第十話 月曜日の距離
月曜日。
週の始まりを告げる朝。
九条悠理は、いつもと同じ時間に学校へ向かっていた。
景色も、道も、何も変わらない。
けれど、不思議と少しだけ気分が違った。
理由は分かっている。
土曜日。
白峰澪と過ごした休日。
たった数時間の出来事だった。
本屋へ行って、カフェで話して、帰っただけ。
それなのに、以前とは何かが変わった気がする。
学校で会う彼女と、休日に一緒にいた彼女。
どちらも白峰澪だ。
けれど、今まで知らなかった一面を知ったことで、彼女という存在が少しだけ近くなった。
「おはよう」
教室に入ると、蓮が声をかけてきた。
「おはよう」
「珍しいな」
「何が」
「朝から少し機嫌良さそう」
「普通だ」
「またそれか」
蓮は呆れたように笑った。
「まあいいけど」
九条は席につき、鞄から教科書を取り出す。
その時だった。
教室の入口が少しだけ騒がしくなる。
何人かの生徒が声を潜めて話していた。
「白峰さん来た」
「今日も綺麗だな」
「本当に完璧だよな」
いつもの光景。
学校での白峰澪。
誰もが憧れる存在。
九条は自然と入口を見る。
澪はいつも通りだった。
綺麗に整えられた髪。
落ち着いた表情。
誰にでも丁寧な態度。
けれど。
九条には分かった。
ほんの少しだけ、いつもより機嫌が良い。
そして、こちらに気づいた瞬間。
一瞬だけ表情が柔らかくなった。
ほんの一秒にも満たない変化。
周囲の誰も気づかない。
けれど、九条には分かった。
澪は、小さく会釈をした。
九条も返す。
それだけ。
ただ、それだけのやり取りだった。
なのに。
休日を一緒に過ごした記憶が、その小さな動作を特別にしていた。
昼休み。
九条が弁当を食べていると、澪が珍しく近くまで来た。
「……九条くん」
「なんだ」
「少し、いい?」
「ああ」
周囲の視線が集まる。
当然だった。
白峰澪が男子生徒に話しかける。
それだけで目立つ。
蓮は少し離れた場所から、面白そうにこちらを見ていた。
九条は無視する。
「土曜日のこと」
澪が小さな声で言う。
「どうした」
「楽しかった」
「ああ」
「……それだけ言いたかった」
九条は少し驚いた。
「わざわざ?」
「わざわざ」
澪は真面目な顔で頷いた。
「だって、言わないと伝わらないでしょう」
「まあ、そうだな」
「だから」
一拍。
「ありがとう」
九条は少しだけ目を逸らした。
「こっちも楽しかった」
澪の目が少し大きくなる。
「本当?」
「ああ」
「……よかった」
その瞬間。
教室の後ろから声がした。
「白峰さんが笑った」
「え?」
「いや、珍しくない?」
周囲が少しざわつく。
澪はすぐにいつもの表情へ戻った。
「何でもないわ」
しかし。
九条には分かった。
今の笑顔は、本物だった。
放課後。
いつものように二人は教室を出る。
だが、今日は少しだけ違った。
学校の外へ出る前。
澪が足を止めた。
「悠理」
「なんだ」
「学校では……少しだけ距離を置いたほうがいいかもしれない」
九条は少し驚いた。
「どうして」
「噂になるから」
澪は周囲を見る。
「私と悠理が毎日一緒に帰っていること、少しずつ気づかれている」
「気にするのか」
「……少し」
澪は正直に言った。
「私は慣れているけど、悠理は違うでしょう」
「俺は別に」
「でも」
澪は少し心配そうに見る。
「変な噂をされたり、嫌な思いをしたりするかもしれない」
九条は少し考えた。
確かに、白峰澪という存在は目立つ。
彼女と一緒にいるだけで、周囲から注目される。
けれど。
「白峰」
「なに?」
「俺は気にしない」
澪は少し驚いた顔をした。
「本当に?」
「ああ」
「どうして」
「お前が気にしてることを、俺が気にしたくないから」
「……」
「それに」
九条は続ける。
「一緒に帰りたいなら、帰ればいい」
澪はしばらく黙った。
その表情には迷いがあった。
完璧な白峰澪ではなく、普通の少女の迷い。
「……悠理は」
「ん」
「時々、ずるいわ」
「何が」
「そういうことを、簡単に言うところ」
「普通に言っただけだ」
「それがずるいの」
澪は小さく笑った。
「分かった」
「何が」
「気にしすぎないようにする」
「ああ」
「でも」
澪は少しだけ指を立てる。
「無理はしないで」
「白峰が言うか」
「私はいいの」
「よくないだろ」
「……」
澪は黙った。
九条は少しだけ笑う。
「お互い様だな」
その言葉に、澪も笑った。
その後、二人はいつもの帰り道を歩いた。
けれど、今日は少しだけ距離を意識していた。
誰かに見られているかもしれない。
誰かに何か言われるかもしれない。
そんな小さな不安はある。
それでも。
二人の間に流れる空気は変わらなかった。
駅前に着く。
「今日はここまで」
澪が言う。
「ああ」
「また明日」
「また明日」
澪は少し歩いてから、振り返った。
「……悠理」
「なんだ」
「土曜日、本当に楽しかった」
「分かった」
「もう一回言いたかった」
九条は少しだけ笑った。
「分かったから」
「うん」
澪は満足したように頷いた。
そして歩いていく。
九条はその背中を見送る。
学校では、まだ二人はただのクラスメイト。
周囲から見れば、少し仲の良い程度の関係。
けれど。
本人たちだけは知っている。
その距離が、少しずつ変わっていることを。
名前で呼ぶこと。
一緒に帰ること。
休日を過ごすこと。
何気ない会話。
小さな約束。
その全部が、二人だけの時間になっている。
九条悠理は空を見上げた。
夕暮れの空は、穏やかだった。
明日もきっと、同じような一日になる。
でも。
その「同じ」が、以前より少し楽しみになっている。
それだけで、十分だった。




