実家
「さて、姉妹の設定も決まったところで……。アリスティア嬢、君が王立学院で具体的に何を学びたいのか、改めて詰めておこう」
領主館の執務室。深夜の密談は私とセレスの顔合わせという最大の山場を越えて、具体的な入学手続きの話へと移っていたわ。隣ではつい先ほど姉妹になることが決まったばかりのセレスが、眠そうな目をこすりながらも興味津々な様子で私たちの会話に耳を傾けている。
「君の希望は魔道具の基礎から設計までを体系的に学ぶことだったな。ならば希望するのは学士科ということで相違ないか?」
ジェラールの問いかけに、私はティーカップを置く手を止めて小首をかしげたわ。
「……ガクシカ?」
眉をひそめて尋ね返す。何よそれ。聞いたこともないわ。
ジェラールが持っていたペンを取り落とす。カタリ、と乾いた音が静寂な執務室に響いたわ。彼は彫像のように固まって、精悍な顔を引きつらせて私を凝視している。隣に座っていたセレスも唖然とした顔で私を見つめていたわ。
ジェラールは咳払いを一つして気を取り直すと、手元の書類へ視線を戻す。けれど瞳には微かな不安の色が宿り始めていたわ。
「念のために確認しておこう。……アリスティア嬢、君は王立学院の授業についていけるだけの、一般教養を持ち合わせているのかね?」
「一般教養?」
「そうだ。平民と貴族では学ぶカリキュラムが違う。読み書き計算は当然として、歴史、地理、礼法……そういった基礎知識だ」
私はふんと鼻を鳴らしたわ。
「侮らないでちょうだい。私を誰だと思っているの?最強の魔女よ?知識の泉とは私のことよ」
「ほう、それは頼もしい。では前提の前提から質問しよう。我々が住まうこの国の名前は?」
私は自信満々に口を開こうとして――止まったわ。脳裏に浮かぶのは深い森の景色と要塞都市ベル・ガルドの石畳。それからパン屋の香ばしい匂い。
……あら?この国の名前?
森にいた頃は、世界=森だったわ。ここに来てからは、世界=森と要塞都市ね。国の名前なんて魔獣を倒すのにも、パンを売るのにも必要なかったもの。
「……ここよ」
「ここ?」
「そう、ここ。人間がたくさん住んでいる国」
ジェラールの眉間の皺が深くなったわ。彼は震える手でこめかみを押さえている。聡明そうなセレスでさえ「えー」という顔で口元を手で覆っているわ。
「では、我々が仕える国王陛下の御名前は?」
「……陛下?」
「それは敬称だ。名前を聞いている」
「……王様?」
ジェラールが天を仰いでしまったわ。深淵よりも深いため息が部屋の空気を重くする。
「嘘だろう?君ほどの力を持つ者が、なぜそこまで無知なんだ!?」
「失礼ね!無知じゃないわ。興味の対象が偏っているだけよ。魔力については誰にも負けない自信があるわ」
「王立学院に通うのに国王陛下の名前も知らないのは「うっかり」では済まされないんだぞ!」
ジェラールの怒号が飛んだけれど私は唇を尖らせる。ジェラールは呆れ果てた顔で力なく椅子に沈み込んだ後、私の胸にある六角形の石を見て尋ねたわ。
「……はぁ。ここに来る前は一体どこで何をしていたんだ」
「あちこちフラフラしていたのよ。人里離れた……すごい田舎で静かに暮らしていたりね」
適当に言葉を濁したわ。森の奥で数百年間引きこもっていたなんて言ったら、年齢詐称がバレるどころか、変な研究対象にされかねないもの。
「だとしても、この国の名前くらいは耳にするだろう?」
「しょうがないじゃない。街に来てからは、ここの生活に馴染むのとパンを売るのに必死だったんだもの。国や王様の名前なんて知らなくても生きていけるわ」
実際に言葉も通じない状態から、文明社会に適応するのは大変だったのよ。
「……この街には私が運営している初等学校があるはずだ。ノア嬢も通っているだろう?なぜそこで学ばなかった?」
そう。ノアが毎日通っている学校。読み書きや計算、そして基礎的な国の歴史や地理を教える場所。私は視線を逸らしてボソボソと答えたわ。
「……お金がなかったのよ」
「む?」
「ここに来た当時は一文無しだったし、レヴァンに拾われたばかりの居候の身で、学費まで出してなんて言えなかったわ。それに……」
私は言葉を飲み込む。まさか最強の魔女のプライドが子供たちに混じって「あいうえお、から勉強することを許さなかったのよ」なんて言えるわけないじゃない。
「文字や計算は?出来るのか?」
「それは大丈夫よ。レヴァンが教えてくれたし、ノアが持っていた教科書を借りて覚えたから、バッチリよ」
「そうか。……それだけが唯一の救いだ」
ジェラールは心底安堵したように胸を撫で下ろしたわ。
