第二十一話 試験の日の朝
期末試験の朝は、いつもより静かだった。
校門をくぐる生徒たちの足取りには、どこか張りつめたものがある。
教室に入ると、すでに何人かは席について最後の確認をしていたし、机の上には試験用の筆記用具と、ぎりぎりまで開かれたノートが並んでいた。
九条悠理も、その一人だった。
教科書の最後の確認をしながら、机に視線を落とす。
だが、完全に集中しているわけではない。
試験のこと。
夏祭りのこと。
そして、白峰澪の浴衣のこと。
頭の中に、いくつもの別々のものが並んでいた。
「おはよう」
前の席から、藤堂蓮が眠そうな声で振り返る。
「おはよう」
「お前、意外と落ち着いてるな」
「落ち着いてない」
「そうか?」
「ああ」
「なら、普段通りか」
「そういうことだ」
蓮は苦笑した。
「まあ、お前は本番に強そうだしな」
「そうでもない」
「いや、そうだろ。少なくとも俺よりは」
「比較対象が低すぎる」
「ひどい」
そんなやり取りをしているうちに、教室の入口が少しだけ騒がしくなる。
白峰澪が入ってきた。
試験の日でも、彼女は変わらない。
髪はきちんと整えられ、制服も隙なく着こなしている。
だが、九条には分かる。
いつもより少しだけ、目元に疲れがある。
試験前の緊張が、少しだけ顔に出ていた。
澪は教室の中を見渡し、九条を見つけると、ほんの一瞬だけ表情をやわらげた。
誰にも気づかれないほど、小さな変化だった。
九条も、軽く頷く。
それだけで十分だった。
朝のチャイムが鳴る。
教室に静かな緊張が広がり、先生が試験用紙を配り始めた。
最初の科目は国語。
問題文を前にすると、自然と頭が切り替わる。
文章読解。漢字。古典。
淡々と解いていくうちに、余計な考えは少しずつ消えていった。
だが、試験が終わって休み時間になると、また別のことを考えてしまう。
昼休み。
九条が廊下へ出ると、白峰澪が窓際に立っていた。
「どうだった」
澪が先に聞く。
「まあまあ」
「また曖昧」
「そっちこそ」
「私は……悪くないと思う」
澪は少しだけ自信なさげに言った。
それでも、表情はほんの少しだけ明るい。
「なら大丈夫だろ」
「そうかしら」
「ああ」
九条が答えると、澪は小さく息をついた。
「……試験って、やっぱり嫌い」
「みんなそうだろ」
「でも、終わったら夏祭りだから、少しだけ我慢できる」
その言葉に、九条は少しだけ笑った。
「そこまで楽しみにしてたのか」
「ええ」
「浴衣のせいか」
「……両方」
澪は少し照れたように視線を逸らす。
その反応だけで、九条は十分に満たされた気分になる。
午後の試験が始まる前、蓮が机に突っ伏しながら言った。
「なあ九条」
「なんだ」
「お前、白峰さんと喋るとき、顔が少し柔らかいぞ」
「そうか」
「そうだよ」
「気のせいだ」
「その返し、もう信用してない」
「勝手にしろ」
蓮は笑いながらも、少しだけ真面目な声を出した。
「でもさ」
「なんだ」
「お前、たぶん今、かなり楽しいだろ」
九条は、少しだけ黙る。
すぐには否定できなかった。
「……まあな」
小さな声だったが、蓮はそれで十分だったらしい。
「だろうな」
そう言って、満足そうに前を向いた。
午後の試験は数学だった。
計算問題、証明、グラフ。
頭を使うぶん、余計なことを考えずに済む。
問題を解き終えたときには、少しだけ肩の力が抜けていた。
放課後。
最後の試験が終わった教室は、解放感と疲労で少しだけざわついていた。
「終わったー!」
「やっとだ!」
そんな声があちこちから上がる。
蓮は思いきり机に背を預けた。
「生き返った……」
「大げさだな」
「大げさじゃない。今の俺は試験に殺されかけてた」
「それはお前の勉強不足だろ」
「反論できないのがつらい」
そんなやり取りをしていると、教室の入口に白峰澪が現れた。
「悠理」
「終わったか」
「ええ」
澪は少しだけほっとしたように頷く。
「……たぶん、大丈夫」
「たぶん、な」
「そう」
澪は短く息を吐き、それから少しだけ視線を上げた。
「今日、このあと少し時間ある?」
「ある」
「よかった」
その返事に、澪の表情がさらにやわらぐ。
「駅前のカフェに行こうと思って」
「試験終わりの息抜きか」
「ええ」
九条は頷く。
「行く」
「……うん」
その“うん”は、いつもより少しだけ嬉しそうだった。
教室を出ると、廊下には試験を終えた生徒たちの声が響いている。
夏休みを目前にした解放感が、校舎全体に満ちていた。
駅前のカフェに着くころには、夕方の熱気が少しだけ和らいでいた。
窓際の席に座ると、澪がほっとしたように肩を落とす。
「……疲れた」
「お前でもそう言うんだな」
「言うわ」
「珍しい」
「失礼ね」
澪は少しだけむくれたが、すぐに笑ってしまう。
注文した冷たい飲み物が運ばれてくる。
澪はストローに口をつけ、小さく息をついた。
「試験、長かった」
「ああ」
