第十三話 幼なじみという存在
木曜日の朝は、どこか落ち着いていた。
昨日の夕暮れ、高台の公園で見た景色が、まだ九条悠理の頭の片隅に残っている。夕日に染まった街。静かな風。白峰澪が「ここは大切な場所」と言ったときの、少しだけ照れた声。
たったそれだけのことで、今日は少しだけ気分が軽かった。
「おはよう」
蓮がいつもの調子で席に座る。
「おはよう」
「なんか最近、お前ほんと落ち着いてるよな」
「そうか?」
「そうだよ。前より余裕ある」
「気のせいじゃないのか」
「いや、違うな」
蓮はにやりと笑った。
「で、白峰さんと何かあった?」
「何もない」
「その即答、逆に怪しい」
「怪しくない」
「ふーん」
蓮は深くは追及せず、机に頬杖をついた。
九条は少しだけ助かった気分になる。
朝のHRが始まり、授業が進む。窓の外では夏の気配が少しずつ強くなっていた。青い空。白い雲。蝉の声はまだ薄いが、もうそこまで来ている気がする。
昼休み。
中庭のベンチで、九条と澪は少し間隔を空けて並んで座っていた。
噂を避けるため、教室では距離を取る。だが、こうして人の少ない場所に来ると、それも少しだけ形だけになる。
「昨日の場所、綺麗だったわね」
澪が静かに言う。
「ああ」
「また行きたい」
「今度は別の季節に行くんだろ」
「ええ。約束したでしょう」
澪は小さく笑う。
最近の彼女は、笑う回数が少しだけ増えた気がする。
それは学校ではほとんど見せない、放課後だけの表情だった。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「今日、放課後はまっすぐ帰る?」
「特に予定はない」
「そう」
澪は少しだけ目を伏せた。
「……なら、少し話せるかしら」
「いいぞ」
その返事に、澪は安心したようにうなずいた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、二人はそれぞれ教室へ戻る。
午後の授業は、少しだけ長く感じた。
放課後。
九条が鞄を持ち上げたとき、教室の入口が少し騒がしくなった。
「九条くんって、ここのクラス?」
「え、そうそう。たぶんいた」
聞き慣れない、けれど妙に明るい声。
九条が顔を上げると、入口に見覚えのない少女が立っていた。
茶色がかった長い髪を高い位置で束ね、健康的に焼けた肌をしている。制服の着こなしは少しラフだが、嫌味がない。目は大きく、表情はころころ変わるタイプだと一目で分かる。
そして、その少女は九条を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「やっぱりいた! 悠理!」
教室の空気が、一瞬で変わった。
「……え」
九条は思わず固まった。
名前で、しかも呼び捨て。
しかも、その声には遠慮がない。親しさが、そのまま形になったような呼び方だった。
教室の何人かが、驚いたようにこちらを見る。
「……誰だ?」
隣の蓮が小声で言う。
「知り合いか?」
「いや……」
九条は立ち上がりかけて、少女の顔をもう一度見た。
記憶の奥が、少しだけ動く。
「……灯?」
少女はにっと笑った。
「そうそう、朝倉灯。覚えてたんだ」
「……なんでここに」
「会いに来た!」
「会いに来た、って」
「だって、最近全然連絡くれないんだもん」
朝倉灯は、まるで昔からここにいたかのように教室へ一歩踏み込んだ。
その明るさに、周囲の空気が少し和らぐ。
しかし、九条にとってはそれどころではなかった。
朝倉灯。
幼いころ、同じ住宅街でよく遊んでいた少女だ。引っ越しで離れてから、しばらく会っていなかった。最後に会ったのは、たしか中学に上がる前だったはずだ。
それが今、突然目の前に現れた。
「お前、ここに通ってたのか」
「そうだよ。転校したの、知らなかった?」
「知らない」
「そりゃ知らないか。あたし、だいぶ前に引っ越してきたし」
灯は笑うと、教室の中をぐるりと見回した。
「へえ、ここなんだ。悠理って、今こんな感じなんだ」
