顔合わせ
夜明け前の微かな光が、空を群青色に染めていたわ。
普段ならこれからがパン屋のピークとして、慌ただしく動く時間。けれど今日からは違う。私のパン屋としての仕事は開店前の準備に凝縮されるわ。
「……これで最後ね。レヴァン、焼き上がった分はすべて並べ終えたわよ」
最後の一段に黄金色のクロワッサンを並べ終えたわ。レヴァンが額の汗を拭いながら私を見る。
「ありがとう、アリス。……でも本当にいいの?これからお勉強なのに手伝ってもらっちゃって」
「大丈夫よ。私の実家のお仕事だもの。手伝うのは当然よ」
「お姉ちゃん、いってらっしゃい~。領主様のお家でも最強でいてね」
「当然じゃない。私を誰だと思っているのよ」
まだ眠たそうな目を擦っているノアの頭を乱暴に撫で回すと、私は踵を返して二階へと向かったわ。
自室のクローゼットへ向かって、仕事用の服から決戦用装備に着替える。視線を少しずらすと、私の相棒である銀の架け橋が静かに佇んでいたわ。
「いい?貴方はここでお留守番。寂しがっても駄目よ」
今まで領主館へ行くときは、深夜だったから目立たなかったかもしれないけれど、今日からは日が出ている時に向かうことになるわ。白昼の空を飛ぶのに銀色に輝く箒はあまりに目立ちすぎるのよ。
「あと勉強するにあたって単純に邪魔だわ。……ごめんね、相棒」
階下からは開店を知らせるベルの音と、最初のお客さんの活気ある声が微かに聞こえてくる。
私は窓枠を蹴って要塞都市ベル・ガルドの空へと躍り出たわ。落下するよりも早く風魔法を使って一気に急上昇する。
正面から襲いかかる猛烈な空気の壁を障壁で滑らかに受け流しながら、地上の人間が私を見上げても、青い空に溶け込む豆粒ほどにも見えない高度まで駆け上がる。
視認不可能な高さと、認識不可能な速さ。これが最強の魔女である私が昼間の空を渡るための解よ。
すぐに領主館の上空まで到着。
テラスぎりぎりまで速度を維持しながら降下した後、羽毛が舞い降りるような静かさで着地。私専用の小窓を潜って執務室へと滑り込んだわ。
「ごきげんよう」
「来たか」
ジェラールが書類から顔を上げて短く応じる。
「それで?早速お勉強を始めるのかしら?」
「その前に顔合わせだ。家族をサロンに集めている。君の身分を正式に整えるための手続きも兼ねているからな」
……顔合わせ?お勉強かと思って気持ちを整えてきたのに、まずは挨拶なの?人間社会の儀礼というのは、どうしてこうも手間がかかるのかしら。
「不服そうにするな。ロシュフォール家の養女となる以上、避けては通れん道だ。行くぞ」
ジェラールが腰を上げて歩き始めたから、私も後ろを付いていったわ。
執務室を出て廊下へ一歩踏み出した私の視界に飛び込んできたのは、パン屋の素朴な温もりとは正反対の鼻に付くほどの富の芳香だったわ。
キョロキョロと周りを見渡しながら歩いていたら、足元の感覚に眉をよせる。
「……執務室の絨毯も大概だと思ったけれど、廊下のはさらに磨きがかかっているわね。私の足首が隠れてしまいそうなほどの厚みだわ。これ、もはや絨毯というより、刈り取ったばかりの羊の群れの上を歩かされている気分ね」
私はふかふかの絨毯に足を深く沈めながら歩く。執務室が仕事のための贅沢なら、廊下は客を威圧するための贅沢ね。
「我が家が賓客を迎えるための最低限の礼儀だ」
ジェラールが立ち止まらずに歩き続けなら答える。続いて目についたのは仰々しいポーズを決めた肖像画。私は立ち止まって指差す。
「壁に飾ってあるこのおじさんの肖像画、無駄に額縁がキラキラしすぎじゃない?」
「数代前の当主だ。指を差すな。歩け」
次に目に止まったのは、廊下の大きな窓から見える手入れの行き届いた中庭。陽光を浴びてキラキラと輝く噴水に、色とりどりの花たちや、一点の曇りもない芝生。パン屋の裏庭にある雑草が逞しく生えた光景とは月とスッポンね。
「あそこにある噴水、水が止まっていないじゃない。あの彫刻もわざわざ裸で水を吐かされているなんて、同情しちゃうわね」
「あれは魔道具を使っているんだ。いいからキョロキョロせずに前を見て歩いてくれ。首を痛めるぞ」
「無理よ。この屋敷、右を見ても左を見ても『私はお金持ちよ!見てちょうだい!』って叫んでいるもの。あまりに声が大きすぎて耳が痛いくらいだわ」
「はぁ……」
軽口を叩きながら歩みを進めると、ようやく重厚な装飾が施された扉が見えてきたわ。
扉を開いてサロンのような室内に足を踏み入れると、香木を焚き染めたような香りが私の鼻腔を突いたわ。
壁は淡いクリーム色の絹で覆われていて、額縁のような幾何学模様を描きながら並んでいる。壁の暖炉の上には大きな鏡が、室内の過剰なまでの富を、さらに倍にして見せつけようとしているわね。