「いいか、アリスティア嬢。王立学院は貴族の子弟が集まる場所だ。そこで『国王陛下の名前なんて知りません』などと言ってみろ。田舎者と笑われるどころか、どこの密偵だと疑われて尋問されるぞ」
「うっ……」
「入学してからも地獄だぞ。授業についていけずに恥をかき孤立。プライドの高い君のことだ、最終的には登校拒否……そんな未来しか見えん」
最強の魔女が不登校。……笑えないわね。セレスも心配そうに私を見ているわ。
「アリスちゃん……。お勉強、あまり得意じゃないの?」
「得意よ!ただ、ちょっとやる気が起きない分野があるだけ!」
「それが一番の問題なのだがな……」
ジェラールは頭を抱えた後、ふと思い出したように私を見る。
「ところで、レヴァン殿やノア嬢には学院に行くことは話してあるのか?」
「いいえ?まだよ。今日決まったばかりだもの」
「普通は先に相談しておくものだろう。ならば、きちんとした説明と挨拶が必要だろうな」
ジェラールは一つ頷くと、覚悟を決めたように顔を上げたわ。
「手続きや根回しには時間がかかる。私が書類上の父親になるための養子縁組の処理も必要だ。その間、君には徹底的に勉強してもらう」
「勉強?」
「そうだ。この国の常識、貴族としての作法、他にも諸々だ。幸いセレスティアには優秀な教師をつけている」
ジェラールは何やら書類を捲りながら私を見据える。
「明日は店の方への説明に充てるといい。勉強には明後日から参加しろ」
「えー」
私が嫌そうな声を挙げても、ジェラールは有無を言わせぬ目で指差したわ。
「赤ん坊レベルの知識を、せめて世間知らずの田舎娘レベルまで引き上げるんだ。いいな?……セレスティア、アリスティア嬢のサポートを頼めるか?」
「はい、お父様。アリスちゃんとは姉妹ですから一緒に頑張ります」
セレスが嬉しそうに私の手を取ったわ。私は渋々頷く。
お勉強なんて面倒くさいことこの上ないけれど、レヴァンとノアを守るための力を得るためだもの。甘んじて受けて立とうじゃないの。
翌日の夕食後。片付けを終えて、温かい紅茶の香りが漂うリビングで口を開いたわ。
「レヴァン、ノア。……話があるの」
私の妙に真剣な声色に二人が手を止めてこちらを見る。
「実はね、しばらくしたらこの家を出ることにしたわ」
カチャン、とレヴァンが持っていたカップがソーサーにぶつかる音がする。ノアが目を丸くして私を凝視したわ。
「……出るって、どこへ行くの?」
「とりあえずは王都よ。王都にある貴族の学校に通うことになったの。あの領主の養女としてね」
二人に心配をかけないように、なるべく毅然とした態度で告げる。
「理由は二つあるわ。一つは……私の体のこと」
自分の平坦な……いえ、スリムな体に視線を落とす。
「この街に来て二年半近くになるわ。ノアはぐんぐん伸びているのに私は変わっていないから、そろそろ周囲に誤魔化せなくなってきたのよ。これ以上ここに居たら、成長しない不気味な少女なんて噂が立って、店に迷惑がかかるわ」
レヴァンが悲しげに眉を寄せたのが見える。
「もう一つは勉強したいことがあるの。この店と貴方たちを守るための魔道具を作る技術を学びたいのよ。だから行ってく……」
「やだッ!」
ノアが言葉を遮って椅子から飛び降ると、私の元へ駆け寄って腰にしがみついたわ。
「やだ!行かないで!お勉強ならここでしたらいいじゃん!」
「ノア……」
「お姉ちゃんがいなくなるなんて嫌!」
大粒の涙をこぼすノアに私はハンカチを取り出して優しく拭う。
「泣かないで、ノア。ずっと会えないわけじゃないわ。とりあえず学院を卒業したら帰ってくるわ」
「うぅ……ぐすっ……ほんと?」
「ええ、本当よ。それに私が帰ってくる頃には私はもっと凄くなっているわ」
しゃっくりを繰り返すノアを安心させるように、私は最強の魔女らしく不敵な笑みを作ってみせたわ。
「ここを最高の店に改造するために、王立学院の技術を全部盗んでくるもの」
ノアの濡れた頬を両手で挟んで悪戯っぽく語りかける。
「ただ直すだけじゃないのよ?世界中の誰も手出しできない最強のパン屋さんにしてみせるわ。想像してみて?泥棒が入ろうとしたら電撃が走って、火事になったら自動で消火して、朝起きたら勝手にパンが焼けている。そんな夢のお店にしてあげるわ!」
ノアは赤くなった目をこすりながら、それでも私の斜め上の提案に泣き笑いのような、くしゃっとした表情を見せてくれたわ。
「なにそれ!パン屋さんじゃなくてお城みたい!」
「そうよ、お城よ。ノアはお姫様になるの」
「じゃあ、お土産はいっぱい買ってきてね!王都の美味しいお菓子!」
「任せておきなさい」
