令嬢教育
「さあ、アリスちゃん!まずは勉強部屋へ向かいましょう!」
私の足取りはこの後のお勉強を思い浮かべて鉛でも詰め込まれたかのように重い。けれど私の手を引くセレスは跳ねるように進みながら、私の顔を覗き込んで微笑んでいたわ。
「私、誰かと机を並べてお勉強することに憧れていましたの!」
弾むようなその声を聞きながら私は内心で肩を竦める。完璧な令嬢として孤独に育った彼女にとって私は待望のお勉強相手なのね。
案内された部屋に入ると温和そうな女性が山のような資料を前に控えていたわ。
「初めまして、アリスティアお嬢様。本日からお嬢様の教育を担当させていただきます」
お嬢様。……いいわね。悪くない響きだわ。
最強の魔女である私は様付けされるのが当然だけれど、お嬢様という甘美な響きは、私の可憐な容姿にはこれ以上なくお似合いじゃないかしら。自尊心が心地よく満たされていくのを感じるわ。もっと呼んでもいいのよ?
内心で悦に入りつつ教師の控えめな挨拶を聞きながら、促されるままセレスの隣に座ったわ。
私の机に基礎的な教材が置かれる一方で、セレスの前にはさらに踏み込んだ内容の厚みを持った教材が積み上げられていたわ。自分の勉強環境を整えると、セレスは楽しそうに私へ微笑みかけてから自分の手元へと視線を落としたわ。
本当に私と並んで勉強をすること自体に満足しているみたいね。
授業が始まってしばらく経っても、私の指は最初の数ページから全く進んでいなかったわ。
まず勉強しているのは歴史。この歴史書が強力な昏睡薬を紙に煎じたような代物だったわ。どこかの貴族がどこかの貴族の土地を掠め取っただの、数代前の王が何の役に立つのかもわからない法案を通しただの。
この国の欲深い者たちが領地や名誉を奪い合っただけの泥臭い記録が、視覚を素通りして脳の裏側へ滑り落ちていくのを感じるわ。正直に言って何一つ頭に入ってこないのよ。
「……アリスティアお嬢様?さきほどから手が止まっておいでですが……その、何かご不明な点でもございますか?」
視線が一点に固まったまま微動だにしない私を見て、教師が困惑を隠しきれない様子で私を覗き込んでくる。私はうつろな瞳で歴史書を睨みつけたまま、口を尖らせたわ。
「不明も何も……。強欲な人間たちが互いの足を引っ張り合った泥仕合を、なぜ私の清らかな記憶に刻まなければならないのよ……」
最強の魔女である私に退屈な文字の羅列の暗記を強要するなんて。身の程をわきまえてほしいものね。
「まあ、アリスちゃん!このページを見ただけで内容の空疎さを見抜いてしまわれたのですか?」
私が苛立ちを隠さないで教師が困ったように眉を下げていた時に、隣で自分の勉強に没頭していたはずのセレスが顔を上げて瞳を怪しく輝かせたわ。
「え?……ええ、もちろんよ」
彼女は私の手をとろけるような手つきで握ると、弾んだ声を上げたわ。
「なんて聡明なんでしょう。一瞬で本質を突くその観察眼。先生、見ましたか?うちのアリスちゃんは天才を通り越して神童ですわね!」
「そ、そうですね……。確かに、これほど早く本質に触れるお方は初めてでございますが……」
セレスに煽られるように教師が頷くと、私は少しだけ悪い気がしなくなったわ。
この程度、当然よ。私を誰だと思っているのよ。……まあ実際には本質なんて高尚なものじゃなくて、単に興味がなさすぎて一文字も読みたくないだけなのだけれど。
「流石ですわアリスちゃん!これほど神童なアリスちゃんなら基礎なんて瞬きする間に終わってしまいますわね。……あ、そうですわ。お勉強がよく出来ましたら王都の老舗から届いたばかりの菓子を一緒に食べましょうね。あちらの焼きたてのベリーのタルトもアリスちゃんのために用意させたんですのよ」
セレスが机の隅にそっと置いた箱から甘く芳醇な香りが漂ってくるわ。その暴力的なまでの誘惑に私の胃が小さく鳴ったわ。
「……別にお菓子なんてどうでもいいけれど、神童と言われた私が出来ないなんてあり得ないわ」
