第十六話 放課後の雨宿り
その日の放課後は、朝から少しだけ空気が重かった。
雲は薄い灰色で、夕方には降るかもしれないと天気予報が言っていた。夏の入口に差しかかる六月の空は、晴れているようでいて、どこか油断ならない。
九条悠理は、教室の窓の外を見上げながら荷物をまとめていた。
「今日は降るらしいぞ」
藤堂蓮が弁当箱を片づけながら言う。
「知ってる」
「知ってる顔じゃないだろ」
「どういう顔だ」
「白峰さんと帰るのを当然みたいにしてる顔」
「してない」
「してる」
九条はため息をついた。最近の蓮は、からかい方が少しだけ的確になってきている気がする。
「まあいいけどさ」
蓮は肩をすくめた。
「この前よりは、お前も分かりやすくなった」
「何が」
「楽しそうだってこと」
九条は何も返さなかった。
そう言われて否定できないあたり、自分でも少し認めているのだろう。
教室の入口を見ると、白峰澪がちょうどこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一秒もない短い視線。
けれど、それだけで九条は気づく。
澪も、今日の空の色を気にしている。
放課後。
二人はいつものように校舎を出た。
だが、昇降口を抜けたところで、ぽつり、と一粒だけ雨が落ちてきた。
「……降ったな」
九条が言う。
「ええ」
「思ったより早い」
「予報、当たったわね」
「珍しい」
「失礼ね」
澪は少しだけ唇を尖らせるが、すぐに空を見上げた。
もう一粒、二粒。
数秒もしないうちに、雨脚はじわじわと強くなる。
「どうする?」
九条が尋ねると、澪は少し考えてから答えた。
「……少しだけ雨宿りしていきましょうか」
「どこで」
「校舎のひさしの下でもいいけど」
「それだけじゃ足りなさそうだな」
九条は視線を巡らせた。
校門の横に、小さな渡り廊下がある。普段はあまり人が使わない、体育館の裏へ続く細い通路だ。
「そこに行くか」
澪が目を瞬かせる。
「そんな場所、あったの?」
「ある」
「あなた、やたら学校に詳しいわね」
「適当に歩いてるだけだ」
「本当かしら」
澪はそう言いながらも、すぐに九条の後をついてきた。
渡り廊下の下は、意外なほど静かだった。
外の雨音だけが、屋根を叩く音として響いている。風は少しだけ入るが、立っているには十分だった。
九条が壁際に寄ると、澪も少し離れて並ぶ。
「ここ、落ち着く」
「だろ」
「ええ」
雨はどんどん強くなっていく。
校庭の向こう側が白く霞むほどだ。遠くで部活帰りの生徒たちが走っていくのが見える。
「傘、あるんだよな」
「あるわ。ちゃんと持ってきた」
「偉い」
「子ども扱いしないで」
「してない」
「してるわ」
澪は少しだけ眉を寄せるが、その表情もどこかやわらかい。
九条はふと、彼女が少しだけ落ち着かない様子なのに気づいた。
「……何かあったか」
「え?」
「今日、ちょっと考えごとしてる顔してる」
「見てたの」
「見てた」
「またそうやって、自然に言うのね」
「何が」
「……なんでもない」
澪は視線を逸らした。
雨音が少し強くなる。
九条は、その沈黙の向こうにあるものを感じ取る。
きっと、何かを気にしているのだろう。朝倉灯のことなのか、教室での視線なのか、それとも別のことなのか。だが、澪は自分からすべてを話すタイプではない。話せるところまでで十分だ。
「白峰」
「なに」
「無理してるなら言え」
澪がこちらを見た。
「……急にどうしたの」
「急じゃない」
「そう?」
「ああ」
九条がそう答えると、澪は少しだけ苦笑した。
「……少しだけ」
「何が」
「昨日から、考えてたの」
「何を」
「朝倉さんのこと」
九条は少し黙った。
「気にしてたのか」
「少しだけ」
「そうか」
澪は、雨の向こうを見たまま続ける。
「別に、嫌いとかじゃないの。ただ、昔からの知り合いって聞くと、どうしても距離を感じてしまって」
「距離?」
「ええ」
澪は小さく息をついた。
「私は、まだあなたのことを知り始めたばかりでしょう。あの人は、昔のあなたを知っていて、しかも気楽に話せる。そういうのを見ると、少しだけ置いていかれた気がするの」
