第二十三話 浴衣の色
翌日の放課後、九条悠理と白峰澪は、約束通り駅前へ向かった。
試験も終わり、教室の空気は少しだけゆるんでいる。
とはいえ、夏休み前の課題や部活の予定で、完全に浮ついているわけでもない。
そんな中で、二人の足取りだけが少し軽かった。
「今日、暑いわね」
澪が日差しを避けるように、駅前の通りを見上げる。
「ああ」
「まだ七月前なのに、この暑さは反則だと思う」
「夏だからな」
「それにしても、もう少し手加減してほしいわ」
「夏に言うことじゃない」
「分かってる」
澪は小さくため息をつきながらも、どこか楽しそうだった。
九条はその横顔を見て、少しだけ口元を緩める。
試験が終わったあとの澪は、以前より少しだけ肩の力が抜けている。
もちろん、まだ完璧な姿勢は崩れない。
だが、見えない場所ではちゃんと息をついているのが分かった。
ふたりが向かったのは、駅前の少し奥にある呉服店だった。
外から見ると少し敷居が高そうに見えるが、店先には夏祭り向けの浴衣が並び、思っていたより入りやすい雰囲気がある。
「ここ……」
澪が少しだけ足を止める。
「入るのか」
「……うん」
「嫌ならやめるか」
「ううん。入る」
澪は静かに頷いた。
だが、その頷きには、ほんの少しだけ緊張が混じっている。
店に入ると、涼しい空気が頬を撫でた。
木の匂いと布の匂いが混ざり、静かで落ち着いた空間が広がっている。
壁際には、色とりどりの浴衣がずらりと並んでいた。
「……たくさんあるのね」
「そりゃそうだろ」
「分かってるけど、実物を見ると圧倒されるわ」
「白峰、こういうの初めてか」
「ええ。ちゃんと見比べるのは、あまりないかも」
九条は少し意外だった。
澪は何でも自分で決めているように見えるが、こういう場面では意外と慎重らしい。
店員が静かに近づいてきて、必要ならご案内しますと声をかける。
澪は丁寧に会釈してから、浴衣の並ぶ棚の前に立った。
「……薄い青」
澪が小さく呟く。
「昨日の髪飾りと合う」
「ええ」
「見てみるか」
「うん」
九条が指さした先には、淡い青地に白い花柄の浴衣が掛けられていた。
派手すぎず、静かな印象がある。
澪の雰囲気にとてもよく合いそうだった。
澪はしばらくそれを見つめていたが、やがて首を少しだけ傾ける。
「……悪くないけど、少しだけ涼しすぎるかしら」
「涼しすぎる?」
「なんとなく、落ち着きすぎてる気がするの」
「白峰らしいと思うけど」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる」
「……じゃあ、保留」
澪は別の浴衣へ視線を移した。
今度は白に近い生成りの地に、淡い紫の花が散っている。
上品で、どこか柔らかい。
「こっちもいいわね」
「似合いそうだな」
「そう?」
「ああ」
九条は迷いなく答えた。
澪は少しだけ頬を赤くする。
「……そういうの、簡単に言うのやめて」
「なんでだ」
「選びにくくなるから」
「じゃあ黙るか」
「それはそれで困る」
「どっちだ」
「……両方」
澪は小さく息をつき、ゆっくり浴衣の反物を見比べていく。
その横顔は真剣で、少しだけ子どもっぽかった。
いつもは整って見える彼女も、こういう場ではちゃんと悩む。
その姿が、九条には少しだけ新鮮だった。
「こっちも見てみる」
澪が手を伸ばしたのは、薄い藤色の浴衣だった。
白と紫の中間のような、柔らかく静かな色合い。
九条はそれを見て、少しだけ目を細める。
「……悪くない」
「悪くない、って」
「かなり似合うと思う」
「またそういう」
「本当だ」
澪は黙って浴衣を見つめたまま、少しだけ考える。
「……この色、好きかも」
「なら、それでいいんじゃないか」
「でも、少し迷うの」
「何を」
「あなたの言う通りにしていいのか」
九条は少しだけ首をかしげた。
「何でだ」
「だって」
澪は浴衣の端をそっと撫でる。
「あなたが選んだものを着るって、なんだか、少しだけ特別でしょう」
その言葉に、九条は一瞬だけ息を止めた。
澪は自分で言ったことに気づいて、すぐに視線を逸らす。
「……今のは、忘れて」
「無理だな」
「やっぱりそれ」
「でも、本当のことだろ」
「……そうだけど」
澪は少しだけ耳まで赤くした。
その反応を見た九条は、ほんの少しだけ胸が熱くなる。
選ぶ側と選ばれる側。
そんな単純な話ではない。
彼女は、自分のために悩み、自分の意見を欲しがっている。
それが、なんとなく嬉しかった。
店員が気を利かせたのか、試着できますと案内してくれる。
