第二十話 夕方の約束
期末試験まで、あと三日。
教室の空気は、昨日よりさらに張りつめていた。
誰もがノートを開き、参考書に視線を落とし、休み時間もあまり騒がない。
夏休み前の独特な緊張感が、教室全体を包んでいる。
九条悠理は机に向かいながら、窓の外に目を向けた。
空はよく晴れている。
だが、暑さが増してきたぶん、夏が近いことを否応なく感じる。
「……お前、今日はいつもより静かだな」
蓮が小声で言う。
「いつも通りだ」
「そうか?」
「そうだ」
「じゃあ、試験勉強で脳みそが死んでるだけか」
「失礼だな」
「図星だろ」
九条は返事をしなかった。
否定するほどでもない。試験は確かに近いし、夏祭りも近い。
頭の中には、覚えるべき内容と、白峰澪の浴衣という、まったく別の種類の記憶が並んでいた。
昼休み。
九条が中庭へ向かうと、木陰のベンチにはすでに白峰澪がいた。
本を開いているが、ページはあまり進んでいないように見える。
「待ったか」
「ううん。今来たところ」
いつもの返答。
だが、九条には分かる。
今日は少しだけ、澪の顔に疲れがあった。
「試験、きついか」
「少しだけ」
「少しだけ、か」
「ええ。……でも」
澪は小さく息を吐いた。
「夏祭りを楽しみにしてるから、頑張れる」
その言葉に、九条は思わず澪を見る。
澪は視線を逸らしたまま、本の端を指先で押さえていた。
言ったあとで少し恥ずかしくなったのだろう。
「……そうか」
「ええ」
「なら、俺も頑張らないとな」
「あなたはいつも頑張ってるでしょう」
「そうか?」
「そう」
澪は静かに頷いた。
しばらく二人で弁当を食べる。
風が木々の葉を揺らし、木陰の下は少しだけ涼しい。
そのとき、澪がふいに顔を上げた。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「放課後、少し時間ある?」
「あるけど」
「……浴衣のこと、少しだけ相談したいの」
九条は一瞬だけ目を瞬かせた。
「今さら?」
「今さらよ」
「学校じゃなくて?」
「学校じゃ、落ち着かないでしょう」
「まあな」
澪は少しだけ頷いた。
「だから、駅前のカフェで。試験勉強の息抜きも兼ねて」
「分かった」
即答すると、澪は少しだけ驚いたような顔をした。
「……本当にすぐ答えるのね」
「迷う理由がない」
「そう」
澪はほんの少しだけ笑う。
「じゃあ、放課後ね」
「ああ」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、二人は教室へ戻る。
午後の授業は、長いようで短かった。
放課後。
九条は机の上を片づけ、教室の入口へ視線を向ける。
そこには、約束通り白峰澪が立っていた。
今日はどこか、少しだけ普段と違う。
制服姿なのに、いつもより落ち着かない雰囲気がある。
髪に触れる回数が多い。
視線も少しだけ泳いでいる。
「……どうした」
「え」
「なんか気にしてる顔」
「……気のせいよ」
「そうか」
「そう」
澪は短く答えたが、やはり少しだけそわそわしている。
二人で校舎を出ると、夕方の熱気がまだ残っていた。
駅前のカフェへ向かう道すがら、澪が珍しく少しだけ前を歩く。
その背中を見ながら、九条は静かに考えた。
今日は、何かある。
そんな予感があった。
カフェに入ると、店内は空いていた。
窓際の席に座り、注文を済ませる。
「で、相談って何だ」
九条が聞くと、澪は少しだけ紅茶のカップを見つめた。
「……浴衣」
「ああ」
「昨日、試しに家で着物の本を見てたの。そしたら、色も柄もたくさんあって、分からなくなってしまって」
「選びきれないのか」
「ええ」
澪は少し恥ずかしそうに頷いた。
「夏祭りに着ていくなら、せっかくだからちゃんとしたいでしょう」
「それで迷ってる、と」
「そう」
九条は少し考えた。
「似合う色なら、何でもいい気がするけどな」
「それが困るの」
