくつか見せてもらう。


「これなら、少し安心かも」


 澪が選んだのは、白地に淡い藤色の紐がついたものだった。

 派手ではない。

 だが、浴衣の静かな色とよく合っている。


「いいと思う」


 九条が言うと、澪は静かに頷いた。


「……うん。これにする」


 灯はその様子を見て、どこか満足そうに笑った。


「決まったね」


「ええ」


「じゃあ、夏祭り、楽しみだ」


 澪が少しだけ視線を上げる。


「……そうね」


 その返事には、さっきまでの迷いが少しだけ薄れていた。


 店を出ると、空気がわずかに湿っていた。

 雲はさらに低くなり、遠くで雷のような音が聞こえる気がした。


「ほんとに降るかも」


 澪が空を見上げる。


「急ごうか」


「ええ」


 駅前へ向かって少し歩いたところで、ぱら、と最初の雨粒が落ちた。


「来たな」


「本当に来たわね」


「傘、出すか」


「少し待って」


 澪がそう言った直後、雨は一気に強くなる。


「……待てなかったな」


「ええ」


 二人は急いで近くの高架下へ駆け込んだ。

 屋根の下には、すでに何人かの通行人が雨宿りしている。


 外では、夏の夕立らしい激しい雨音が地面を叩いていた。


「すごい勢い」


 澪が少しだけ目を丸くする。


「梅雨の終わりっぽいな」


「終わるの?」


「そのうち」


「……そう」


 澪は傘を閉じて、濡れた前髪を指先で少しだけ整えた。

 その仕草が妙に静かで、九条はつい見てしまう。


「何」


「いや」


「見てたでしょう」


「見てた」


「否定しないのね」


「する必要ないし」


「そう」


 澪は少しだけ頬を赤くしながら、視線を外した。


 雨音が高架下に反響する。

 外はもう、街がぼやけるほどの雨になっている。


 しばらくそのまま立っていたが、澪がぽつりと言った。


「……ねえ、悠理」


「なんだ」


「夏祭りの日も、こんなふうに雨だったらどうする?」


 九条は少しだけ考えた。


「降ってたら、傘を差す」


「それだけ?」


「それだけじゃないか」


「私は、もっとロマンチックな答えを期待してたのだけど」


「ロマンチック、ね」


「ええ」


 澪は少しだけむくれたあと、自分でも少し笑った。


「……でも、そういうのは嫌いじゃないわ」


「何が」


「現実的な答え」


「そうか」


「うん」


 雨は少し強いままだったが、二人の間には気まずさはなかった。


 むしろ、雨音があるぶん会話が落ち着く。


「浴衣、楽しみだな」


 九条が何気なく言う。


 澪は、その言葉にぱっと目を上げた。


「……ほんと?」


「ああ」


「何回も言ってる」


「何回でも言う」


「……ずるい」


「またそれか」


「だって」


 澪は少しだけ息を吸った。


「……あなたに見てもらえるって思うと、少しだけ、夏祭りが特別に感じるの」


 その言葉は、雨音の中でもはっきり聞こえた。


 九条は少しだけ黙る。


 澪は言ったあと、自分で恥ずかしくなったのか、すぐに視線をそらした。


「今のも、忘れて」


「無理だな」


「ほんと、それしか言わないの?」


「だって無理だし」


 澪は少しだけ顔を赤くして、それでも小さく笑った。


「……もう、いいわ」


 雨はまだ止まない。

 だが、空は少しだけ明るくなっている。

 夕立は長くは続かないだろう。


 九条は高架下の向こう側を見た。

 舗道は濡れているが、雨足は少しだけ弱まり始めている。


「もう少し待てば、止むかもな」


「ええ」


「そしたら帰れる」


「……うん」


 澪は巾着袋を大事そうに抱え直した。


「今日は、いろいろ決まってよかった」


「巾着もか」


「ええ」


「髪飾りも、浴衣も、夏祭りの準備も」


「そうだな」


「……それに」


 澪は少しだけ言い淀んだ。


「雨宿りも、悪くなかった」


 九条はその言葉に、少しだけ目を細める。


「俺もだ」


 澪がこちらを見る。


「本当?」


「ああ」


「そう」


 少しだけ沈黙。


 だが、それはもう気まずいものではなかった。

 雨の音と、行き交う車の音と、二人だけの呼吸が静かに重なる。


 やがて雨は弱まり、空の端に薄い光が差し始めた。


「止みそうだな」


「ええ」


「行けるか」


「うん」


 澪は傘を開き直した。

 その表情は、さっきより少しだけ晴れている。


 駅前へ向かう途中、澪がふいに言う。


「悠理」


「なんだ」


「夏祭りの日、ちゃんと見ててね」


「ああ」


「絶対」


「絶対だ」


「……なら、いい」


 澪は少しだけ笑った。

 雨上がりの空気の中で、その笑顔はいつもより透明に見えた。


 藤色の浴衣。

 薄い青の髪飾り。

 白い巾着。

 そして、夕立を一緒にやり過ごした記憶。


 夏祭りの日は、もうすぐそこまで来ている。


 九条悠理は、隣を歩く白峰澪を見ながら、今年の夏がきっと忘れられないものになると、静かに確信していた。

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― 新着の感想 ―
夏祭りを目前にした二人の穏やかな時間が丁寧に描かれ、読んでいて自然と温かな気持ちになりました。夕立の雨宿りという何気ない出来事が、互いの距離を少しずつ縮める演出になっていて素敵です。夏祭り本番への期待…
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