澪は少しだけ躊躇したあと、小さく頷いた。
「……お願いしてもいい?」
「もちろん」
九条は店の隅にある待合用の椅子へ移り、澪が試着室へ入るのを見送った。
数分後。
カーテンが静かに開く。
九条は、思わず目を瞬かせた。
薄い藤色の浴衣を着た白峰澪は、思っていた以上に綺麗だった。
上品で、やわらかくて、それでいて少しだけ儚い。
もともと整っていた顔立ちが、浴衣の静かな色と重なって、いつもとは違う存在感を持っている。
「……どう、かしら」
澪は少し不安そうに聞く。
「似合ってる」
九条は即答した。
「……それは、さっきも聞いた」
「でも、本当に似合ってる」
「……」
澪は数秒固まったあと、少しだけ俯いた。
「……そんなふうに見ないで」
「見ないと分からないだろ」
「分かりすぎるの」
その声は小さい。
だが、どこか嬉しそうでもあった。
九条は少しだけ笑う。
「青よりこっちのほうが、少し柔らかいな」
「そう?」
「ああ。白峰には、こっちのほうが合うかもしれない」
「……どうして」
「夏っぽいから」
澪はその答えに少しだけ目を丸くし、それから静かに笑った。
「夏っぽい、か」
「悪い意味じゃない」
「分かってるわ」
鏡の前で、澪は帯の位置を確認する。
細い指先で少しだけ直す仕草すら、妙に丁寧だった。
そのとき、後ろから少し軽い声が響く。
「わあ、ほんとに似合う」
朝倉灯だった。
九条は、ついに天井を見上げた。
「……また来たのか」
「来たのかって、私は客だよ?」
「どこが客だ」
「ちゃんと買うつもりだし」
灯はにこにこしながら、澪のほうを見た。
「白峰さん、それ似合うね。すごくいい」
「……ありがとうございます」
澪は丁寧に答えた。
だが、先ほどまでとは少し違って、完全には硬くならない。
灯はそんな空気を察したのか、少しだけ真面目な声になる。
「悠理が選んだの?」
「……まだ、決めてないけど」
澪がそう言うと、灯はふっと笑う。
「でも、候補はもうほぼ決まりでしょ」
「……まあ」
九条は少しだけ眉をひそめた。
「何だ、その意味ありげな言い方は」
「別に。ねえ白峰さん、これ着て夏祭り行くんでしょ?」
「ええ」
「絶対映えるよ」
「……映える、って」
「うん。遠くから見ても分かるくらい」
「やめてくれ」
九条がすぐに止める。
「何で?」
「余計なことを言うな」
「本当のことだよ?」
「本当でも言い方があるだろ」
「そっかあ」
灯は悪びれず笑うが、澪は少しだけ顔を赤くしていた。
けれど、その赤みは不快ではないらしい。
むしろ、夏祭りを想像しているような、少し落ち着かない期待に見えた。
試着を終えて、二人は店の外へ出る。
夕方の光は柔らかい。
風が少しだけ熱を和らげている。
「……決めた」
澪が小さく言う。
「どれにする」
「藤色のやつ」
「そうか」
「ええ」
澪は手に持った浴衣の包みを見下ろす。
「あなたが選んでくれた色だから」
「選んだってほどじゃない」
「でも、背中を押してくれたでしょう」
「まあな」
「だから、これにする」
九条はその言葉に少しだけ目を伏せた。
彼女にとって、衣服を選ぶことはただの買い物ではない。
誰かと過ごす特別な日のために、少しだけ自分を見せる準備なのだろう。
「……楽しみだ」
九条がそう言うと、澪は目を瞬かせた。
「本当?」
「ああ」
「似合うと思う?」
「思う」
「……じゃあ、よかった」
澪は少しだけほっとしたように笑った。
その笑顔は、試着室の中で見た姿よりずっと自然だった。
駅前で別れる前、澪が浴衣の包みを両手で抱えながら立ち止まる。
「悠理」
「なんだ」
「今日、選んでくれてありがとう」
「選んだのはお前だろ」
「でも、あなたがいたから決められたの」
その言葉に、九条はしばらく返せなかった。
澪は少しだけ照れたように視線を逸らす。
「……今のも、忘れて」
「無理だな」
「ほんと、その返し、ずるい」
「知ってる」
九条が少し笑うと、澪もつられたように笑った。
「じゃあ、夏祭りの日は、ちゃんと見てて」
「ああ」
「浴衣、楽しみにしてて」
「してる」
「……ほんとに?」
「ああ」
澪は少しだけ頬を赤くして、それでも嬉しそうにうなずく。
「なら、私も楽しみにする」
夕方の空は、ゆっくりと茜色に染まっていた。
浴衣の色は決まった。
夏祭りの日の澪は、藤色のやわらかな光をまとって歩くことになる。
九条悠理は、帰り道の途中でふと気づく。
選んだのは浴衣だけではない。
この夏を、彼女と一緒に過ごすことそのものを、もう選んでいるのだ。
それは、言葉にしなくても確かな約束だった。




