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第十四話 図書室の時間

 金曜日の昼休み、九条悠理はいつものように中庭へ向かうつもりだった。


 だが、教室を出る手前で、白峰澪に呼び止められた。


「悠理」


 振り返ると、澪は少しだけ落ち着かない様子で立っている。


「今日は……図書室に来てくれない?」


「図書室?」


「ええ。少し、借りたい本があるの」


「分かった」


 即答すると、澪はほんの少しだけ目を丸くした。


「……すぐ答えるのね」


「ダメだったか」


「ううん。嬉しい」


 そう言ったあと、澪は自分で少し照れたように視線を逸らした。


 九条は、昨日の朝倉灯のことを思い出した。


 昔の知り合い。幼なじみ。急に現れた存在。


 澪がそれを気にしていないはずはない。


 だが、今の彼女は何も言わなかった。代わりに、静かな図書室へ誘ってきた。


 それだけで、十分に意味がある気がした。


 昼休みの図書室は、驚くほど静かだった。


 窓から差し込む光は柔らかく、棚の間には紙の匂いが漂っている。空気が整っていて、落ち着く場所だった。


 澪は本棚の前で足を止め、指先で背表紙をなぞるように見ていく。


「何を探してるんだ」


「ちょっとした小説」


「また小説か」


「悪い?」


「いや、白峰らしいと思って」


 澪は少しだけ口を尖らせた。


「またそれ」


「褒めてる」


「どう聞いても、からかってるでしょう」


「半分は」


「半分なのね」


 澪は小さく息をついたが、完全に怒っているわけではなかった。むしろ、こういうやり取りが少し楽しそうでもある。


 九条は図書室の机の端に鞄を置き、彼女の隣に立った。


「どんな本なんだ」


「人の気持ちが少しずつ変わる話」


「抽象的だな」


「読んでから考えるタイプなの」


「なるほど」


 澪は一冊の本を引き抜くと、表紙を見た。


「……これでいいかな」


「面白いのか」


「たぶん。評判は悪くないみたい」


「読んだことは?」


「ないわ」


「じゃあ、どうして選んだ」


「気になったから」


「それだけ?」


「それだけよ」


 澪は少しだけ笑った。


 九条はその横顔を見ながら、ふと気づく。


 図書室の静けさの中で見る白峰澪は、教室で見るより少しだけ柔らかい。視線も、声も、少し低くなる。ここでは彼女の完璧さより、落ち着きのほうが目立った。


「……悠理は、何か借りるの?」


「今は特に」


「そう」


 澪は本を胸に抱えながら、少しだけ周囲を見回した。


 そして、ふいに小声で言う。


「ここ、落ち着くわね」


「だろ」


「ええ。学校の中なのに、少しだけ別の場所みたい」


「図書室だからな」


「それだけじゃない気がする」


 九条は少しだけ首を傾げた。


「何が違うんだ」


「……人が少ないからかしら」


「それはあるだろうな」


「あと、声を出さなくてもいいから」


「白峰は、声を出すのが嫌いなのか」


「嫌いではないわ」


「じゃあ、何が」


「……急がされる感じがしないの」


 その答えは、澪らしかった。


 誰かに合わせる必要もなく、無理に笑う必要もなく、ただ静かに本を読むだけでいい。ここでは、彼女は少しだけ肩の力を抜けるのだろう。


 九条は、自然と自分のことを思い出した。


 自分もまた、こういう場所が苦手ではない。


 言葉を急かされず、周囲に気を取られず、ただ静かに時間が流れる。そういう場所は、安心する。


「俺も、ここは嫌いじゃない」


 九条が言うと、澪は少しだけ顔を上げた。


「本当?」


「ああ」


「そう」


 澪は満足したように頷き、窓際の空いた席へ向かった。


 二人で並んで座る。


 机の上には、澪が選んだ本と、九条のノートだけがある。


 しばらくは本のページをめくる音だけが響いた。


 澪は読み始めると、驚くほど集中する。まっすぐな背筋。少し伏せた目。ページをめくる指先まで静かだ。


 九条はそんな彼女を横目で見ながら、ふと思った。


 この人は、ただ完璧でいるだけではない。


 何かを静かに吸収して、自分の中で丁寧に積み上げていくタイプなのだろう。


 そう考えると、教室で見せる完璧さにも、少しだけ別の意味が見えてくる。


 しばらくして、澪が本から顔を上げた。


「……ねえ、悠理」


「なんだ」


「昨日のこと、気にしてるでしょう」


 九条は、少しだけ目を止めた。


「何のことだ」


「とぼけないで」


「……まあ、少しはな」


 澪は小さく息をつく。


「朝倉さんのこと?」


「ああ」


「やっぱり」


「気にしてないつもりだったんだけどな」


「つもり、でしょう」


「そうだな」


 九条は素直に認めた。


 澪は本のページを閉じ、膝の上に置く。


「……昔からの知り合いなんでしょう」


「そうだ」


「大事なの?」


 九条は少しだけ考えた。


「大事だった時期はある」


「今は?」


「今も、昔のままではないけど、無碍にはできない」


「そう」


 澪は少しだけ視線を落とした。


「……優しいのね」


「よく言われる」


「でも、そういうところ、少しだけ危なっかしい」


「危なっかしい?」


「相手を気にしすぎるところ」


 九条は少し黙る。