天井を見上げれば巨大なシャンデリアが、数え切れないほどの細工と蝋燭の火を揺らして鎮座していたわ。
「……ねえ、あの頭上のシャンデリア、落ちてこない保証はあるのかしら?もしソファでくつろいでいる時にあれが落下してきたら、串刺しか圧死の二択よ。常に頭上に巨大なギロチンを吊るして生活するなんて、貴族というのは随分と肝が据わっているのね」
「不吉なことを言うな!」
成金部屋への嫉妬をジェラールにぶつけたら、案の定怒鳴られたわ。
中央に置かれた二組の大きなソファは、ベージュのふっくらとした生地。足元には赤い縁取りに大輪の花々を描いた、これまたふかふかの絨毯が敷き詰められている。
ソファには三人の人物が座っていたわ。
「アリスちゃん!待っていましたわ!」
一人は先日会った九歳の義姉、セレス。彼女は私と目が合った瞬間に声を上げて、今にもソファから飛び出してきそうなほど顔を輝かせたけれど、向かいに座る女性の鋭い気配を感じ取ったのか、辛うじて行儀よく座り直したわね。膝の上で小さく手を振っているのがなんとも彼女らしいわ。
その向かい。背筋をこれ以上ないほどピンと伸ばして、一分の隙もない佇まいで座る、気品と厳格さを煮詰めたような女性。彼女が扇を閉じるパチンという硬質な音一つで、部屋を支配していた豪華な空気が一気に引き締まるのを感じたわ。多分、セレスの母親ね。
さらにその隣。ジェラールをより若くして、研ぎ澄まされた刃のように鋭利にした風貌の青年。彼は騎士の正装に身を包んでいて、腰に差した剣の柄に置かれた左手の指先が微塵の揺らぎもなく静止しているわ。年頃からしてセレスの兄かしら。
ジェラールに促されてソファへ腰を下ろす。左側にセレス、右側にジェラール。テーブルを挟んだ向かいのソファに、セレスの母親と兄らしき人間。
私たちが座ると同時に、控えていた数人の使用人が茶器を手際よく並べて、透き通った琥珀色の紅茶がカップに注がれていく。役目を終えた使用人たちが一礼してすぐに部屋を出ていった後、ジェラールが静かに口を開いたわ。
「予め伝えてはいたが改めて紹介しよう。今日から我が家の一員、ロシュフォール家の養女となるアリスティア嬢だ」
「初めまして。アリスティアと申しますわ。至る身ではありますが今日からよろしくお願いいたします」
「……至らない身、ではないのだな」
ジェラールに呆れたように言われてハッとする。間違えたわ。いえ、最強の魔女であるこの私にとっては、これ以上ないほどの事実なんだけれど。最強すぎて謙遜の言葉が口に馴染まないなんて。可愛すぎるのも罪だわ。
私が「うふふ」と可愛らしく誤魔化しながら微笑んでいるところで、向かいに座っていた女性がスッと立ち上がったわ。彼女は優雅な所作で一礼し、凛とした声で名乗る。
「アンリエット・ド・ロシュフォールです。今日から貴女の母となる者として、よろしくお願いいたしますわ、アリスティア」
まずは家族としての挨拶。彼女の瞳には私に対する厳格な品定めのような光があったわ。けれど彼女はそのまま言葉を切らずに一歩私の方へ歩み寄ると、驚いたことに深く頭を下げたのよ。私のような平民の小娘に。
「そして私の息子テオドールが貴女の家族に働いた、数々の無作法と蛮行についてです。この家の母として、ロシュフォール家を預かる者として、心よりお詫び申し上げます。……許されることではないと分かっていますが、どうか我が家の誠意を受け取ってください」
夫人の声は氷のように冷徹に聞こえたけれど、家の誇りを泥に塗った身内への底知れない怒りと、それを正せなかった自責の念が確かに重く沈んでいたわ。
続いて騎士の格好をした青年も立ち上がって力強く名乗る。
「レオナール・ド・ロシュフォールだ。義兄として今日からよろしく頼む」
こっちも鋭い眼光は私を射抜くようだったけれど、彼もまた挨拶の後に表情を引き締めて礼を尽くしたわ。
「弟の不始末は兄である私の監督不届きでもある。貴女の家を壊し尊厳を踏みにじったこと、騎士としても兄としても恥じ入るばかりだ。不信が拭えぬのは承知の上だが、もしその矛先が必要なら、いつでもこの私に向けてもらって構わない。私は逃げも隠れもしない」
私は彼らの言葉の端々、視線の揺らぎを逃さず観察したわ。ジェラールと同じでこの二人は腐っていないみたいだわ。あの馬鹿息子がこの家の中でどれだけ特異点だったかがよく分かるわね。
……ふん。二人ともなかなかに潔いじゃない。合格よ。少なくとも今すぐこの屋敷を更地にする必要はなさそうだわ。
そんな挨拶と謝罪の応酬の中、隣に座るセレスが困惑したように声を上げる。
