第十五話 初めての嫉妬
放課後の空は、夏の気配をいっそう強くしていた。
図書室を出た九条悠理は、白峰澪と並んで校舎を出る。昼の喧騒が少しだけ残る校庭を横切ると、風が生ぬるく頬を撫でた。
「今日は、どこを歩くの」
澪が聞く。
「決めてない」
「珍しいわね」
「お前が“少し歩きたい”って言ったんだろ」
「そうだったかしら」
「忘れたのか」
「少し」
澪は小さく笑った。
その笑い方は、最近の中ではかなり自然だった。図書室で少し張りつめた空気があった分、今の柔らかさは余計に目立つ。
校門を出ると、駅前へ向かう人波が見えた。
そのときだった。
「悠理ー!」
聞き慣れた、やけに明るい声。
九条は足を止める。
視線の先に、朝倉灯がいた。
コンビニの袋を片手に、まるで待ち合わせでもしていたかのような軽さで手を振っている。今日は朝より少しラフな服装で、制服ではなく私服だった。
「やっと見つけた」
「……またお前か」
「また、って何その言い方」
「なんでいるんだ」
「買い物してた。で、たまたま見えた」
「たまたま多いな」
灯は笑って、九条の隣に立つ澪へ視線を向けた。
「あ、白峰さんも」
「……こんにちは」
澪はきちんと挨拶をした。だが、声がほんの少しだけ硬い。
九条は、それを聞いてすぐに気づいた。
朝よりも、少しだけ距離を測っている。
「今からどっか行くの?」
灯が聞く。
「少し歩くだけだ」
「へえ」
灯はにやっとした。
「最近ほんと仲いいね」
九条は嫌な予感がした。
「別に」
「別に、の顔じゃない」
「うるさい」
灯は楽しそうに笑う。
そして、澪のほうを見て、あっさりと続けた。
「白峰さんって、悠理のことよく見てるよね」
澪の肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……そうですか」
「うん。なんか、話してるときの目が違う」
「何の話をしてるんだ」
「そのままだよ」
九条が口を挟むと、灯は楽しそうに肩をすくめた。
「昔から知ってると分かるんだよね。誰かが、その人を特別に見てるかどうかって」
「勝手なこと言うな」
「勝手じゃないって」
灯は悪びれず、澪へ笑いかけた。
「ねえ、白峰さん。悠理、昔からちょっと鈍いところあるけど、困ったら遠慮なく言っていいからね」
「……はあ」
澪の返事は、短かった。
九条はその様子を見て、どうにも落ち着かなくなる。
灯は悪気なく言っているのだろう。むしろ、いつもの調子で場を和ませようとしているだけだ。だが、澪の表情がほんの少しずつ曇っていくのが分かる。
「灯」
「ん?」
「今日はもういい」
「えー、何で」
「歩くから」
「そう。じゃあ、またね」
灯はあっさり引き下がった。だが、去り際に九条へだけ耳打ちするように言う。
「……あとで話して」
「話すことはない」
「あるでしょ、たぶん」
灯はニッと笑って、先に歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、九条は黙っていた。
隣を見ると、澪は前を向いたまま、何も言わない。
「……悪い」
九条がそう言うと、澪は少しだけまばたきをした。
「何が」
「朝倉のこと」
「別に」
「別に、じゃないだろ」
「……そうかもしれないけど」
澪はそこで言葉を切った。
九条は、彼女が珍しく迷っているのを感じた。
「気にしたか」
「……少しだけ」
「そうか」
「だって」
澪は視線を落とす。
「昔からの知り合いって、やっぱり違うでしょう」
「何が」
「距離」
その言葉に、九条は少しだけ息を止めた。
澪は、言いにくそうに続ける。
「私は、あなたのことを最近知ったばかりなのに。あの人は、ずっと前からあなたを知ってる」
「それはそうだ」
「……うん」
澪の声は、少しだけ小さくなった。
「別に、何もないのは分かってるの。けど、話し方が自然で、昔のあなたを知っていて、遠慮がなくて……」
そこで、澪はふと黙る。
九条は、彼女が何を言いたいのかを、なんとなく察してしまった。
「嫉妬か」
澪の足が止まる。
「……違う」
即答だった。
だが、その否定はあまりにも早くて、逆に答えになってしまっている。
九条は少しだけ目を細めた。
「違わないだろ」
「違うって言ってる」
「白峰」
「……なに」
「今のは、かなり分かりやすい」
「うるさいわね」
澪は少しだけむっとした顔をしたが、すぐに視線をそらした。
頬が少し赤い。
九条は、それを見て妙に胸の奥が熱くなるのを感じた。
澪が、自分のことで嫉妬する。
その事実が、うれしいのか、落ち着かないのか、まだうまく言えない。
「……別に、責めてるわけじゃない」
「知ってる」
「なら、そんな顔するな」
「どんな顔よ」
「わかりやすく拗ねてる顔」
「拗ねてない」
「拗ねてる」
澪は少しだけ睨んだ。だが、その睨み方もどこか弱い。
「……だって、仕方ないじゃない」
小さな声だった。
「仕方ない、って何が」
「気になるものは気になるの」
「何が」
「昔からの知り合いに、軽く話しかけられるのとか。あなたが自然に返すのとか。あと……」
そこで、澪は言葉を止めた。
九条は黙って待った。
「……あの人が、あなたのことをよく知ってるみたいに話すのが」
そこまで言って、澪は完全に黙った。
九条は、少しだけ驚いてから、静かに息を吐く。
「……なるほど」
「なにが」
「嫉妬じゃないって言ってたのに」
「もういいでしょう、その話は」
「よくない」
「うるさい」
澪は顔をそむけたが、耳まで赤い。九条はその横顔を見て、思わず少しだけ笑ってしまう。
