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『第四十七話 君の隣が、少しだけ近くなった』

朝の空気が、日に日に冷たくなっていた。


 吐く息が、ほんの少しだけ白い。


 校門へ続く道の両脇では、最後まで残っていた木の葉が風に揺らされ、乾いた音を立てながら地面へ落ちていく。


 季節が、また一つ進もうとしている。


「……寒いですね」


 隣を歩いていた澪が、マフラーに口元を埋めながら言った。


「ああ」


「もう冬ですね」


「まだ秋だろ」


「でも、ほとんど冬みたいなものですよ」


「そうか?」


「そうですよ」


 澪はそう言って、少しだけ笑った。


 首元には、以前悠理が貸した黒いマフラー。


 今ではすっかり彼女のもののように馴染んでいる。


「そのマフラー、気に入ってるな」


「……はい」


「そんなに?」


「かなり」


 澪は迷いなく答えた。


「暖かいですし」


「それだけ?」


「……」


 澪が黙る。


「違うのか?」


「違いません」


 少しだけ間があって。


「ただ、それだけではないです」


「そうか」


「はい」


 理由を聞こうとはしなかった。


 たぶん、今は聞かないほうがいい。


 そんな気がした。


 けれど。


 隣を歩く澪は、どこか嬉しそうだった。


 


 教室に入ると、珍しく朝から人が集まっていた。


「おはよう、悠理」


 蓮が手を上げる。


「おはよう」


「ちょうどよかった。週末の話なんだけどさ」


「何?」


「公開授業の日、クラスでちょっとした交流企画をやるらしい」


 悠理は席に鞄を置きながら、曖昧に頷いた。


 そういえば担任が昨日、そんな話をしていた。


「保護者だけじゃなくて、他の学年のやつらも見に来るんだって」


「へえ」


「で、企画の準備を何人かに手伝ってほしいらしい」


「誰が?」


「澪さんも参加するみたいだぞ」


 その名前を聞いた瞬間。


 悠理は自然と隣の席を見た。


 澪は既に席に着いていて、教科書を机の中から出している。


 視線に気づいたのか、こちらを向いた。


「どうしました?」


「公開授業の企画、参加するんだって?」


「はい」


「何するか決まってる?」


「まだです」


「そうなんだ」


「でも……」


 澪が少しだけ言葉を止めた。


「悠理くんは参加しますか?」


「俺?」


「はい」


「どうしようかな」


 その返事を聞いた瞬間。


 澪の表情が、ごくわずかに曇った。


 本当に小さな変化だった。


 けれど、最近の悠理には分かる。


「……参加してほしい?」


 思ったまま尋ねた。


「えっ」


 澪の目が少しだけ大きくなる。


「その……」


「無理にとは言わないけど」


「……」


 澪は視線を落とした。


 数秒してから。


「……一緒だと、嬉しいです」


 小さな声。


 けれど、はっきり聞こえた。


 悠理は少しだけ笑う。


「じゃあ、参加する」


「本当ですか?」


「ああ」


「……よかった」


 澪の表情が、すっと柔らかくなった。


 それを見て。


 悠理も少しだけ安心した。




 昼休み。


 教室の後ろでは、公開授業の日に行う企画について話し合いが進んでいた。


 派手なものにするか。


 簡単な展示にするか。


 ゲームをするか。


 意見はなかなかまとまらない。


「せっかくだから、秋らしいものにしたいよね」


 誰かがそう言った。


「もう冬だけどな」


 別の男子が笑う。


「じゃあ秋冬の思い出とか?」


 その言葉に。


 悠理はふと窓の外を見た。


 校庭の木々。


 色づいた葉。


 風。


 そして。


 去年までの自分なら、たぶん何とも思わなかった景色。


 今年は違う。


 夏祭り。


 花火。


 文化祭。


 放課後の雨。


 公園。


 図書室。


 そして、隣にいる澪。


 季節が進むたびに、少しずつ思い出が増えている。


「季節の思い出を書くのは?」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 みんながこちらを見る。


「写真とか、好きな季節とか。簡単なメッセージを書いて貼っていくとか」


「いいじゃん」


「それなら準備もそんなに大変じゃないな」


「公開授業で親にも書いてもらえるし」


 次々と賛成の声が上がる。


 あっという間に話が決まり始めた。


「じゃあ、それでいこう」


 黒板にテーマが書かれる。


『季節の思い出』


 その文字を眺めていた澪が、ふっと笑った。


「どうした?」


「いえ」


「何か面白い?」


「少しだけ嬉しくて」


「何が?」


「今年は、思い出が多いので」


「……」


「去年は、ほとんど何も書けませんでしたから」


 その言葉に。


 悠理は何も返さなかった。


 けれど、胸の奥が少し温かくなる。


 今年の澪には。


 去年にはなかったものがある。


 たぶん。


 自分も、その一つなのだろう。


 


