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第十九話 試験前の焦り

夏祭りまでの一週間は、驚くほど早く過ぎていった。


 その理由の半分は期末試験、もう半分は、九条悠理にとって白峰澪との時間が増えたからだった。


 授業の合間、放課後の少しだけ涼しい廊下、図書室、中庭。

 どこで会っても、澪は以前より少しだけ自然に笑うようになっていたし、九条もまた、彼女の前で無理に肩肘を張らなくなっていた。


 ただ、そのぶん試験前の空気は少しだけ重い。


 教室では、誰もがノートを開き、参考書を読み込み、休み時間になるたびに問題を確認していた。


「九条、ここどうやるんだ」


 蓮が机を叩きながら言う。


「その式、昨日もやっただろ」


「昨日は聞いた。今日は忘れた」


「最悪だな」


「助けろ」


「自力で思い出せ」


「冷たい」


 蓮はわざとらしく肩を落としたが、九条は手を止めなかった。


 こういうやり取りも、今では少しだけ日常になっている。


 そのとき、窓際から静かな声がした。


「……藤堂くん、そこはこの式で整理すると分かりやすいわ」


 澪だった。


 蓮が目を丸くする。


「白峰さん、マジで?」


「ええ」


「助かる……!」


 蓮は感激した顔でノートを差し出す。

 澪は少しだけ困ったように微笑みながら、丁寧に解き方を書き始めた。


 九条はその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。


「……何よ」


 澪がこちらに気づく。


「いや」


「いや、じゃない顔」


「褒めてる」


「どういう意味」


「ちゃんと教えられるんだなって」


 澪は少しだけ目を伏せた。


「……失礼ね。私だって人に教えるくらいはできるわ」


「そうか」


「そうよ」


 蓮は自分のノートに目を落としながら、こっそり九条の肘をつついた。


「お前、今の絶対うれしいだろ」


「何が」


「白峰さんと自然に話してる」


「普通だ」


「その普通が怪しいんだって」


 九条は返事をしなかった。


 否定しても、たぶん意味はない。


 放課後になると、九条と澪はいつものように図書室へ向かった。


 試験前の図書室は人が多い。

 だが、その分だけ静かで、机に向かう空気が心地いい。


 澪は一冊の問題集を広げ、九条は自分のノートを開いた。


「……このあたり、少し苦手なの」


 澪が小さく言う。


「どこだ」


「古典の助動詞」


「珍しいな」


「珍しくないわ。苦手なの」


「分かった」


 九条はペンを持ち、ページの端に簡単な整理を書き込む。


「こう覚えればいい」


「……分かりやすい」


「そうだろ」


「ええ」


 澪は少しだけ嬉しそうに頷いた。


 その横顔を見ながら、九条はふと思う。


 こうして机を並べて勉強する時間は、最初の頃には想像できなかった。

 今ではそれが自然で、静かで、少しだけ心が落ち着く。


 しばらくして、澪がふいに顔を上げた。


「ねえ、悠理」


「なんだ」


「試験が終わったら、少し時間ある?」


「あるけど」


「夏祭りの前に、浴衣を見に行こうと思うの」


 九条は少しだけ目を瞬かせた。


「見に行くって、ひとりでか」


「……本当は」


 澪は少し言いにくそうに視線を逸らした。


「一緒に見てもらえたら、安心するかなって」


 その言い方はかなり控えめだったが、九条には十分だった。


「いいぞ」


「……ほんとに?」


「ああ」


「迷惑じゃない?」


「迷惑なら最初から行くと言わない」


「それもそうね」


 澪は少しだけ笑った。

 だが、その笑みには、ほんの少しだけ緊張が混じっている。


「どうした」


「別に」


「別じゃない顔だな」


「……だって」


 澪は小さく息を吸う。


「浴衣って、選び方が分からないの」


「好きなの着ればいいだろ」


「そういう話じゃないわ」


「じゃあ何だ」


「……悠理に見られると思うと、少しだけ恥ずかしいの」


 九条の手が止まる。


「……何て言った」


「聞こえたでしょう」


「聞こえたけど」


 澪は本に視線を落としたまま、耳だけ赤い。


「そんなに驚くこと?」


「いや」


 九条は少しだけ言葉を探した。


「……似合うの、分かってるからだろ」


 澪が顔を上げる。


 そして、今度は本当に固まった。


「……そういうの、ずるい」


「またか」


「だって」


 澪は少しだけむっとした顔をする。


「褒め方が、ずっと不意打ちなの」


「思ったことを言っただけだ」


「それが問題なのよ」


 九条は小さく笑った。


 そのやり取りの最中、図書室の入口が少しだけ騒がしくなる。


 朝倉灯だった。


「おーい、悠理!」