「何でだ」
「あなたはすぐそういうことを言うから」
澪は少しむっとしたように唇を尖らせる。
「……選ぶ側は、もっと具体的な答えがほしいの」
「具体的か」
「ええ」
九条は窓の外へ目を向けた。
夕方の光が少しずつ薄くなっている。
「じゃあ、落ち着いた色がいい」
「……落ち着いた色?」
「白峰には、静かな色が似合う気がする」
澪の指先が、カップの取っ手の上で止まった。
「静かな色、って」
「薄い青とか、白とか、淡い紫とか」
「……どうして」
「騒がしい色より、お前の雰囲気に合う」
澪は少しだけ黙った。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……ずるいわ」
「またか」
「だって、そういう言い方をされたら、反論しにくいもの」
「反論する必要あるか」
「あるの」
澪はそう言いつつも、少しだけ嬉しそうだった。
そのとき、カフェの扉が開く。
聞き慣れた声が響いた。
「おっ、やっぱりいた!」
朝倉灯だった。
九条は、思わず天井を見上げたくなる。
「……またお前か」
「またってひどいなあ。たまたま見かけたんだよ」
「たまたま多すぎる」
「運命かも」
「違う」
灯は笑いながら、澪に気づいて会釈する。
「白峰さんもいたんだ」
「ええ」
澪は丁寧に返したが、少しだけ目が細い。
灯はそんな澪の様子を見て、からかうように口元を緩めた。
「何の話してたの?」
「浴衣だ」
九条が答えると、灯は目を輝かせた。
「おお、夏祭り!」
「お前には関係ないだろ」
「あるよ。夏祭り、楽しいじゃん」
「そういうことじゃない」
「えー」
灯は椅子を引いて、勝手に近くの席に腰を下ろした。
「で、白峰さんは何色がいいの?」
澪は少しだけ迷ったあと、静かに答える。
「まだ決めてないの」
「そっか。悠理に選んでもらうんだ」
その一言に、澪がほんの少しだけ表情を固めた。
九条は、その変化を見逃さない。
「……別に、選んでもらうってほどじゃない」
「え、そうなの?」
「ええ。相談しただけ」
澪の声は平静だが、わずかに硬い。
灯はそれに気づいているのかいないのか、楽しそうに頷いた。
「へえ。じゃあ、悠理は何色が好きなの?」
「今は関係ない」
「あるよ。浴衣って、相手の好みを少し意識するものでしょ」
「意識しなくていい」
「そう?」
灯は九条と澪を交互に見たあと、ふっと笑った。
「まあでも、白峰さんなら何でも似合いそう。悠理、気に入りそうなやつ選ばないとね」
澪のカップを持つ手が、ほんの少しだけ強くなる。
九条は、ため息をついた。
「朝倉」
「なに?」
「今日は静かにしてくれ」
「えー」
「今のはわざとだろ」
「半分だけ」
「半分もあるなら十分だ」
灯は悪びれずに肩をすくめたが、澪の表情が少し曇っているのが九条には分かった。
灯は空気を読んだのか、急に真面目な顔になる。
「……ごめん、ちょっと言いすぎた?」
「別に」
澪はすぐに否定した。
だが、その返事は少しだけ遅い。
灯は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「ならいいけど。じゃあ、私はもう行くね。邪魔した」
「最初から邪魔してた」
「ひどいなあ」
灯は苦笑しながら立ち上がる。
去り際に、九条へだけ小さく手を振ったあと、澪へも軽く会釈した。
扉が閉まる。
店内はまた静かになる。
だが、さっきより少しだけ重い。
九条は澪を見る。
澪は、紅茶をひと口だけ飲んだあと、目を伏せた。
「……気にしてないわ」
「嘘だな」
「少しだけ」
「そうか」
九条は、しばらく黙ってから言った。
「朝倉は、悪気があるわけじゃない」
「分かってる」
「でも、気に障ったなら悪い」
「……あなたが謝ることじゃないでしょう」
「そうかもしれないけど」
澪は小さく首を振った。
「別に怒ってるわけじゃないの。ただ」
「ただ?」