「……どういう意味だ」
「昔より大人っぽい」
「普通だ」
「いや、普通じゃないでしょ」
灯は気さくに笑い、九条の肩を軽く叩いた。
その自然な距離感に、九条は少しだけ戸惑う。
そして、その戸惑い以上に気になったのは、教室の少し後ろから、澪がこちらを見ていることだった。
澪は黙っていた。
表情も変えない。
だが、九条には分かった。
彼女は、灯を見ている。
そして、灯が九条を呼び捨てにしたことにも、気づいている。
「あの、そっちの人は?」
灯が澪に気づき、興味深そうに尋ねる。
「……白峰さん」
九条が答えるより早く、澪が静かに一歩前に出た。
「白峰澪です。九条くんのクラスメイト」
言い方は丁寧だった。
だが、「九条くん」という呼び方に、ほんの少しだけ強さがあった気がする。
灯はそれを聞くと、目を瞬かせてから、にやっと笑った。
「へえ。クラスメイト、ね」
九条は嫌な予感がした。
「朝倉灯です。悠理とは昔からの知り合い」
わざわざ「昔から」を強調する。
澪は一瞬だけ黙ったが、すぐに小さく会釈した。
「そうなんですね」
丁寧。静か。だが、どこか温度が低い。
九条はその空気をどうにかしたくなり、話題を変える。
「それで、なんで来たんだ」
「だから、会いに来たって言ったじゃん」
「理由になってない」
「理由いる?」
「いる」
「じゃあ……」
灯は少しだけ考える仕草をして、にやりと口元を上げた。
「なんか、昔の悠理に会いたくなったから」
「昔の、って何だ」
「昔はもっと無口だった」
「今も似たようなものだろ」
「でも、今のほうがちょっと柔らかい」
その言葉に、九条は少しだけ黙る。
灯は教室の空気を気にする様子もなく、さっさと話を進めた。
「で、今日は駅前まで案内して。久しぶりに話したい」
「今からか」
「うん」
「……急だな」
「急で悪い?」
「悪くない」
そう返しながら、九条はちらりと澪を見る。
澪は何も言わない。
だが、さっきより少しだけ視線を落としていた。
「白峰さんも一緒に来る?」
灯があっさり言った。
澪は少しだけ目を上げる。
「私は……」
一拍。
「今日は、やめておきます」
その返事は丁寧だったが、ほんの少しだけ硬かった。
灯はそれを察したのか、にこっと笑った。
「そっか。じゃ、また今度ね」
「……ええ」
澪は静かに答えた。
九条は、そこでようやく察する。
これはただの再会ではない。
朝倉灯は、九条にとって“昔を知る人”であり、澪にとっては“急に現れた、距離の近い存在”だった。
放課後の空気が、少しだけ変わった。
駅前に向かう途中、灯はずっと話していた。
「小さい頃、悠理って、もっと無口だったよね」
「うるさいな」
「本当だって。けど、変に優しかった。転んだらすぐ助けるし、迷子の猫見つけたら絶対放っておかないし」
「……覚えてない」
「絶対覚えてるでしょ」
「覚えてない」
「嘘だ」
灯は笑いながら、九条の横顔を覗き込む。
昔の距離感のまま、何でもないように歩く。九条はその自然さに少し戸惑いながらも、嫌ではなかった。
だが、どこか気にかかる。
灯が昔話をするたびに、白峰澪の顔が頭に浮かぶのだ。
澪は、あの場面をどう見ていたのだろう。
そう考えると、胸の奥が少しだけざわついた。
駅前のベンチに座ると、灯はアイスを買ってきた。
「はい」
「いらない」
「いいから」
「急に何なんだ」
「昔からこうしてたでしょ」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
灯は楽しそうに笑う。
九条は仕方なく受け取り、アイスの封を切った。
少しだけ気温が下がる。
「それで?」
「ん?」
「何しに来たんだ、ほんとに」
九条が聞くと、灯はアイスを食べながら少しだけ目を細めた。
「だから会いに来たって」
「本気でそれだけか」
「半分本気、半分好奇心」
「好奇心?」
「悠理が、今どんなふうに生きてるのか気になった」
「大げさだ」
「大げさじゃないよ」
灯はベンチの背にもたれた。