九条は何も言えなかった。
雨の音が、やけに大きい。
「……白峰」
「なに」
「置いていってない」
澪がこちらを見る。
「何?」
「少なくとも、俺は今を見てる」
澪の目が少しだけ揺れた。
「今?」
「ああ。昔の話じゃなくて、今の白峰を見てる」
「……」
「だから、比較する必要はない」
澪はしばらく黙っていた。
風が渡り廊下の隙間を抜ける。制服の裾が少し揺れる。
「……そう、ね」
澪は静かに答えた。
「でも、やっぱり少し気になるの」
「何が」
「朝倉さんが、あなたのことを知っていること」
「……それは、まあ」
「うらやましい、とは少し違うけど」
澪は言いにくそうに目を伏せた。
「昔を知っている相手にしか見せられない顔って、あるでしょう」
九条は、少しだけ目を見開いた。
「今の私は、まだそこまでいけてない気がするの」
その言葉は、小さいのにまっすぐだった。
九条はすぐには返せない。
澪は、そう感じているのだろう。過去を共有しているわけでもない、まだ日が浅い自分は、朝倉灯のような“昔を知る側”にはなれない。そういう距離感に、少しだけ寂しさを覚えている。
九条はしばらく考えたあと、静かに言った。
「じゃあ、今から知ればいい」
澪が顔を上げる。
「……え」
「昔を知らないなら、今のことを覚えていけばいいだろ」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない」
九条は首を振る。
「でも、時間がかかるだけだ」
澪はじっと彼を見つめていた。
「……あなた、こういうときだけ妙に真っ直ぐなのね」
「そうか」
「ええ」
「褒めてるのか」
「たぶん」
澪は少しだけ笑った。
雨の音の中で、その笑顔は静かにほどける。
「……分かったわ」
「何が」
「今のことを、ちゃんと積み重ねる」
「そうだな」
「うん」
澪はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
そのまま何も言わない。
けれど、さっきより空気が軽くなったのが九条には分かった。
それでも、まだどこか気になるものは残っているようだった。
「……白峰」
「なに」
「朝倉のこと、気にしすぎるな」
「……そう言うってことは、あなたも気にしてるんじゃない」
「まあな」
九条は素直に認める。
「でも、それとこれとは別だ」
「何が」
「お前が不安になることとは別だ」
澪は少しだけ目を伏せた。
「……ずるい」
「またか」
「だって、そういうことを、普通に言うから」
「普通だろ」
「普通じゃないわ」
澪はそう言いながら、ほんの少し口元を緩めた。
雨はまだ止まない。
だが、二人の間には静かな安心が戻っていた。
そのとき、渡り廊下の向こう側から足音が近づいてきた。
九条が振り向くと、傘をさした朝倉灯がいた。
「あれ、やっぱりいた」
「……お前、本当にタイミングがいいな」
「そう? 悪かった?」
「少し」
灯は笑いながら近づいてきたが、澪の存在に気づくと、少しだけ足を止めた。
「白峰さんも一緒なんだ」
「ええ」
澪は丁寧に返す。だが、その声音にはわずかな硬さがある。
灯はその空気を読んだのか、少しだけ笑みを引っ込めた。
「……雨、すごいね」
「そうだな」
「もう少ししたら弱くなるかな」
「どうだろうな」
三人の間に、微妙な沈黙が落ちる。
九条はそれをどうにかしたくて、灯に言った。
「何しに来た」
「え、ひどい。普通に帰る途中だよ」
「わざわざここを通るのか」
「通るよ。だって、ここ近道だし」
「知らなかったのか」
「知ってるけど、今日はたまたま」
九条はため息をつく。
灯はいつも通り明るい。だが、その明るさが今は少しだけ場をかき回す。
澪が灯を見ているのを、九条は気づいていた。
灯もまた、澪を見ていた。
そして、その視線は、さっきまでよりも少しだけ和らいでいるように思えた。
「あのさ」
灯が口を開く。
「白峰さん、さっき図書室で少しだけ堅かったけど、今はちょっと落ち着いて見えるね」
