表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/32

第十七話 夏の匂い

 雨の翌朝は、空気が少しだけ軽かった。


 校舎の窓から見える空は、昨日までの重たい灰色ではなく、薄く澄んだ青をしている。湿った風の中に、夏の匂いが混じり始めていた。


 九条悠理は、いつものように教室へ入ると、窓際の席に目を向けた。


 白峰澪は、もう座っていた。


 姿勢よくノートを開き、何事もなかったように朝の時間を過ごしている。


 けれど、九条には分かる。


 昨日の雨宿りのあと、彼女の空気は少しだけ変わっていた。完全に警戒を解いたわけではない。だが、前よりもほんの少しだけ、こちらに近い。


「おはよう」


 九条が声をかけると、澪は顔を上げた。


「おはよう、悠理」


 呼び方はもう自然になりつつある。


 それだけで、朝の空気が少し柔らかくなる気がした。


「昨日は、結局あまり濡れなかったな」


「ええ。渡り廊下、助かったわ」


「知っててよかっただろ」


「本当ね。あなた、ああいう場所をよく知ってるのね」


「適当に歩いてるだけだ」


「そういうところ、少し信用できないわ」


「ひどいな」


 澪は小さく笑った。


 その笑い声は、雨の翌日らしく静かだった。


 朝のHRが始まり、授業が進む。


 しかし、九条の頭の片隅には、昨日の会話がまだ残っていた。


 今の私は今の私でいい。


 その言葉は、澪自身が自分に言い聞かせるようでもあったし、九条に向けた確認でもあった。


 昼休み。


 九条は弁当を食べながら、中庭へ向かおうか迷っていた。


 そこへ蓮がひょいと顔を寄せる。


「今日はどうする」


「何が」


「白峰さん」


「……別に」


「またまた」


「うるさい」


 蓮は面白そうに笑うと、窓の外をちらりと見た。


「まあ、今日は教室の中でもいいんじゃないの」


「なんでだ」


「だって、なんか外、暑いし」


 言われてみれば、朝よりかなり日差しが強くなっている。梅雨の晴れ間とはいえ、もう夏がすぐそこまで来ていた。


「……分かった」


 昼休みが終わる少し前、澪が九条の席にやってきた。


「少し、いい?」


「ああ」


「外、暑いわね」


「そうだな」


「だから今日は、図書室に行こうと思うの」


「図書室?」


「ええ。少し涼しいし、静かでしょう」


「確かに」


「一緒に来る?」


 九条は少しだけ目を瞬かせた。


 図書室へ誘うこと自体は珍しくない。だが、今日は少しだけ違う響きがあった。


 澪は、何でもないように言ったつもりかもしれない。


 けれど、九条には分かる。


 これは、昨日の雨宿りの続きだ。


「行く」


「そう」


 澪は小さく頷いた。


 図書室は涼しかった。


 窓から差し込む光はやわらかく、空気には紙と木の匂いが混じっている。


 澪は本棚の前で立ち止まり、少しだけ考え込むように指先をあてた。


「今日は、何を読むの」


「まだ決めてない」


「珍しいな」


「そう?」


「ああ。いつもは読む本を決めてる顔してる」


「そんな顔してるかしら」


「してる」


「……あなた、よく人の顔を見てるわね」


「見てるつもりはない」


「つもりじゃなくて、見てるの」


 澪は少しだけむっとしたように言ったが、表情はやわらかい。


 そして、棚から一冊の本を抜き出した。


「これにする」


「どういうのだ」


「夏の始まりの話」


「……季節に合わせたのか」


「たまたまよ」


「たまたま、ね」


「そう」


 図書室の窓際、二人は並んで座った。


 しばらくはページをめくる音だけが響く。


 だが、静かであることに、もう気まずさはない。


 九条はふと視線を上げ、澪を見る。


 彼女は本を読んでいるとき、ほんの少しだけ眉が下がる。集中している証拠なのだろう。そんな細かな表情の変化も、最近では自然に目に入るようになっていた。