「昔の悠理って、あたしが知ってる中で一番、“誰かのことを気にする人”だったから」
「……何だそれ」
「だから、今もちゃんとそうなのかなって」
九条はアイスを持ったまま、少しだけ黙る。
昔の自分。
誰かを見て、助けて、気づいて、でも自分のことは後回しにしていた頃。
たしかに、そうだった気がする。
「それで、どうだった」
灯が聞く。
「何が」
「今の悠理」
九条は少しだけ考えた。
「……変わってない、と思う」
「そう?」
「ああ」
「でも、少しだけ違うよ」
「どこが」
灯は九条を見て、少しだけ笑った。
「昔より、今のほうが“誰かの隣”にいる感じがする」
その言葉に、九条は息を止めた。
灯は気づかないふりをするように、アイスをかじる。
「たぶん、いいことだよ」
「……そうか」
「うん」
短いやり取りだった。
けれど、そのあと九条の頭にはずっとその言葉が残っていた。
“誰かの隣”にいる感じ。
それは、白峰澪とのことを指しているのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
放課後、教室での短い会話。昼休みの静かな時間。秘密の公園。夕暮れの帰り道。
その全部が、確かに“誰かの隣”だった。
そして、今の自分には、それが自然になっている。
「……灯は」
「ん?」
「何しに来たんだ、本当に」
九条がもう一度尋ねると、灯は少しだけ目を細めた。
「本当の理由、聞きたい?」
「聞く」
「……ちょっとだけ、安心したかった」
「安心?」
「うん。悠理がちゃんと、悠理のままでいるのか」
灯はベンチの上で膝を抱くようにして座り直した。
「昔は、無理して笑うときがあったから」
「……そんなことまで分かるのか」
「分かるよ。幼なじみだもん」
その一言が、妙に強かった。
九条は、少しだけ言葉を失う。
「だから、今日会ってみて、安心した」
「……何が」
「今の悠理は、ちゃんと自分の意志で誰かといる。無理して合わせてる感じじゃない」
灯はそこで少しだけ笑った。
「そういうの、見たかったんだ」
九条は、その言葉を聞いて、胸の奥が静かに温まるのを感じた。
しかし同時に、別の感情もあった。
白峰澪の顔が、また浮かぶ。
もし彼女が今のやり取りを見たら、どう思うだろう。
何も言わないかもしれない。
だが、心のどこかでは気にするはずだ。
そう思うと、九条は少しだけ落ち着かなくなった。
「……戻るか」
「ん、帰る?」
「ああ」
「そっか」
灯は立ち上がり、軽く伸びをした。
「で、また今度会おうよ」
「勝手に決めるな」
「だって、また来たいし」
「……好きにしろ」
「よし」
灯は満足そうに笑う。
その笑顔は、昔と変わらない。まっすぐで、明るくて、少し強引だ。
駅前で別れる直前、灯はふいに九条の袖を引いた。
「悠理」
「なんだ」
「今度会うとき、ちゃんと“今の話”聞かせて」
「今の話?」
「うん。今の友達の話」
九条は少しだけ間を置いた。
「……考えとく」
「うん」
灯はそれだけで満足したように、軽く手を振った。
「じゃあね」
「ああ」
九条はその背中が見えなくなるまで見送った。
帰り道、空はすでに夕方の色をしていた。
教室での驚き。灯の距離の近さ。昔話。そして、最後に残った言葉。
今の友達の話。
その言葉は、たぶん彼女を思い浮かべずにはいられない。
白峰澪。
今日、教室で灯を見た彼女の、少しだけ硬かった横顔。
九条はその表情を思い出し、足を止めた。
幼なじみは、過去を知っている。
だからこそ、今を揺らすこともある。
けれど、それは悪いことではない。
むしろ、今の自分がどこに立っているのかを、あらためて見せてくれる。
九条悠理は、夕暮れの空を見上げた。
今日は、少しだけいろいろなものが見えた気がする。
昔の自分。
今の自分。
そして、誰かの隣にいる今の自分。
それは、まだ名前のない安心だった。
けれど、その安心の輪郭を教えてくれたのが、白峰澪だったことだけは、もうはっきりしていた。