「でも、これで少しだけ夏祭りに集中できる」
「そんなにか」
「ええ」
「そこまで楽しみだったのか」
「……そうよ」
澪は少しだけ照れながら答えた。
「悠理と行くんだもの」
九条は、その一言に少しだけ黙る。
素朴な言葉だった。
けれど、胸の奥にまっすぐ届く。
「……そうか」
「ええ」
「なら、ちゃんと楽しみにしてる」
澪は少しだけ目を丸くしてから、小さく笑う。
「うん」
そのとき、店の入口が開いた。
聞き慣れた声が、相変わらず元気に響く。
「やっぱりここにいた!」
朝倉灯だった。
九条は、もう驚くことさえ少しだけ諦めていた。
「またお前か」
「またって何よ。失礼だなあ」
「本当に多い」
「それは運がいいってことだよ」
灯は軽く笑いながら、澪のほうを見る。
「白峰さんも一緒なんだ」
「ええ」
澪は静かに返した。
だが、その声には少しだけ警戒が混じっている。
灯はそれを察したのか、わざとらしく肩をすくめた。
「今日はちゃんと静かにするよ。試験終わったんでしょ?」
「……まあな」
「なら、ちょっとだけお祝いしようと思って」
「何を」
「試験お疲れ、ってやつ」
灯はそう言って、九条の前に小さな袋を置いた。
「はい」
「何だこれは」
「飴。コンビニで見つけた。勉強のお供」
「いらない」
「いいから」
「急に何なんだ」
「別に深い意味はないよ」
灯は笑う。
「ただ、夏祭りの前に、少しだけ元気出してほしくて」
九条は、少しだけ黙った。
その言葉に、まったく悪意がないことは分かる。
ただの気遣いだ。
昔からそういうことを自然にしてくる。
「……ありがとう」
「おっ、素直!」
「うるさい」
灯は満足そうに頷くと、澪のほうへも小袋をひとつ差し出した。
「白峰さんにも」
「……私にも?」
「もちろん。試験お疲れさま」
澪は少しだけ戸惑ったあと、ゆっくり受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
澪は袋の中を覗き、小さく目を細めた。
「……ミント味」
「そう。頭がすっきりするらしい」
「……助かるわ」
その返事は、少しだけ柔らかかった。
灯はそれを見て、どこか安心したように笑う。
「でしょ?」
九条は、テーブルの上の飴袋を見ながら少しだけ息を吐いた。
朝倉灯は、悪い人ではない。
むしろ明るくて、気配りもできる。
ただ、その明るさが今は少しだけ、澪の気持ちを揺らす。
九条は、それを分かっていた。
灯はカップを一口飲み、ふと九条を見た。
「悠理」
「なんだ」
「夏祭り、ちゃんと行くんでしょ」
「ああ」
「白峰さんと」
「そうだ」
「へえ」
灯は少しだけ目を細めた。
「……楽しそうだね」
「お前が言うな」
「何で?」
「余計なことを言うからだ」
「ひどいなあ」
灯は笑ったが、すぐに真面目な顔になる。
「でもさ」
「なんだ」
「ちゃんと約束してるなら、それは大事にしたほうがいいよ」
九条は少しだけ黙る。
澪も、静かに灯を見ていた。
「約束は、守らないとね」
灯はそう言うと、今度は立ち上がった。
「じゃ、私はこれで。もう一件寄るところあるから」
「そうか」
「またね、悠理。白峰さんも」
「ええ」
灯は軽く手を振って、店を出ていった。
扉が閉まる。
店内に静けさが戻る。
九条は、袋の中の飴を一つだけ取り出して、掌の上で転がした。
「……気にするな」
澪が小さく言う。
「何を」
「朝倉さんのこと」
「気にしてない」
「嘘」
「……少しだけだ」
澪は、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「やっぱり、少し気になるのね」
「ああ」
「……そう」
澪はそこで少しだけ間を置いた。
「でも、私は大丈夫」
「本当か」
「ええ」
澪はミント飴を見つめながら続ける。
「だって、夏祭りに行くのは私だもの」
九条はその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「そうだな」
「ええ」
店を出るころには、空はすっかり夕焼け色になっていた。
試験の疲れはある。
けれど、明日からはいよいよ夏休み。
そして、その先には夏祭りがある。
澪はカバンを持ち直しながら、少しだけ顔を上げた。
「……ねえ、悠理」
「なんだ」
「試験、終わったわね」
「ああ」
「夏祭り、もうすぐね」
「ああ」
「浴衣、楽しみにしてて」
「してる」
「……ほんとに?」
「ああ」
澪はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「なら、今日は良い日だった」
九条は、夕焼けの空を見上げる。
たしかに、今日は良い日だった。
試験が終わったこと。
澪が少しだけ安心していたこと。
そして、その先にある約束を、ふたりでちゃんと待っていること。
飴の甘さが、静かに口の中へ広がった。
夏は、もうすぐそこまで来ていた。




