第十一話 噂と距離
翌日。
火曜日の朝、九条悠理はいつも通りの時間に教室へ入った。
だが、いつも通りではなかったのは、教室の空気のほうだった。
なんとなく、視線が集まっている気がする。
気のせいかもしれない。だが、完全に気のせいとも言い切れない、微妙なざわつきがあった。
「……なんだこれ」
小さく呟くと、隣の席にいた藤堂蓮がすぐに反応した。
「おはようより先にそれかよ」
「何かあったのか」
「お前が言うか」
「いいから」
蓮はにやりと笑って、机に頬杖をついた。
「まあ、噂ってやつだな」
「噂?」
「白峰さんとお前の」
九条は一瞬だけ黙った。
「……何の噂だ」
「昨日、一緒に帰ってたろ」
「ああ」
「しかも、最近かなり頻繁に」
「それがどうした」
「いや、どうもしないけど、見てるやつは見てるってこと」
九条はため息をついた。
予想していなかったわけではない。白峰澪は目立つ。自分のような、どこにでもいる男子と並んで歩いていれば、気にする者が出てもおかしくはない。
「変な話じゃなければいいが」
「まあ、今のところは“仲いいな”くらいだな」
「それなら別に」
「お前、意外と図太いよな」
「そうか?」
「そうだよ」
蓮は面白そうに笑った。
「ただ、白峰さんのほうはそういう空気、あんまり好きじゃなさそうだったぞ」
「……どういう意味だ」
「さあな」
蓮はそれ以上は言わなかった。だが、九条には少しだけ分かる気がした。
白峰澪は、周囲の視線に慣れている。完璧な優等生として見られることにも、きっと耐えてきたのだろう。けれど、自分に向けられる“余計な注目”を好まないのは確かだ。
昼休み。
九条が弁当を広げると、いつもと同じように澪が近づいてきた。
「……九条くん」
その声は静かだったが、ほんの少しだけ慎重だった。
「どうした」
「少し、いい?」
澪は周囲を気にするように目を動かしてから、九条の前の席にそっと手をついた。
「昨日のことなんだけど」
「ああ」
「教室で、あまり話さないほうがいいかもしれない」
九条は箸を止めた。
「噂か」
「ええ」
「気にするのか」
「少しは」
澪は正直に言った。
「私自身は別にいいの。でも、あなたが変に思われるのは嫌」
「俺は気にしない」
「でも、私が気にするの」
それだけで、九条はもう何も言えなくなる。
澪はいつものように完璧な顔をしていた。けれど、よく見ると目の奥に少しだけ疲れがある。
「……悪いな」
「どうして謝るの」
「俺のせいで」
「違うわ」
澪は首を横に振った。
「誰かに見られるのが悪いわけじゃない。ただ、今は少し、距離を考えたほうがいいかなって思っただけ」
九条は小さく息を吐く。
「分かった」
澪は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……すんなり受け入れるのね」
「無理に困らせたくない」
「……そう」
澪の表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「ありがとう」
「でも、学校で話さないってことか」
「完全には無理よ」
「だろうな」
「だから、最低限だけ」
澪は小さく指を立てた。
「廊下では今まで通り、でも、必要以上に目立たない。教室では普通に話すけど、長くはしない」
「分かった」
「それと」
「まだあるのか」
「放課後は、今まで通りでもいい」
「なんでだ」
「……だって」
澪は少しだけ言葉を詰まらせた。
「放課後までなくなったら、困るから」
その言い方は、淡々としているのに、妙に率直だった。
九条は少しだけ目を伏せる。
「困るって、誰が」
「私が」
「そうか」
「ええ」
しばらく沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は昨日までと同じく、落ち着いていた。
蓮が遠くでこちらを見て、何かを察したように肩を揺らしているのが見える。九条は無視した。
放課後。
澪が言った通り、二人はいつも通りに教室を出た。
だが、いつも通りでありながら、どこかだけ違う。
それは、少しだけ距離だった。
横に並んで歩くものの、普段より半歩ぶんくらい空いている。
「……気にしすぎじゃないか」
九条が小さく言うと、澪は前を向いたまま返した。
「気にしすぎくらいで、ちょうどいいの」
「そうか」
「ええ」
駅へ向かう途中、廊下の角で数人の女子生徒とすれ違う。
その中の一人が、ちらりと澪と九条を見た。
小さな視線。
だが、たしかに見られている。
九条は何も言わなかったが、澪の歩幅がわずかに乱れたのに気づいた。
「……白峰」
「なに?」
「気にしなくていい」
「してないわ」
「嘘だな」
「……少しだけ」
澪は眉を下げた。
「こういうの、慣れてるはずなのに、変ね」
「何が」
「九条くんといると、周囲の視線が少しだけ気になる」
「それは悪いことか」
「悪くはない。でも、なんだか落ち着かない」
九条は少しだけ考えてから答えた。
「じゃあ、気にならないくらい自然にすればいい」
「簡単に言うのね」
「簡単じゃない」
「そうなの?」
「ああ」
澪は横目で九条を見る。
「……どうして?」
「お前が気にしてるから」
澪の足が、ほんの少しだけ止まりそうになった。
「……それ、ずるい」
「何が」
「私が気にしてることを理由にされると、反論しにくい」
「そうか」
「そうよ」
九条は軽く肩をすくめた。
駅前の喫茶店には、今日は寄らなかった。