「……少しだけ、焦るの」
「何に」
「あなたの周りに、昔からの人がいることに」
九条は静かに彼女を見る。
澪は視線を上げないまま続けた。
「私は、まだ知らないことばかりでしょう。だから、時々思うの。私は今のあなたしか知らないけど、他の人は違うのかなって」
九条は少しだけ息を止めた。
澪の声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、確かな不安があった。
「……白峰」
「なに」
「今の俺を見てるのは、お前だ」
澪の肩が、少しだけ揺れる。
「え」
「昔のことを知ってるやつはいる。けど、今、毎日のように話してるのはお前だけだ」
澪はゆっくりと顔を上げた。
九条は続ける。
「だから、焦る必要はない」
「……でも」
「今を一緒に積み上げてるのは、お前だ」
澪は黙った。
紅茶の湯気が、二人の間に静かに揺れる。
「……そうね」
やがて、澪が小さく答えた。
「今を積み上げる」
「ああ」
「忘れないようにする」
「忘れるな」
「ええ」
澪は少しだけ笑った。
だが、その笑顔には、さっきまでの曇りが少し残っている。
「……でも、やっぱり少し悔しい」
「何が」
「朝倉さんが、あんなふうに気安く話せること」
「だから、嫉妬か」
「……違うって言ってるでしょう」
即答だった。
けれど、その即答が逆に答えだ。
九条は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、嫉妬じゃないってことにしておく」
「そうして」
「でも」
「まだあるの」
「俺は、浴衣を着たお前を見たい」
澪の動きが止まった。
「……急に何」
「本当のことだ」
「そういうの、ずるい」
「知ってる」
九条があっさり言うと、澪は少しだけ顔を赤くした。
「……もう、今日はそればっかり」
「悪いか」
「悪くはないけど」
澪は視線をそらしながら、少しだけ口元をほころばせる。
「じゃあ、もっと具体的に言う」
「まだあるの」
「ああ」
「何よ」
「白峰は、薄い青か白が似合う」
澪は完全に固まった。
「……どうして」
「落ち着いて見えるから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「……」
「お前の目の色に合う」
その一言で、澪の頬が一気に赤くなる。
「……反則」
「何がだ」
「もう、言葉の選び方が、完全に」
澪は途中で言葉を切った。
恥ずかしさで、それ以上続けられないのだろう。
九条は少しだけ笑う。
「気に入らないか」
「……気に入らないわけじゃない」
「ならいい」
「でも、ちゃんと考える」
「ああ」
「あなたに見せるんだから」
九条の胸の奥が、静かに熱くなる。
“見せる”という言葉が、妙に特別だった。
カフェを出るころには、夕方の空が群青に変わり始めていた。
蒸し暑さは残っているが、風は少しだけ柔らかい。
駅前で別れる前、澪が立ち止まる。
「悠理」
「なんだ」
「さっきの、ちゃんと覚えてる?」
「どれだ」
「浴衣、見たいって」
「ああ」
「……忘れないで」
「忘れない」
「本当に?」
「ああ」
「なら、いい」
澪は少しだけ目を伏せ、それから静かに笑った。
「夏祭りの日、楽しみにしてて」
「お前こそ」
「ええ」
澪は小さく頷き、駅のほうへ向かって歩き出す。
その背中を見送りながら、九条は思う。
約束は、ただの言葉ではない。
選んだり、待ったり、少し焦ったりしながら、少しずつ形になっていく。
その途中で、誰かに揺らされることもある。
けれど、揺らされたあとに、ちゃんと戻ってこられるなら、それはまだ続いていく。
九条悠理は、夕方の風を受けながら、もう一度だけ夏祭りの日を思い浮かべた。
薄い青か、白か。
どちらにしても、白峰澪はきっと似合う。
そしてその浴衣姿を、自分はきっと忘れないだろう。
それだけは、もう確信に近かった。