私の現金な反応にセレスは「うふふ」と満足げに微笑んだわ。完全に手のひらで踊らされているのはわかるけれど、お菓子の誘惑には勝てないのよ。
「先生、アリスちゃんがやる気になってくれましたわ。まずはアリスちゃんが向かうことになる王都や学院の概要も混ぜて進めてくださる?」
「承知しました。アリスティアお嬢様がこれから向かわれる王都レガリアスは、建国の王が剣を突き立てた歴史ある地であり、政治と行政の中枢機関が集まるオーレリア王国の心臓部です。しかし同時に、国内全土から物資が集まる流行の最先端でもあり、豊富な食べ物や色鮮やかな衣服が並ぶ、華やかな商業都市という側面もございます」
ふうん。私は脳内のフィルターを作動させたわ。
建国の王とか政治と行政なんていう、カビの生えた内容は耳から耳へ素通りさせてゴミ箱へ。けれど流行の最先端や豊富な食べ物っていう知識は頭に入れておくわ。美少女の私を着飾るドレスや美味しいお菓子のお店があるかもしれないもの。
「そしてお嬢様が入学されるのは国全土から貴族の子弟が集うローリエ王立学院。ここは三年間の通い制で厳格な規律のもとで学んでいただくことになります」
教師の説明が続く中で、私は何の役にも立たなそうな内容は全部ゴミ箱行きにして、自分の生活に関わる情報は頑張って頭に入れておくことにしたわ。死活問題だもの。
セレスは私のやる気を確認すると自分の手元へと意識を戻したわ。先生の話に耳を傾ける私を尻目に、彼女は淀みのない手つきで自身の課題に向き合い始めている。
それでも私の集中力が切れそうになる絶妙なタイミングになると、隣からカリカリと規則正しくペンを走らせるセレスが甘い言葉を投げかけてくるわ。
「アリスちゃん、今のところを正しく説明できたらこの箱を開けて差し上げますわ。中のタルトが冷めないうちにいかが?」
「オーレリア王国の建国は初代国王がレガリアスの地に剣を突き立てたことから始まる。王立学院は貴族の義務教育の場であり、同時に有力な騎士や学士や侍女を輩出する機関でもある。……これで文句ないでしょ?」
頭のゴミ箱から消える前に拾い上げた、どうでもいい建国の歴史と、しっかり頭に入れた学院の情報。その二つをなんとなく繋ぎ合わせて吐き出したわ。
「素晴らしいですわ、アリスちゃん!一字一句違わぬ完璧な回答です!先生、明日からはお菓子を多めに用意した方がよさそうですわね!」
セレスの称賛と次々と差し出される稀少な甘味の数々。私は「子供じみた真似を」と内心で毒づきながらも、幸福感に絆されてこの国の常識を一時的に頭の隅へ押し込んでいったわ。
もちろん座学が終わって部屋を出る頃には、ゴミ箱に入れた情報の半分以上が霧散していたのは言うまでもないけれど。
「さて、午前の座学はおしまいですわね。次は実技、淑女としてのマナーの授業ですわ。……でもアリスちゃん、その格好では先生が卒倒してしまいますわ」
セレスが藍色の魔女をまじまじと見つめて首を振ったわ。失礼ね。私の至高の装束にケチをつける気かしら。
「何を言うの。これこそが魔女としての正装よ。文句を言われる筋合いはないわ」
「アリスちゃんに私のとっておきを楽しんでもらいたいだけですの。私は一度昼食に中座しますけれど、その間に私の侍女たちにお任せしてもよろしくて?アリスちゃんは……ふふ、もうお腹いっぱいですものね」
否定はできなかったわ。セレスが用意した菓子の美味しさに私の胃袋はすでに降伏していたのだもの。
セレスは昼食に行ってしまって、侍女たちに有無を言わさぬ笑顔で連行された先は、セレスの私室に備えられた広々としたバスルームだったわ。
「何でお風呂?着替えるだけじゃないの?」
「セレスティアお嬢様より、アリスティアお嬢様を美しく整えるようにと、厳命を授かっています」
そこからはまさに磨き上げの儀式よ。
戸惑う私をよそに、香油をたっぷりと垂らした湯船に浸からされ、湯上がりの肌には高そうなクリームが塗り込まれる。自分でも自負していた肌が手慣れた侍女たちの手によって、内側から発光する真珠のような質感へと変えられていったわ。