その代わり、二人は駅から少し離れた小さな公園へ向かった。昼間の噂を避けるように、あえて人の少ない場所を選んだのだ。
ベンチに座ると、澪は少しだけ息をついた。
「……ここなら落ち着く」
「だろうな」
「ええ」
風が木の葉を揺らす。夕方の空は明るく、雲は少ない。
九条は澪の横顔を見た。
彼女は、さっきまでのわずかな緊張をまだ引きずっている。
「白峰」
「なに?」
「無理に合わせなくていい」
「何に?」
「周りに」
澪は少しだけ黙る。
「……でも、合わせないといけない場面もあるわ」
「それはそうだ」
「でしょ」
「ただ、今日は無理する必要はない」
澪は九条のほうを向いた。
「……今日は、そういう日なの?」
「たぶん」
「曖昧ね」
「曖昧でいい」
澪はしばらく何か言いたげにしていたが、結局小さく笑った。
「……あなたって、ほんとに不思議」
「よく言われる」
「知ってる」
少しだけ空気がやわらぐ。
そのとき、澪がふと視線を落とした。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「私、別に嫌なわけじゃないの」
「何が」
「あなたといること」
九条は静かに彼女を見る。
澪は視線を合わせないまま続けた。
「噂とか、視線とか、そういうのは少し気になる。でも、あなたといること自体は、嫌じゃない。むしろ……」
言葉が止まる。
九条は何も言わず待った。
「……安心する」
その一言は、小さいのに、ひどく重かった。
九条は少しだけ目を伏せる。
「俺もだ」
澪が顔を上げる。
「……そうなの」
「ああ」
「そう」
澪は、それ以上何も言わなかった。
代わりに、静かにベンチの背にもたれた。
沈黙が流れる。
だが、今度の沈黙は昨日までより少しだけ違う。
言葉を失ったからではない。
言葉にしすぎるのが、少しだけもったいないからだ。
やがて、澪がそっと言った。
「今日、少しだけ思ったの」
「何を」
「私、こんなふうに人と距離を気にしたこと、あまりなかったかもしれないって」
「そうか」
「ええ。今までは、気にしないふりをしてたのかも」
「ふり?」
「そう。誰かと親しくなること自体は嫌いじゃないのに、噂になると面倒だから、最初から避けていたの」
九条は少しだけ黙った。
「……それで、今は避けないのか」
「完全には無理よ」
「だろうな」
「でも」
澪は視線を前へ戻す。
「あなたが相手なら、少しだけ考え方が変わる」
「どう変わる」
「避けるより、守りたいって思うの」
九条は、その言葉に息を止めた。
「……守る?」
「ええ。自分のためだけじゃなくて、あなたのためにも、無駄に傷つけられたくないって思う」
「大げさだ」
「そうかしら」
「少し」
澪は少しだけむくれた顔をする。
「でも本音よ」
「……そうか」
九条は目を閉じ、短く息を吐いた。
澪は、自分が思っているよりずっと真っ直ぐだ。
だからこそ、言葉が重い。
噂を避けたいと言いながら、完全には切り離さない。放課後は今まで通りでいいと言いながら、その理由を隠さない。
彼女はたぶん、迷っているのだ。
そして、その迷いごと自分に見せてくれている。
「白峰」
「なに」
「守りたいって言ったのは、俺も同じだ」
澪が少しだけ目を見開く。
「……そう」
「だから、無理に我慢しすぎなくていい」
「我慢なんて」
「してるだろ」
「……少しは」
「少しじゃない」
「どうして分かるの」
「見れば分かる」
澪は呆れたように、でもどこか嬉しそうに息をついた。
「その言い方、ずるい」
「何度も聞いた」
「だって本当にずるいの」
九条は少しだけ笑った。
「でも、あなたが気にしてるなら、私も気にする」
「何を」
「あなたが周囲から変に思われないようにすること」
「それは俺の問題だろ」
「違うわ」
澪はきっぱり言った。
「私にとっても問題」
九条はその言葉を聞き、もう何も言えなくなった。
夕方の風が、公園の木々を揺らす。
ベンチの上で、二人は少しだけ近く、少しだけ遠いまま座っていた。
周囲の目を気にして距離を取ることもできる。
噂が面倒なら、最初から親しくしないこともできる。
けれど、今の二人はそうしなかった。
多少気にしても、関係をやめない。
それが、今の二人にできる精一杯だった。
「……放課後は、今まで通りでいいんだよな」
九条が確認するように言う。
「ええ」
「なら、変えなくていい」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、嬉しい」
澪は少しだけ笑った。
その笑顔は、昼休みの不安を少しだけ溶かしていた。
やがて公園を出るころには、空が少しだけ茜色になっていた。
「また明日」
澪が言う。
「ああ」
「学校では、少しだけ気をつける」
「それでいい」
「でも放課後は」
「今まで通り」
「うん」
澪は満足したように頷いた。
駅へ向かう道すがら、彼女は少しだけ周囲を気にしているようだったが、足取りは軽い。
九条はその横顔を見て、静かに思う。
噂は、きっとまた増えるだろう。
視線も、今より少しだけ多くなるかもしれない。
けれど、それで関係が壊れるわけではない。
少なくとも、白峰澪は自分との時間を放さなかった。
そして自分もまた、彼女との放課後を手放す気はなかった。
教室では少し距離を置く。
けれど、放課後にはいつも通り会う。
その小さな折衷案こそが、今の二人の静かな約束だった。
九条悠理は、夕暮れの空を見上げながら、そう確かに感じていた。