 抑えめとは言えない声で、彼女は図書室に足を踏み入れる。


 司書の先生が軽く眉をひそめたのを見て、灯は慌てて口を押さえた。


「……ごめん、ごめん。静かにする」


 そう言いながらも、彼女の足取りは相変わらず軽い。


 九条は少しだけ嫌な予感がした。


「なんでここに」


「ちょっと相談」


「何の」


「夏祭り」


 澪の肩が、ほんの少しだけ動いた。


 灯はそれに気づいたのか、あえて気づかないふりをするように笑う。


「悠理、夏祭りの日、時間ある?」


「……あるけど」


「やった」


「何がだ」


「ちょっと手伝ってほしいことがあって」


「手伝う?」


「うん。地元の方で、祭りの手伝いを頼まれたの。ほら、子ども向けの案内とか」


「お前がそんなことするのか」


「するよ? 意外?」


「かなり」


 灯は不満そうに頬を膨らませる。


「ひどいなー。で、人数が足りなくて。昔から顔見知りの人間がいると助かるんだって」


「だから俺か」


「そう」


 九条は少し考えた。


「その日、予定はある」


 澪がほんのわずかに顔を上げる。


「……そうなの?」


「ああ」


 それは事実だった。

 夏祭りには澪と行く約束をしている。


 灯も、それを聞いていないわけではないだろう。

 だが、彼女は特に気にした様子もなく肩をすくめた。


「そっか。じゃあ無理か」


「……お前、わざとじゃないよな」


「え? 何が?」


「いや、何でもない」


 九条は視線を逸らした。


 灯は図書室の空気を少しだけ見回してから、澪に向き直る。


「白峰さん、夏祭り行くんでしょ」


「……ええ」


「浴衣、楽しみだね」


 澪の指先が、本の端をわずかに押さえる。


「……そうね」


「悠理と一緒に?」


「……ええ」


 声は静かだったが、少し硬い。


 灯はにこっと笑った。


「そっか。じゃあ邪魔しないようにする」


「別に、邪魔とかではない」


 九条が言うと、灯はからかうように首をかしげる。


「ほんとに?」


「本当だ」


「じゃあ、試験終わったらまた話そう」


「その前に図書室では静かにしろ」


「はーい」


 灯は軽く手を振って、あっさりと去っていった。


 扉が閉まると、図書室の静けさが戻る。


 だが、その静けさはさっきより少しだけ重かった。


 澪は本に目を落としたまま、しばらく何も言わない。


「……白峰」


「なに」


「気にしてるのか」


「別に」


 即答だった。


 だが、九条はもうその返事を簡単には信じない。


「嘘だな」


「……少しだけ」


「何が」


「朝倉さん、楽しそうだったから」


 澪は本を閉じた。


「それに、あなたも昔からの知り合いに呼ばれたら、普通に行きそうだったでしょう」


「行かない」


「ほんとに?」


「ああ」


「……どうして」


 九条は少しだけ間を置いた。


「約束があるから」


 澪が顔を上げる。


 九条は続ける。


「夏祭りは、お前と行く」


 その一言で、澪の表情が目に見えてやわらぐ。


「……そう」


「だから、他の予定は入れない」


「……うん」


 澪は短く答えたが、その声にはほっとした気配があった。


 九条はその横顔を見て、少しだけ安心する。


「朝倉は、ただの昔の知り合いだ」


「分かってる」


「だから、そんなに気にするな」


「……気にしてないわ」


「気にしてるだろ」


「少しだけ」


 澪は少しむくれたように言う。


「だって、あなたが“行かない”ってすぐに言うから」


「悪いか」


「……悪くない」


 その返事は、かなり小さかった。


 図書室の窓から、夕方の光が差し込む。

 机の上のページが白く照らされ、澪の髪にも柔らかな光が落ちた。


 九条は、静かに言う。


「試験が終わったら、浴衣を見に行く」


「うん」


「夏祭りにも行く」


「うん」


「約束だからな」


「……うん」


 澪は少しだけ息を吸い、そして、ほんの小さく笑った。


「嬉しい」


 たった一言だった。

 けれど、その言葉で九条の胸は十分だった。


「そうか」


「ええ」


「なら、試験も頑張れるな」


「それはまた別」


「ひどい」


「でも」


 澪は本を開き直しながら、少しだけ視線を上げる。


「悠理が一緒なら、頑張れそう」


 九条はそれ以上何も言えなくなった。


 試験前の焦りは、消えたわけではない。

 夏祭りの準備も、浴衣選びも、まだこれからだ。


 けれど、隣にいる相手がいるだけで、少しだけ前へ進める。


 それが、今の九条悠理には何より大きかった。


 図書室の静けさの中で、ページをめくる音だけがやわらかく響いていた。

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