そのままにして下ろしていた髪も丹念な手つきで梳き上げられて、繊細な編み込みを交えたハーフアップに整えられる。最後にフリルとレースが何層にも重なった淡いブルーのドレスを纏って、私は鏡の前に立ったわ。
「失礼いたしますわ、アリスちゃん。……ぁ」
昼食を終えて戻ってきたセレスが扉を開けた瞬間に、言葉を失って立ち尽くしたわ。鏡の中にいたのは磨き抜かれた白磁の肌、月明かりを紡いだような銀の髪、それらを完璧に縁取る気品に満ちた装い。
元々の素材が最高だったとはいえ、貴族の美学によって徹底的に磨き上げられた私は、自分でも見惚れるほどの絶世の美少女へと変貌を遂げていたわ。
「まあ!なんて、なんて愛らしいのかしら!まるでお砂糖細工のお人形のようですわ、アリスちゃん!」
セレスは瞳を輝かせて、吸い寄せられるように私の傍へ駆け寄ってきたわ。
「前々から可愛いとは思っていましたけれど、こうして磨き上げられると……まさに宝石ですわね。王都に行ったら学院中の視線を独り占めにしてしまうのではないかしら。あまりの美しさに私まで誇らしくなってしまいますわ」
彼女は頬を上気させて恋をしたように見つめてくる。その絶賛ぶりは演技とは思えないほど熱を帯びていたわ。
まあ、私の美貌をもってすればこれくらい当然の反応ね。
「ふふん、当然よ。私の輝きを完璧に引き立てているわ」
セレスは「あまりの眩しさにマナーの先生が気圧されてしまわないか心配ですわね」なんて言いながら、私の髪にリボンを添えたわ。
甘い菓子の余韻と完璧に整えられた自分への高揚感に包まれて、私はドレスの裾を揺らしながら実技室へと向かったわ。午前の座学と同じように適当に聞き流して終わらせてやるつもりだったのだけれど……。
「見てくれだけは貴族らしく整ったようですね。……合格点をあげましょう」
案内された実技室の扉を開けた瞬間、背筋に冷たい刃を突きつけられたような錯覚に陥ったわ。
部屋の中に立っていたのは見るからに厳格な、一寸の乱れもない姿勢で控えるロシュフォール辺境伯夫人――アンリエットだったわ。
「お、お母様?どうしてここに……」
「実技の教師には私が帰ってもらいました。アリスティア、今日から私が貴女を直接指導します」
セレスが驚きで声を上げて私は絶句したわ。座学みたいに専任の教師が来ると思っていたのに、まさか彼女が自ら鞭を振るうなんて聞いていないわよ。
「先ほど貴女がジェラール閣下に対して取った無作法な振る舞いは、ロシュフォール家の名を汚す以外の何物でもありません。私が根本から鍛え直します。完璧でありなさい。一挙手一投足、呼吸の乱れ一つさえ許しませんわ」
アンリエットは氷のような瞳でこちらを見たけれど、私は内心で鼻を鳴らしたわ。最強の魔女であるこの私が、マナーごときで苦労するはずがないもの。むしろ最高に可愛い私が歩けば、それがそのまま正解になるのが世界の理というものよ。
……そんな傲慢な自信はすぐに粉々に砕かれることになったわ。
「指先の位置が高いわ。やり直しなさい」
「……」
「返事は『はい』でしょう?もう一度」
「……はい」
「声が小さいわ。もう一度。……歩く際の衣擦れの音が耳障りです。体幹がぶれている証拠です。やり直しなさい」
アンリエットから放たれるのは、抗いようのない冷徹な威圧感に品格という名の暴力だったわ。何をやっても彼女の鋭い指摘が容赦なく飛んでくるのよ。
私のすぐ隣ではセレスが同じ動作を繰り返していたわ。けれどアンリエットはセレスに対して一言の指摘も、微かな修正の声さえ掛けないのよ。
幼い頃から厳しい教育を受けてきたのであろう彼女の所作は、洗練されていて流れるように自然だったけれど、私にはセレスと自分の動作にそこまで大きな差があるとは思えなかったわ。
同じように立って動いているつもりなのに、私のことだけは視線の配り方から指先の角度に至るまで執拗に、それこそ重箱の隅をつつくような真似をして全否定してくるわ。
……ちょっと。この女、さては完全に根に持っているわね?