 放課後。


 準備のために数人が教室へ残った。


 悠理は掲示用のボードを運び、澪はメッセージカードの見本を書いている。


「これ、どうでしょう」


 澪が一枚のカードを差し出す。


 そこには、綺麗な字で。


『あなたの一番好きな季節と、その理由を教えてください』


 と書かれていた。


「いいと思う」


「本当ですか?」


「ああ」


「もっと変えたほうがいいところは?」


「ないかな」


「……珍しいですね」


「何が?」


「悠理くん、最近はちゃんと褒めてくれます」


「前から言ってただろ」


「そうでしたか?」


「そうだよ」


「……では、私の記憶違いですね」


 澪は少しだけ笑った。


 そして、カードを整理する。


 そのとき。


 ふいに、指先が触れた。


「あ」


 ほんの一瞬。


 それだけだった。


 けれど二人とも、すぐには手を離さなかった。


「……」


「……」


 先に動いたのは澪だった。


 そっと手を引く。


 頬が赤い。


「すみません」


「いや」


「……最近」


「ん?」


「こういうのが増えましたね」


「そうだな」


「前なら、もっと何とも思わなかったのに」


「……俺も」


 悠理がそう言うと。


 澪が顔を上げた。


「悠理くんも?」


「ああ」


「どんなときに?」


「こういうとき」


「……」


「澪が近いと、前より意識する」


 言ってから。


 少しだけ気恥ずかしくなった。


 澪も同じだったらしい。


 顔を真っ赤にして視線を逸らしている。


「……そうですか」


「ああ」


「……私もです」


 小さな声だった。


 でも。


 今までよりずっと素直な言葉だった。


 * * *


 準備が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 教室を出ると、窓ガラスに二人の姿が映る。


 並んで歩いている。


 少し前までは、ただの同級生だった。


 今では。


 どちらからともなく、一緒に帰るのが当たり前になっている。


「寒いですね」


「ああ」


 澪がマフラーを巻き直す。


 黒い布が、首元を包む。


「……これ」


「ん?」


「本当に、春まで借りてもいいんですよね?」


「ああ」


「よかった」


 澪は嬉しそうに笑った。


「春になったら返します」


「覚えてたんだな」


「もちろんです」


「じゃあ、それまで大事に使って」


「はい」


 少し歩いて。


 澪がぽつりと言った。


「悠理くん」


「ん?」


「冬って、少し寂しい季節だと思っていたんです」


「……そうなのか」


「はい」


 澪は前を見たまま続ける。


「日が短くて、寒くて。帰っても家は静かで」


「……」


「でも」


 澪がこちらを見る。


「今年は、少し違う気がします」


「どうして?」


「帰り道に、誰かがいるので」


 それだけ言って。


 澪は前を向いた。


 照れているのか、耳が少し赤い。


 悠理は何も言わずに隣を歩く。


 しばらくして。


「……俺も」


「え?」


「冬、そんなに嫌いじゃなくなった」


 澪が少し驚いた顔をする。


「どうしてですか?」


「たぶん」


 悠理は少しだけ考えて。


「同じ帰り道を歩く相手がいるから」


「……」


 澪が黙る。


 それから。


 そっと笑った。


「それなら」


「ん?」


「今年の冬は、長くても大丈夫ですね」


「ああ」


 二人の歩幅が、自然と揃う。


 寒さは消えない。


 風も冷たい。


 それでも。


 隣にいるだけで、不思議と足取りは軽かった。


 季節は、少しずつ冬へ向かっている。


 そして二人の距離も。


 気づかないほどゆっくりと。


 けれど確かに。


 昨日より今日。


 今日より明日へと、近づいていた。

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