二人して笑い合う。空気が和んでノアが落ち着いたところで、レヴァンがふぅと息を吐いたわ。
「やっぱり、いつかこの日が来ると思っていたわ。それに……ふふ、貴方をこんな小さなパン屋に閉じ込めておくのは世界の損失だものね?」
レヴァンも目が潤んでいたけれど、少しからかうように言ったわ。
まあ、それは否定しないわ。誰もが欲しがる偉大な魔女である私に会えないのは、世界にとっての損失ね。でも私の気持ちは違うわ。
「世界の損失なんて知ったことじゃないけれど、私にとってこの店は世界中のどんな宮殿よりも居心地が良い場所よ。……でも私の体が止まったままだから、ずっと一緒には居られないのよ」
不老という特質を持つ私が、普通の人間のように同じ場所に根を下ろすことは難しいわ。
「だからこれからは、たまに帰ってくる実家にさせてもらうわ。……それでもいいかしら?」
「ええ、もちろんよ」
レヴァンは目元を拭って晴れやかに微笑んだわ。
「いつだって帰ってらっしゃい。ここは貴女の家よ」
その言葉に私の視界も少し滲んだわ。
いけない。湿っぽい別れは趣味じゃないわ。私は最強の魔女アリスティア。旅立ちはいつだって華麗でなければならないのよ。いえ、まだ旅立たないけれど……。
「ごめんね、レヴァン。こんなに急な話で」
私が謝ると、レヴァンはふぅと息を吐いて清々しい顔で肩をすくめたわ。
「そうね。びっくりしたわ」
「……うん?」
言葉とは裏腹にあまりに落ち着いた様子に、私は思わず声を漏らす。レヴァンは可笑しそうに口元を緩めたわ。
「貴女がさらっと言った領主様の養女になるって言葉に対して、ちっとも驚いていない自分自身にびっくりしたのよ」
レヴァンは呆れたように笑う。
「普通なら声も上げられないくらいにびっくりする内容なのに『ああ、アリスならやりかねないわね』って納得しちゃったのよ」
レヴァンは「慣れって怖いわ……」と苦笑したわ。どうやら私は彼女の驚きのハードルを空高くまで上げてしまったようね。
「むぅ。悪かったわよ」
私は少し唇を尖らせて気まずそうに視線を逸らす。
「もういいわ。それで、いつ出発なの?」
「えっと、入学のための勉強があるから、実際に発つのはもう少し先ね。それまでは領主館に通って毎日勉強することになるわ」
私がそう伝えるとノアが質問を投げかけてきたわ。
「ねえ、お姉ちゃん。卒業したら帰ってくるのは分かったけど、長いお休みはあるの?そういう時は帰ってきて遊べるよね?」
休み?
私の思考がピタリと停止したわ。……あら?肝心の学院の仕組みって聞いたかしら?全寮制なの?通いなの?長期休暇はあるの?そもそも何年通うの?
私は視線を激しく彷徨わせて、しどろもどろに答える。
「あー……うーんと……そ、それはね……たぶん、ある……はずよ?」
「お姉ちゃん?」
ノアが不審そうに首を傾げたわ。
「貴族の教育は厳しいから……もしかしたら、数年は戻れないかも……しれないわ?いえ、戻れるの……かしら?」
歯切れの悪い回答にレヴァンの表情が変わったわ。寂しさから心配と呆れが入り混じった顔へ。
「……アリス?」
レヴァンが身を乗り出して顔を覗き込んで来たわ。やめて。今は見ないで。
「貴方まさか……何も知らずに行くって決めたの?」
「い、いやだわレヴァン。大まかには知ってるわよ?勉強する場所でしょう?」
「そういうことじゃなくて!学院に内情に関してのことよ!」
「が、ガクシカがあるって聞いてるわ!……それ以外は……神のみぞ知る……っていうか、貴族のみぞ知るっていうか……」
私が冷や汗ダラダラで言い淀むと、ノアまでがジト目で私を見てきたわ。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫?騙されてない?怖いおじさんに連れて行かれるんじゃないの?」
「ち、違うわよ!ちゃんとした王立学院よ!」
八歳児に心配される最強の魔女。威厳もへったくれもないわね。
「と、とにかく!今日が最後の夜ってわけじゃないの!」
咳払いをして微妙な空気を強引に断ち切ろと試みる。
「明日からは領主館に通いで勉強しに行くだけだから!出発の日までは毎日ここに帰ってくるわ。詳しいことは領主を問い詰めてくるから、今日のところは安心してちょうだい!」
私が言い切ると、レヴァンは深いため息をついたわ。
「……はぁ。領主様の養女だなんだと言っても、中身はやっぱり手のかかる子供ね」
「私は高貴な大人の……」
「いいから!しっかり聞いてきなさい!」
「お姉ちゃん!」
レヴァンとノアの剣幕に言い返す言葉を飲み込んで、私は頷くしか出来なかったわ。