「お母様?レオナールお兄様?どうしてアリスちゃんに謝っていらっしゃるの?テオドールお兄様が何かしたというのですか?しばらく帰って来れないというお話は聞きましたけれど」
セレスの純粋な問いかけにサロンの空気が一瞬で凍りついたわ。どうやら馬鹿息子がしでかした不祥事の全容を、彼女だけは聞かされていなかったみたいね。
ジェラールが一つ溜息をつくと、セレスの瞳を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「テオドールは……あやつは、罪なき民の生活を奪い、尊厳を不当に踏みにじったのだ」
ジェラールが厳しい声で説明を続ける。話を聞いていたセレスの顔から徐々に血の気が引いていくのが分かったわ。彼女は目を見開いて私を見つめる。
「そんな……テオドールお兄様がアリスちゃんにそんな酷いことを……?私、何も知らなくて……」
セレスの瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。彼女は震える手で私の手を握り直して、何度も何度も私に頭を下げたわ。
「ごめんなさい、アリスちゃん。私、本当になんて言ったらいいか……。私の家族がアリスちゃんの大切な場所を奪うようなことをして……本当に、本当にごめんなさい……!」
……泣かせちゃったわね。あの仏頂面が標準装備のジェラールの遺伝子から、どうしてこんな天使みたいな子が生まれるわけ?突然変異にも程があるわ。
「いいのよ、セレス。もう終わったことよ」
私は少し困ったように眉を下げて、彼女の柔らかな手を優しく握り返したわ。セレスは目を潤ませながら、なおも悲しげに私を見つめ続けていたけれど、ジェラールが「挨拶と謝罪はこれまでだ」と話を先に進める。
「改めて全員で共有する。アリスティア嬢を我が家の養女に迎える理由は、我々が交わした取引に基づいている」
ジェラールがそう告げ家族へ説明を始める。私が王立学院で魔道具の技術を学ぶことを切望していること。そして最近の不穏な情勢から、セレスが学院内で危ない目に遭うかもしれないという懸念があること。
これら二つの問題を一挙に解決するために、私にはロシュフォール家の娘としての肩書きを与え、セレスの護衛という任務を担わせることに決めたこと。
私を平民としてではなく貴族として入学させるのは、騎士団を軽く凌駕するほど強大な私の力が、周囲の無礼な扱いによって暴走するのを防ぐための安全装置であり、ロシュフォール家の権威をもって不当な火の粉から守るための措置であること。
レオナールは父親が断言する「騎士団を凌駕する力」という言葉を反芻するように私の細い腕を見ていたけれど、異議を唱えることはなかったわ。
ジェラールが説明を終えると、アンリエット、レオナール、セレス、私を一人ずつ見渡したわ。
「この取引について何か異論、あるいは不明な点はあるか?」
アンリエットは静かに頷いて「異論などございませんわ。彼女がセレスティアを支えてくれるというのなら、心強い限りです」と答えたわ。レオナールは私を見つめながら何かを考え込むようだったけれど、やがて短く「……承知しました。異論はありません」とだけ答える。セレスも涙を拭いながら、「アリスちゃんと一緒にいられるなら嬉しいです」と同意したわ。
全員の承諾を確認すると、隣に座っていたジェラールが懐に手を入れて、掌に乗るほどの小さな澄んだ青色をした石を取り出す。市民が持つ円形の石みたいだったけれど、表面には何か精巧な紋章が深く刻まれているわ。家紋かしら。
「今日から君はロシュフォール家の一員だ。その証としてこれを受け取れ」
その石の意味をすぐに理解したわ。私は自分の首筋に手をかけて革紐で繋がれた六角形の石を引き抜く。
「こっちはどうするの?」
「それはこちらで手続きしておく」
ジェラールが手を差し出してきたので、私は手元に残った六角形の石を彼の方へ「ん」と無造作に突き出す。彼は呆れたように深く長いため息をついたわ。
最強の魔女である私を前にして、まるで手のかかる子供を相手にしているような態度はなかなかに不敬だけれど、そのまま大きな手のひらを広げて石を受け取る。
その様子を正面で見ていたアンリエットは、驚いたように何度か瞬きをしていたわね。これほどまでに遠慮のない礼儀を欠いた振る舞いをする幼い少女なんて、彼女の人生では一度も目にしたことがなかったのでしょうね。
この迂闊な振る舞いを私は後悔したわ。文字通り後で泣くほど悔やんだわね。
「さて、顔合わせは終わりだ。セレスティア、アリスティア嬢……いや、アリスティアを案内してくれ。お前たちのための教育係が待っているぞ」
「はい、お父様!さあ行きましょう、アリスちゃん!」
セレスに手を引かれて私はサロンを後にしたわ。




