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第二十二話 試験明けの空気

 翌日から、学校の空気は少しだけ緩んでいた。


 期末試験が終わったことで、教室には妙な解放感がある。

 ノートを閉じる音、ため息、勝った負けたという会話。

 それらが混じって、いつもの教室より少しだけ騒がしかった。


 九条悠理は自分の席に座りながら、その空気をぼんやりと眺めていた。


「終わったなあ」


 蓮が机に突っ伏したまま言う。


「お前は大げさだ」


「大げさじゃない。今の俺は試験を生き延びた」


「生き延びるほどではない」


「お前さ、平然としすぎだろ」


「そうか?」


「そうだよ。しかも、白峰さんと普通に話してるし」


「普通だ」


「その普通が、もう怪しいって」


 九条はため息をついた。

 だが、蓮の軽口も、試験明けの空気の中では少しだけ和らいで聞こえる。


 教室の反対側では、白峰澪が静かに席についていた。


 今日はいつもより少しだけ表情が柔らかい。

 試験が終わった安心感が、ほんの少しだけ顔に出ている。


 九条が目を向けると、澪も気づいたように視線を返した。

 一瞬だけ、互いに小さくうなずく。


 それだけで十分だった。


 昼休み。

 九条が弁当を広げていると、澪がゆっくりと近づいてくる。


「……悠理」


「なんだ」


「少し、いい?」


「ああ」


 澪は少しだけ周囲を気にしてから、席の横に立った。


「試験、お疲れさま」


「そっちもな」


「ええ」


 澪はほんの少し笑った。

 その笑みは、昨日のカフェよりも落ち着いている。


「今日は、少しだけ時間ある?」


「ある」


「よかった」


 九条は澪の顔を見る。


「何かあるのか」


「……試験が終わったから、少しだけ歩きたいの」


「歩きたい?」


「ええ。外、少し涼しいから」


 試験明けの空は雲が少なく、風もやわらかかった。

 放課後まで待たなくても、昼休みの少しだけであれば十分に歩ける。


「いいぞ」


「ほんと?」


「ああ」


 澪は少しだけほっとしたように息をついた。


 中庭へ向かう道すがら、蓮が二人を見てにやにやしていたが、九条は無視した。


 中庭の木陰は、教室よりずっと静かだ。


 ベンチに並んで座ると、風が葉を揺らした。


「……少し落ち着く」


 澪が言う。


「そうだな」


「試験って、嫌いだけど、終わったあとの空気は嫌いじゃないの」


「分かる」


「本当?」


「ああ」


 九条は頷く。


「試験そのものはしんどいけど、そのあと少しだけ自由になる感じは悪くない」


「自由、か」


「少しだけな」


 澪は静かに視線を落とした。


「……そういうふうに言われると、なんだか嬉しい」


「何が」


「試験が終わることに、ちゃんと意味があるみたいに聞こえるから」


 九条は少しだけ黙った。

 彼女にとっては、試験の終わりは単なる解放ではなく、次へ進むための合図なのだろう。


「意味くらいあるだろ」


「そうね」


 澪は小さく笑った。


 そのまま二人でしばらく中庭を眺める。

 夏の風は湿っているが、日差しはやわらかい。

 木の葉の隙間からこぼれる光が、地面にまだら模様を作っていた。


「悠理」


「なんだ」


「試験が終わったら、やりたいことがあったの」


「何だ」


「……浴衣を見に行く前に、少しだけ買い物したくて」


「買い物?」


「ええ。小物とか、髪飾りとか」


 九条は少しだけ目を瞬かせた。


「そこまで考えてたのか」


「夏祭りだもの」


「本気だな」


「本気よ」


 澪はそう言って、少しだけ頬を赤くした。


「あなたと行くんだから、ちゃんとしたいの」


 九条は、その言葉に少しだけ息を止める。


 ごく自然に言われると、余計に重く感じる。


「……分かった」


「ありがとう」


「で、いつ行く」


「今日でもいいし、明日でも」


「早いな」


「だって、迷うのは嫌でしょう」


「それはそうだ」


 澪は小さく頷いた。


 午後の授業は、ほとんどが試験返却だった。

 教室のあちこちから歓声や悲鳴が上がる。

 蓮は数学の答案を見て、机に沈み込んでいた。


「死んだ……」


「だから言っただろ」


「九条、お前と点数交換したい」


「嫌だ」


「即答かよ」


 そんなやり取りが続く中、澪の答案だけは驚くほど安定していた。


「……また高い」


 蓮が机越しに見て言う。


「白峰さん、やっぱすごいな」


「別に」


 澪はいつものように控えめに答えるが、ほんの少しだけ嬉しそうだった。