「……そう」
「うん。たぶん、悠理といるからかな」
九条は顔をしかめる。
「余計なことを言うな」
「余計じゃないって」
灯は笑ったあと、澪に向き直った。
「白峰さん、悠理ってたぶん、昔からあんな感じだよ」
「……どういう意味ですか」
「変に派手じゃないけど、ちゃんと見てるし、ちゃんと覚えてる。だから、気にしすぎなくていいと思う」
澪は少しだけ黙った。
その返答に、九条は少し驚く。
灯が、珍しく真面目な顔をしている。
「それに、昔を知ってるのが偉いわけじゃないし」
灯は軽く肩をすくめた。
「今、一緒にいる相手のほうが大事だよ」
九条は、その言葉に少しだけ息を止めた。
澪も、目を瞬かせている。
「……朝倉さん」
澪が小さく呼ぶ。
「なに?」
「……ありがとうございます」
灯は一瞬だけきょとんとして、それからぱっと笑った。
「どういたしまして!」
そのあっさりした返しに、澪も少しだけ困ったように笑う。
空気が、ほんの少しやわらぐ。
灯はそれを見て満足したように頷いた。
「じゃ、私は行くね。雨、ひどいし」
「ああ」
「またね、悠理」
「またな」
「白峰さんも」
「ええ」
灯は傘を少しだけ持ち上げ、軽く手を振って去っていった。
その背中が見えなくなると、渡り廊下には再び二人だけが残る。
しばらく沈黙。
やがて、澪が小さく言った。
「……少しだけ、分かった気がする」
「何が」
「朝倉さんが、あなたにとって“昔”なんだってこと」
「まあな」
「でも」
澪は雨の向こうを見たまま続ける。
「私は、今のあなたと一緒にいる」
九条はゆっくりと彼女を見る。
澪は、少しだけ頬を赤くしていた。
「……だから、今の私は今の私でいい、って思うことにする」
その言葉に、九条は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
「そうだな」
「うん」
雨は、まだ少しだけ続いている。
けれど、さっきまでの重さはない。
渡り廊下の静かな空間で、二人は並んで立ったまま、少しずつ同じ方向を見始めていた。
過去を知る人。
今を知る人。
そのどちらも大切だ。
けれど、今の自分にとって一番近いのは、白峰澪だ。
「……雨、弱くなったな」
九条が言う。
「ええ」
「そろそろ行けるか」
「うん」
澪は傘を持ち直した。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「さっきの、覚えてる?」
「どれだ」
「今の私は今の私でいい、って」
「ああ」
「……忘れないでね」
九条は少しだけ笑った。
「忘れない」
「本当に?」
「ああ」
「ならいい」
澪はそう言って、少しだけ安心したように息をつく。
二人は雨の中へ出た。
傘の上に落ちる雨音は、さっきより静かだ。
校門へ向かう道を歩きながら、澪がふと口を開く。
「今日、少しだけ嫉妬した」
「まだ引きずってるのか」
「違うわ」
「じゃあ何だ」
「……朝倉さんが、あなたに昔の話を気軽にできるのが、少しうらやましかっただけ」
「それ、嫉妬じゃないのか」
「違うって言ったでしょう」
澪は少しだけむっとした顔をしたが、その声は柔らかかった。
「でも、今はもう大丈夫」
「そうか」
「ええ」
澪は少しだけ歩幅を合わせる。
「今は、今の時間があるから」
九条は、その言葉に何も返さず、ただ静かに頷いた。
雨の日の放課後は、少しだけ特別になる。
それは、ただ雨宿りをしたからではない。
言えなかったことを少しだけ言えたからだ。
澪が、自分の中の不安をひとつ言葉にしたからだ。
そしてそれを、九条がちゃんと受け止めたからだ。
校門が見えてくる。
傘の向こうで、澪がそっと言う。
「……悠理」
「なんだ」
「今日は、少しだけ安心した」
「そうか」
「ええ」
「なら、よかった」
澪は小さく笑った。
雨の中でも、その笑顔はよく見えた。
放課後の雨宿りは、短い。
けれど、そこで交わした小さな言葉たちは、きっと長く残る。
九条悠理はそう思いながら、白峰澪と並んで歩いた。
その時間はもう、ただの雨宿りではなかった。