 やがて、澪が顔を上げる。


「……ねえ、悠理」


「なんだ」


「夏祭りの案内、見た?」


「案内?」


「教室の掲示板に貼ってあったでしょう」


「……ああ」


「行くの?」


 九条は少し考えた。


「別に、予定はない」


「そう」


 澪は本を閉じる。


「なら、もしよければ……一緒に行かない?」


 九条は少しだけ息を止めた。


「夏祭り?」


「ええ。クラスの友達から誘われたの。でも、ひとりで行くのも、少しだけ違うかなって」


 それは、かなり珍しい誘い方だった。


 自信のあるような、ないような。遠回しなのに、断られたくない気持ちが伝わる。


「いいぞ」


「……ほんと?」


「ああ」


 澪の表情が、ぱっと明るくなる。


「よかった」


「そんなに不安だったのか」


「少しだけ」


「少しじゃなさそうだが」


「……少しよ」


 澪は視線を逸らしたが、耳がほんの少し赤い。


 九条は、その反応に少しだけ笑った。


「お前、夏祭り好きなのか」


「嫌いじゃないわ。浴衣とか、屋台とか、雰囲気がいいでしょう」


「白峰が浴衣か」


「……何、その反応」


「いや」


 九条は少しだけ言葉を探した。


「似合いそうだと思って」


 澪の手が止まる。


 次の瞬間、彼女は本を持ったまま固まった。


「……急にそういうこと言うの、反則」


「何が」


「何でもない」


 澪は小さく顔を背ける。


 その頬に、ほんのり赤みが差していた。


 九条は、それを見て妙に胸が温かくなる。


 図書室を出るころには、昼休みは終わりかけていた。


 廊下に出ると、夏の光がまぶしい。


 澪が立ち止まって、少しだけ空を見上げる。


「……本当に、夏が来るのね」


「そうだな」


「少しだけ、楽しみかも」


「夏祭りのせいか」


「ええ」


「浴衣のせいか」


「……それは、秘密」


 澪はそう言って、ほんの少しだけ笑った。


 放課後。


 今日も二人は、いつものように校舎を出た。


 けれど、今までと少し違うのは、会話の端々に“夏”が混ざることだった。


 夏祭りの話。


 屋台の話。


 浴衣の話。


 そして、誰と行くかという、少しだけ特別な話。


「悠理」


「なんだ」


「夏祭り、楽しみ?」


「まあな」


「……ほんと?」


「ああ」


「じゃあ、よかった」


 澪は嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見て、九条は思う。


 雨の日の沈黙も、嫉妬も、少し気まずい気配も、全部がここまでの道だったのだと。


 そして今、二人の前には夏がある。


 まだ始まったばかりの季節。


 けれど、その入口に立っているだけで、もう少しだけ先を見たくなる。


 駅前で別れる前、澪が小さく言った。


「……夏、たくさん話せそうね」


「ああ」


「なら、浴衣も頑張る」


「頑張る、って何だ」


「似合うように」


 九条は少しだけ笑った。


「頑張らなくても似合うと思うけど」


 澪は一瞬固まってから、少しだけ目を伏せる。


「……今日、そういうの多いわね」


「何が」


「急に、照れること」


「普通だろ」


「普通じゃない」


 澪はそう言いながらも、嫌そうではなかった。


「じゃあ、また明日」


「ああ。また明日」


 澪は一歩下がり、少しだけ振り返る。


「悠理」


「なんだ」


「夏祭り、一緒に行けるの、嬉しい」


 その言葉は、夕方の風にとけるくらい静かだった。


 けれど、九条にははっきり届いた。


「……俺もだ」


 澪は、その返事を聞いて、少しだけ嬉しそうに笑った。


 夏の匂いが、確かに強くなっていた。


 それは、季節の変化だけではない。


 二人の距離が、また少しだけ変わり始めた合図でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