 放課後になると、九条と澪はそのまま駅前へ向かった。

 今日は図書室ではない。

 試験明けの買い物をするためだ。


 最初に入ったのは、小さな雑貨店だった。


 店内には、夏向けの小物が並んでいる。

 風鈴、髪留め、扇子、小さな布巾。

 どれも涼しげで、見ているだけで少し気分が落ち着く。


「……どれがいいかしら」


 澪が棚の前で呟く。


「髪飾りなら、こっちじゃないか」


「……薄い色ね」


「落ち着いて見える」


「あなた、ほんとに薄い色ばっかり勧めるのね」


「合ってると思うからだ」


「……そう」


 澪は少しだけ視線を逸らしたが、耳がほんの少し赤い。


 棚には小さな簪のような髪飾りがいくつか並んでいる。

 青、白、薄紫、銀色。

 どれも澪に似合いそうだった。


「これ、どうかしら」


 澪がひとつ手に取る。

 淡い青の花を模した飾りだった。


 九条はそれを見て、少しだけ考える。


「いいと思う」


「本当?」


「ああ」


「……悠理の好み?」


「少しは」


 澪の手が止まる。


「少しは、って何」


「お前の雰囲気に合う」


「……またそういう言い方」


 澪は困ったように笑う。

 だが、その表情はとてもやわらかい。


 そのとき、店の入口が開いた。


 朝倉灯だった。


「おっ、やっぱりいた」


 九条は天を仰ぎたくなった。


「……お前、ほんとに多いな」


「何が?」


「いや、何でもない」


 灯は二人の前に軽く手を振り、棚の上を覗き込む。


「何選んでるの?」


「髪飾りだ」


「へえ。夏祭り用?」


 澪が小さく頷く。


「ええ」


「いいじゃん。白峰さん、こういうの似合いそう」


 灯は素直にそう言った。

 だが、続けて九条を見て、にやっとする。


「悠理、ちゃんと選んでる?」


「黙ってろ」


「えー、ひどい」


「ひどくない」


 灯は楽しそうに笑ったが、すぐに澪へ視線を戻した。


「でも、ほんと似合うと思う。優しい色だし」


「……ありがとうございます」


 澪は静かに答える。

 だが、さっきまでより少しだけ表情が落ち着いていた。


 灯はその反応を見て、満足そうに頷いた。


「で、悠理は何を選んだの?」


「俺は見てるだけだ」


「つまんないなあ」


「うるさい」


 そんなやり取りをしながらも、澪はしばらく飾りを見つめていた。


「……これにするわ」


「決めたか」


「ええ」


 青い花の髪飾り。

 澪はそれを大事そうに包むように持った。


「夏祭りの日、着ける」


 その言葉に、九条の胸が少しだけ温かくなる。


「楽しみにしてる」


「……うん」


 澪は短く返したが、その声は少しだけ弾んでいた。


 雑貨店を出ると、夕方の空には薄い雲が流れていた。

 駅前の空気はまだ暑いが、風が吹くと少しだけ涼しい。


「今日は、少しだけ前に進んだ気がする」


 澪がぽつりと言う。


「何が」


「夏祭りの準備」


「そうか」


「ええ」


「髪飾りも買えたしな」


「そうね」


 澪は嬉しそうに笑う。


「……それに、試験も終わった」


「ああ」


「だから、少しだけ安心した」


「分かる」


 澪は九条を見上げる。


「……試験が終わって、夏祭りの準備ができて、あなたとこうして歩いていると、何でもない日なのに特別な気がする」


 九条は少しだけ歩くのをゆるめた。


「何でもない日、か」


「ええ」


「でも、そういう日が一番残るのかもしれない」


 澪は目を瞬かせたあと、静かに微笑んだ。


「そうかも」


 駅前で別れる前、澪は小さな袋を抱えたまま、少しだけ立ち止まった。


「悠理」


「なんだ」


「今日のこと、忘れないでね」


「忘れない」


「……絶対?」


「ああ」


「なら、いい」


 澪は少しだけ顔を上げた。


「じゃあ、また明日」


「ああ」


「明日は、少しだけ勉強以外の話をしたい」


「いいぞ」


「ほんと?」


「ああ」


 澪は満足したように頷き、静かに手を振った。


 その背中を見送りながら、九条は思う。


 試験が終わった。

 夏祭りの準備も、少しずつ進んでいる。

 そして何より、彼女と過ごす日々が、当たり前のようでいて、まだ少し特別だった。


 何でもない買い物。

 何でもない会話。

 何でもない一日。


 だが、そういうものほど、あとで強く残る。


 九条悠理は、夕方の風に髪を揺らしながら、夏がもうすぐ本格的に始まることを静かに感じていた。

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