第十七話 夏の匂い
雨の翌朝は、空気が少しだけ軽かった。
校舎の窓から見える空は、昨日までの重たい灰色ではなく、薄く澄んだ青をしている。湿った風の中に、夏の匂いが混じり始めていた。
九条悠理は、いつものように教室へ入ると、窓際の席に目を向けた。
白峰澪は、もう座っていた。
姿勢よくノートを開き、何事もなかったように朝の時間を過ごしている。
けれど、九条には分かる。
昨日の雨宿りのあと、彼女の空気は少しだけ変わっていた。完全に警戒を解いたわけではない。だが、前よりもほんの少しだけ、こちらに近い。
「おはよう」
九条が声をかけると、澪は顔を上げた。
「おはよう、悠理」
呼び方はもう自然になりつつある。
それだけで、朝の空気が少し柔らかくなる気がした。
「昨日は、結局あまり濡れなかったな」
「ええ。渡り廊下、助かったわ」
「知っててよかっただろ」
「本当ね。あなた、ああいう場所をよく知ってるのね」
「適当に歩いてるだけだ」
「そういうところ、少し信用できないわ」
「ひどいな」
澪は小さく笑った。
その笑い声は、雨の翌日らしく静かだった。
朝のHRが始まり、授業が進む。
しかし、九条の頭の片隅には、昨日の会話がまだ残っていた。
今の私は今の私でいい。
その言葉は、澪自身が自分に言い聞かせるようでもあったし、九条に向けた確認でもあった。
昼休み。
九条は弁当を食べながら、中庭へ向かおうか迷っていた。
そこへ蓮がひょいと顔を寄せる。
「今日はどうする」
「何が」
「白峰さん」
「……別に」
「またまた」
「うるさい」
蓮は面白そうに笑うと、窓の外をちらりと見た。
「まあ、今日は教室の中でもいいんじゃないの」
「なんでだ」
「だって、なんか外、暑いし」
言われてみれば、朝よりかなり日差しが強くなっている。梅雨の晴れ間とはいえ、もう夏がすぐそこまで来ていた。
「……分かった」
昼休みが終わる少し前、澪が九条の席にやってきた。
「少し、いい?」
「ああ」
「外、暑いわね」
「そうだな」
「だから今日は、図書室に行こうと思うの」
「図書室?」
「ええ。少し涼しいし、静かでしょう」
「確かに」
「一緒に来る?」
九条は少しだけ目を瞬かせた。
図書室へ誘うこと自体は珍しくない。だが、今日は少しだけ違う響きがあった。
澪は、何でもないように言ったつもりかもしれない。
けれど、九条には分かる。
これは、昨日の雨宿りの続きだ。
「行く」
「そう」
澪は小さく頷いた。
図書室は涼しかった。
窓から差し込む光はやわらかく、空気には紙と木の匂いが混じっている。
澪は本棚の前で立ち止まり、少しだけ考え込むように指先をあてた。
「今日は、何を読むの」
「まだ決めてない」
「珍しいな」
「そう?」
「ああ。いつもは読む本を決めてる顔してる」
「そんな顔してるかしら」
「してる」
「……あなた、よく人の顔を見てるわね」
「見てるつもりはない」
「つもりじゃなくて、見てるの」
澪は少しだけむっとしたように言ったが、表情はやわらかい。
そして、棚から一冊の本を抜き出した。
「これにする」
「どういうのだ」
「夏の始まりの話」
「……季節に合わせたのか」
「たまたまよ」
「たまたま、ね」
「そう」
図書室の窓際、二人は並んで座った。
しばらくはページをめくる音だけが響く。
だが、静かであることに、もう気まずさはない。
九条はふと視線を上げ、澪を見る。
彼女は本を読んでいるとき、ほんの少しだけ眉が下がる。集中している証拠なのだろう。そんな細かな表情の変化も、最近では自然に目に入るようになっていた。
やがて、澪が顔を上げる。
「……ねえ、悠理」
「なんだ」
「夏祭りの案内、見た?」
「案内?」
「教室の掲示板に貼ってあったでしょう」
「……ああ」
「行くの?」
九条は少し考えた。
「別に、予定はない」
「そう」
澪は本を閉じる。
「なら、もしよければ……一緒に行かない?」
九条は少しだけ息を止めた。
「夏祭り?」
「ええ。クラスの友達から誘われたの。でも、ひとりで行くのも、少しだけ違うかなって」
それは、かなり珍しい誘い方だった。
自信のあるような、ないような。遠回しなのに、断られたくない気持ちが伝わる。
「いいぞ」
「……ほんと?」
「ああ」
澪の表情が、ぱっと明るくなる。
「よかった」
「そんなに不安だったのか」
「少しだけ」
「少しじゃなさそうだが」
「……少しよ」
澪は視線を逸らしたが、耳がほんの少し赤い。
九条は、その反応に少しだけ笑った。
「お前、夏祭り好きなのか」
「嫌いじゃないわ。浴衣とか、屋台とか、雰囲気がいいでしょう」
「白峰が浴衣か」
「……何、その反応」
「いや」
九条は少しだけ言葉を探した。
「似合いそうだと思って」
澪の手が止まる。
次の瞬間、彼女は本を持ったまま固まった。
「……急にそういうこと言うの、反則」
「何が」
「何でもない」
澪は小さく顔を背ける。
その頬に、ほんのり赤みが差していた。
九条は、それを見て妙に胸が温かくなる。
図書室を出るころには、昼休みは終わりかけていた。
廊下に出ると、夏の光がまぶしい。
澪が立ち止まって、少しだけ空を見上げる。
「……本当に、夏が来るのね」
「そうだな」
「少しだけ、楽しみかも」
「夏祭りのせいか」
「ええ」
「浴衣のせいか」
「……それは、秘密」
澪はそう言って、ほんの少しだけ笑った。
放課後。
今日も二人は、いつものように校舎を出た。
けれど、今までと少し違うのは、会話の端々に“夏”が混ざることだった。
夏祭りの話。
屋台の話。
浴衣の話。
そして、誰と行くかという、少しだけ特別な話。
「悠理」
「なんだ」
「夏祭り、楽しみ?」
「まあな」
「……ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、よかった」
澪は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、九条は思う。
雨の日の沈黙も、嫉妬も、少し気まずい気配も、全部がここまでの道だったのだと。
そして今、二人の前には夏がある。
まだ始まったばかりの季節。
けれど、その入口に立っているだけで、もう少しだけ先を見たくなる。
駅前で別れる前、澪が小さく言った。
「……夏、たくさん話せそうね」
「ああ」
「なら、浴衣も頑張る」
「頑張る、って何だ」
「似合うように」
九条は少しだけ笑った。
「頑張らなくても似合うと思うけど」
澪は一瞬固まってから、少しだけ目を伏せる。
「……今日、そういうの多いわね」
「何が」
「急に、照れること」
「普通だろ」
「普通じゃない」
澪はそう言いながらも、嫌そうではなかった。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
澪は一歩下がり、少しだけ振り返る。
「悠理」
「なんだ」
「夏祭り、一緒に行けるの、嬉しい」
その言葉は、夕方の風にとけるくらい静かだった。
けれど、九条にははっきり届いた。
「……俺もだ」
澪は、その返事を聞いて、少しだけ嬉しそうに笑った。
夏の匂いが、確かに強くなっていた。
それは、季節の変化だけではない。
二人の距離が、また少しだけ変わり始めた合図でもあった。