 澪の言葉は、鋭いのに不思議と嫌な感じがしなかった。


「……白峰も同じだろ」


「え?」


「俺が少し周囲を気にすると、お前も気にする」


「それは……」


 澪は言葉に詰まる。


「……気にするわ」


「だろ」


「だって、あなたのことだもの」


 その言い方に、九条は少しだけ息を止めた。


 澪は自分が何を言ったのかに気づいたのか、すぐに視線をそらす。


「……今のは、深い意味はないわ」


「そうか」


「そうよ」


「ならいい」


「……そう、ね」


 澪は耳を少し赤くしながら、再び本に目を落とした。


 九条はその反応を見て、ほんの少しだけ笑った。


 図書室は静かだ。


 静かすぎて、少しの言葉がやけに大きく残る。


 だからこそ、こういう場所では、普段言わないことがぽろっと出てしまうのかもしれない。


 昼休みの残り時間が少なくなってきたころ、図書室の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 司書の先生が入ってくる。


 それに続いて、見慣れた顔がひとつ、図書室の中へ足を踏み入れた。


 朝倉灯だった。


 九条は一瞬だけ固まる。


 灯のほうも、こちらを見るなり目を丸くした。


「あれ?」


 そして、次の瞬間、ぱっと笑う。


「やっぱりいた!」


 声は抑えているが、十分に明るい。


 九条は、なぜこんなタイミングで来るのかと少しだけ天を仰ぎたくなった。


「……なんでここにいるんだ」


「学校見学。違う、遊びに来ただけ」


「遊びに来ただけで図書室に来るのか」


「たまたま」


 灯は笑いながら、九条の隣を見た。


 澪と目が合う。


「あ、白峰さん。こんにちは」


「……こんにちは」


 澪は丁寧に返した。表面上は落ち着いている。だが、九条には分かる。


 少しだけ、空気が硬くなった。


「相変わらず仲いいね」


 灯が何気なく言う。


「……別に」


 九条が返すと、灯はくすくす笑った。


「その返し、昔とあんまり変わってない」


「うるさい」


「ひどいなあ」


 灯はそのまま澪に向き直った。


「白峰さんって、本読むの好きなんだ」


「ええ」


「どんなの読むの?」


「色々」


「へえ。今度おすすめ教えてよ」


「……ええ」


 澪の声は丁寧だが、少しだけ温度が低い。


 灯はそれを気にした様子もなく、九条へ戻る。


「悠理、今度また遊ぼうよ」


「また急だな」


「だって、久しぶりに会えたし」


「学校ではできるだけ静かにしてくれ」


「えー」


「えー、じゃない」


「はいはい」


 灯は笑っているが、九条には、その視線の中に少しだけ様子を見るような色があるのを感じた。


 そして、澪のほうも同じだった。


 図書室の空気は、ほんの少しだけ変わった。


 灯は明るい。距離が近い。昔を知っている。


 澪は静かだ。慎重だ。今の九条を知っている。


 その対比が、九条の中でくっきりしていく。


 しばらくして、灯は図書室を出ていった。


 扉が閉まると、再び静けさが戻る。


 だが、さっきまでの静けさとは少し違う。


「……気にしなくていいから」


 九条がそう言うと、澪は本から顔を上げた。


「何を」


「朝倉のこと」


「別に、気にしてないわ」


「嘘だな」


「……少しだけ」


 澪は小さく息をついた。


「でも、あなたが大事にしている人なんでしょう」


「昔からの知り合いだ」


「それが大事なことだと思うの」


 九条は、澪の横顔を見た。


 彼女は本のページを指で押さえたまま、少しだけ迷っているようだった。


「私、そういうの、少し苦手かも」


「何が」


「昔からの相手に、今の自分と比べられること」


 九条はその言葉に、少しだけ黙る。


 澪はそれ以上は言わなかった。


 ただ、静かに本を閉じる。


「……ごめんなさい。変なこと言ったわ」


「いや」


 九条は首を振る。


「変じゃない」


「そう?」


「ああ」


 澪は少しだけ視線を上げた。


「……なら、よかった」


 その一言は、思ったよりも小さかった。


 けれど、九条には深く残った。


 図書室はまた静かになる。


 窓の外では、夏の雲がゆっくり流れていた。


 九条は考える。


 灯は、昔の自分を知っている。


 澪は、今の自分を見ている。


 そのどちらも大切で、どちらも少しだけ不安にさせる。


 だが、だからこそ分かることもある。


 過去があるから、今の自分がいる。


 そして今の自分は、もう昔とは違う。


 そのことを、自分より先に気づいていたのは、もしかすると白峰澪だったのかもしれない。


「……悠理」


「なんだ」


「放課後、少し歩ける?」


「ああ」


「……今日は、喫茶店じゃなくていい」


「分かった」


「ありがとう」


 澪はそう言って、もう一度本を開いた。


 その横顔は、さっきより少しだけ穏やかだった。


 図書室の時間は、静かだ。


 けれど、その静けさの中で、二人は少しずつ互いの気持ちを知っていく。


 誰かの記憶に揺れながらも、今ここにいる相手のことを見つめる。


 それはきっと、恋の始まりに近い何かだった。

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