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第十八話 約束の準備

 夏祭りまで、あと一週間。


 学校では期末試験が近づき、教室には少しだけ張り詰めた空気が流れていた。


 黒板には試験範囲が書かれ、生徒たちは休み時間になるたびにノートを開いている。


 九条悠理も例外ではなかった。


 机に教科書を広げ、重要な箇所へ目を通していると、藤堂蓮が後ろから声をかける。


「九条、お前勉強できるよな」


「普通だ」


「普通って言うやつに限って点数高いんだよ」


「期待するな」


「じゃあ放課後、少し教えてくれ」


「いいぞ」


「助かる」


 蓮は満足そうに笑って自分の席へ戻っていった。


 その様子を見ていた白峰澪が、小さく笑う。


「あなたって、頼まれると断らないわね」


「断る理由がない」


「優しいのね」


「普通だ」


「その普通が、あなたらしいわ」


 澪は穏やかに微笑んだ。


 その笑顔を見ると、九条も自然と肩の力が抜ける。


 昼休み。


 今日は中庭の日だった。


 木陰のベンチには心地よい風が吹き、昨日までの蒸し暑さが少し和らいでいる。


「ここ、気持ちいいわね」


「今日は風があるからな」


「夏って、暑いだけじゃないのね」


「場所による」


「そうね」


 二人は弁当を食べながら、ゆっくりと言葉を交わす。


 しばらくして、澪が少しだけためらうように口を開いた。


「……悠理」


「なんだ」


「夏祭りなんだけど」


「ああ」


「浴衣、着ようと思うの」


「そうか」


「変じゃない?」


「全然」


 九条は迷わず答えた。


「似合うと思う」


 澪は一瞬だけ固まり、頬を赤くした。


「……また」


「何が」


「そういうことを普通に言う」


「思ったことを言っただけだ」


「だから困るの」


 そう言いながらも、澪は少し嬉しそうだった。


「ありがとう」


「礼を言われることか」


「言いたかったの」


 九条は静かに頷いた。


 午後の授業が終わる。


 放課後になると、約束通り蓮へ勉強を教えることになった。


「ここは公式を覚えるより、考え方を理解したほうがいい」


「なるほど」


「この問題は途中式を書け」


「九条、お前説明うまいな」


「そうか?」


「先生より分かりやすい」


「それは言い過ぎだ」


 二人が話していると、教室の入口から澪が静かに近づいてきた。


「終わりそう?」


「ああ、もう少し」


「待っててもいい?」


「もちろん」


 澪は近くの席へ座り、本を読み始めた。


 その姿を見た蓮が、小さな声で九条へ囁く。


「待ってくれてるぞ」


「だから何だ」


「鈍いなお前」


「勉強しろ」


「はいはい」


 三十分ほどで勉強会は終わった。


「助かった。また頼む」


「時間が合えばな」


「ありがとう」


 蓮は笑顔で帰っていった。


 教室には九条と澪だけが残る。


「待たせた」


「ううん。本を読んでたから」


「退屈じゃなかったか」


「全然」


 澪は本を閉じる。


「むしろ、少し新鮮だった」


「何が」


「あなたが誰かに勉強を教えてるところ」


「変だったか」


「ううん」


 澪は優しく首を振った。


「すごく自然だった」


「そうか」


「きっと、面倒見がいいのね」


「そんなことない」


「あるわ」


 澪は少し笑う。


「だからみんな、あなたに話しかけるんだと思う」


 九条は返事に困った。


 そんなことを考えたことはなかったからだ。


 校舎を出ると、夕日が街を橙色に染め始めていた。


 二人はゆっくり歩く。


「試験、終わったら夏祭りね」


「ああ」


「楽しみ?」


「楽しみだ」


 今度は迷わず答えた。


 澪は嬉しそうに笑う。


「私も」


 少し歩いたところで、小さな雑貨店の前を通る。


 店先には色とりどりの風鈴が吊るされていた。


 風が吹く。


 ――チリン。


 澄んだ音が静かな夕方へ溶けていく。


「きれい」


 澪は立ち止まり、風鈴を見上げた。


「好きなのか」


「ええ」


「音が落ち着くの」


 九条も隣へ立つ。


 また風が吹く。


 幾つもの風鈴が重なり合い、涼しげな音色を奏でた。


「夏って感じがする」


 澪が静かに言う。


「ああ」


「来年も聞けたらいいな」


「聞けるだろ」


「……そうね」


 その返事は、どこか嬉しそうだった。


 二人は再び歩き始める。


 夕焼けが少しずつ濃くなる。


 駅前へ着くと、澪が急に立ち止まった。


「悠理」


「なんだ」


「ひとつ約束してもいい?」


「内容による」


「ふふっ」


 澪は珍しく声を出して笑った。


「そんな難しいことじゃないわ」


「じゃあ何だ」


「夏祭りの日」


「ああ」


「途中ではぐれても、ちゃんと迎えに来て」


 九条は少しだけ驚いた。


「迷子になるのか」


「ならないと思うけど」


「思うけど?」


「人、多いでしょう?」


「そうだな」


「だから」


 澪は少しだけ照れながら言った。


「もし離れても、探してほしい」


 九条は静かに頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「ああ」


「絶対?」


「絶対だ」


 その一言で、澪は安心したように微笑んだ。


「ありがとう」


「約束だからな」


「うん」


 夕日を背に、二人は駅前で別れる。


 家へ帰る途中、九条は空を見上げた。


 夏祭り。


 浴衣。


 風鈴。


 そして約束。


 少し前まで、こんな未来を想像したことはなかった。


 誰かとの約束を楽しみにして、一週間先を待ち遠しく思う。


 そんな日常が、自分にも訪れるとは思っていなかった。


 一方その頃。


 帰宅した澪は、自室の机の引き出しから一冊の小さな手帳を取り出していた。


 そこには、誰にも見せたことのない日記がある。


 今日の日付を書き、静かにペンを動かした。


 ――夏祭りまであと一週間。


 ――悠理は「楽しみだ」と言ってくれた。


 ――それだけで、今日は一日幸せだった。


 最後の一文を書き終えると、澪はそっと手帳を閉じる。


 窓の外では、夕暮れの風が風鈴を揺らしていた。


 その澄んだ音は、これから始まる夏が、きっと特別な季節になることを静かに知らせているようだった。

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