繰り返される細かな指摘の連続に私は確信したわ。ジェラールへの無礼なんてただの建前ね。あの救いようのない馬鹿息子を遠征隊へ放り込むように仕向けた私に対する、母親としての復讐に違いないわ。
「やり直し。口角が下がっているわ。貴女の不遜な内心が顔に出ています」
「……っさい」
「……何ですって?」
「うるっっっさいわね!さっきから口先ばかりじゃない!そんなに言うならお手本を見せてみなさいよ!あんたの言う完璧とやらがどれほどのものか!」
あまりの理不尽さと重圧に堪忍袋の緒がついに焼き切れたわ。
背後でセレスが「ア、アリスちゃん……」と小さく息を呑んでいる。いつも笑顔を崩さない彼女でさえ、凍りついたようにアンリエット反応を伺っていたのよ。
反抗的な視線をぶつける私を、アンリエットは眉一つ動かさず冷ややかに見据えていたわ。すると、彼女は静かに一歩を踏み出す。
そこにあったのは正解そのものだったわ。
指先の動き一つ、ドレスの裾が描く曲線の一つに至るまで一寸の淀みもない。洗練を極めた所作は、長い年月をかけて彼女自身の血肉となった圧倒的な品格だったわ。
「これで理解しましたか?」
完璧だったわ。最強を自負する私でさえ言葉を失うほどに。アンリエットの指摘は嫌がらせでも復讐でもなく、ぐうの音も出ないほどの正解だったのよ。
けれど私がその正しさに納得したからといって、この地獄が終わるわけではなかったわ。
「理解したのなら、もう一度。……指先がまだ強張っているわ。やり直し」
「……はい」
「歩き出しの歩幅が乱れました。やり直し」
「……はい」
「まだです。膝の裏が伸び切っていません。やり直しなさい」
アンリエットの指摘は果てしなく執拗だったわ。逃げ場のない檻に閉じ込められて、呼吸の仕方さえ否定されるような時間が繰り返される拷問よ。
反論の余地がないほどに正しいからこそ、言い返す言葉さえ奪われて私は摩耗していくわ。完璧であることを強要され続ける息の詰まる空間は、あまりにも耐え難くて思い出してしまうわ。
私が魔法で失敗して厨房を水浸しにした時だって、追求はしなかったレヴァンの姿を。温かく柔らかい手で頭を優しく撫でてくれた、陽だまりのような温もりを。
あの優しさが恋しいけれど、今はそこへ帰ることさえ許されずに、目の前の冷徹な完璧主義女に削り取られていく。あまりの厳しさと逃げ場のない言葉の連続に、私の心の堤防がぷつりと切れてしまったわ。
「……ひっ……ぅ」
「……泣いても許しませんよ。もう一度最初から。ロシュフォール家の令嬢は絶望の中でも微笑むものです」
「……ひ、ぐ……ぅ、え、ぐっ……」
「アリスちゃん!お母様、もうそのくらいに……」
セレスの温かい言葉がトドメになったわ。
「……う、ううっ……うわあああん!もう嫌だわ!こんな鬼婆のところにいたくないー!レヴァンのところへ帰るー!」
私は恥もプライドも外聞もかなぐり捨てて泣き叫んだわ。暴言にアンリエットが僅かにこめかみを引きつらせたけれど、知ったことじゃないもの。
泣きじゃくる私を見かねたセレスが駆け寄って「よしよし、アリスちゃんは偉いですわよー」と甘やかすように抱きしめてくれる。私はセレスの温かな胸に顔を埋めて最強の魔女であることも忘れて泣き続けたわ。
「今日はもうここまでにしましょうね。お着替えして甘いホットミルクでも飲みましょうね」
セレスの言葉にアンリエットは「はぁ……」と軽い溜息をついたけれど、それ以上は何も言わなかったわ。ただ実技室を出る私の背中に、呆れと疲労の混じった視線が突き刺さっていたことだけは確かね。