「笑わないで」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
「気のせいだ」
「その返し、最近ほんとにずるい」
「何度も言うな」
澪は唇を結んだまま歩き出した。少しだけ早足だ。
九条はその横に並ぶ。
「……悪い」
「何に対して」
「気にさせた」
「自覚はあるのね」
「ああ」
「最低」
「そこまで言うか」
「言うわ」
そう言いながらも、澪の声にはもうさっきほどの棘はなかった。
駅前を抜け、公園のほうへ向かう細い道に入る。夕方の風が少し涼しい。
九条は、しばらく考えてから口を開いた。
「朝倉は、昔の知り合いだ」
「分かってる」
「大事だった時期もある」
「……そう」
「でも、今は違う」
澪が足を止める。
九条も立ち止まった。
住宅街の角。車通りは少ない。風の音だけが静かに流れていた。
「今は、昔みたいには会ってないし、何かあるわけでもない」
「……うん」
「だから、あいつがいくら軽く話しても、今の俺にとって大事なのは、そういうのじゃない」
澪はゆっくり九条を見る。
「……じゃあ、何」
九条は少しだけ間を置いた。
「今、一緒にいる相手のほうだ」
澪の表情が、ほんの少しだけ止まる。
九条は続ける。
「俺は、今の時間を大事にしたい。昔の話より、今、誰と歩くかのほうが大切だ」
澪は言葉を失ったように、じっとこちらを見ていた。
しばらくして、ぽつりと問う。
「……それ、私に言ってるの」
「ああ」
九条はまっすぐ答える。
「お前に言ってる」
澪は目を伏せた。
風が彼女の髪を少しだけ揺らす。
「……ずるい」
「またそれか」
「だって」
澪は小さく息を吸った。
「そういう言い方をされたら、怒れなくなるでしょう」
「怒ってたのか」
「少しだけ」
「そうか」
「でも」
澪は静かに言う。
「今のは、少し安心した」
九条は、その一言に胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「なら、よかった」
「よくはない」
「どっちだ」
「……よかった、けど、よくない」
「面倒だな」
「うるさい」
澪は頬を少し膨らませる。だが、それはもう本気の怒りではなかった。
二人は再び歩き始める。
しばらく無言だったが、やがて澪がぽつりと言った。
「私、たぶん少しだけ、あの人がうらやましかったの」
「朝倉が?」
「ええ。昔のあなたを知っていて、ためらいなく話せること」
「……そうか」
「でも、今のあなたを知ってるのは、私だから」
九条は足を止めそうになった。
澪は自分の言葉に気づいたのか、少しだけ目を見開いてから、すぐに視線をそらす。
「……今のは、忘れて」
「無理だな」
「そういう返し、もう本当にやめてほしい」
「嫌か」
「嫌じゃ、ないけど」
澪は小さく息をついた。
「……恥ずかしいの」
その一言が、妙に柔らかかった。
九条は少しだけ笑う。
「じゃあ、恥ずかしがるな」
「無理よ」
「そうか」
「そう」
そのやり取りの中で、澪の表情が少しずつ落ち着いていく。
嫉妬は、決して楽しいものではない。けれど、言葉にできるほど自分の気持ちに近づいたということでもある。
九条は、そう思った。
それに、自分もまた少しだけ安心していた。
澪が、自分のことで揺れる。
それは、彼女の中で、自分がもう無関係な存在ではないということだ。
「……ねえ、悠理」
「なんだ」
「今度、あの人に会ったら……」
「ん」
「……ちゃんと、今の私は私って、分かるようにして」
九条は少しだけ目を瞬かせた。
「それはどういう意味だ」
「……分からないならいい」
「分かるけど」
「なら言わないで」
「面倒だな」
「そういうことよ」
澪は小さくため息をついたが、その口元にはほんの少しだけ笑みが残っていた。
九条はその横顔を見て、しばらく考える。
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「約束」
「約束だ」
澪はそれでようやく安心したのか、肩の力を少しだけ抜いた。
公園の手前まで来ると、夕方の空が少しだけ橙色を帯びていた。
「今日は、ここまででいい」
「そうか」
「うん」
澪は少しだけ間を置いてから、九条を見た。
「……さっきは、ごめん」
「何が」
「変なふうに、嫉妬したこと」
「別に変じゃない」
「でも」
「お前らしい」
澪は目を丸くした。
「……それ、慰め?」
「事実だ」
「またそういうことを」
澪は少しだけ笑った。
その笑顔は、さっきまでの拗ねた空気をきれいにほどいていた。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「今度は、少しだけ普通に話す」
「無理だろ」
「うるさい」
澪はそう言って、けれど本当に少しだけ機嫌を直したように見えた。
九条はその背中を見送りながら思う。
初めての嫉妬は、痛みよりも、むしろ自分の気持ちをはっきりさせる。
澪が自分を見ている。
そのことが、こんなにも嬉しい。
それはたぶん、もうかなり前から特別だったということだ。
朝倉灯の存在は、過去を思い出させる。
けれど、今の自分を選ぶ理由にはならない。
今ここにいる白峰澪こそが、九条悠理にとって大切な相手だった。
夕暮れの空は、ゆっくりと夜へ変わっていく。
その中で、九条は静かに笑った。
恋はまだ、はっきりとは形にならない。
けれど、心の中で確かに何かが始まっている。
そしてその始まりを、自分はもう見逃さない気がしていた。




