間違い
「ただいまー!ってまだ入ってないけど」
ノアが元気よく駆け出して、レヴァンが微笑みながらポケットから鍵を取り出す。私も最高の休日の締めくくりに向けて、今日一番のドヤ顔を準備したわ。
さあ、凱旋よ。私たちは世界で一番幸せな家族として、我が城へ帰還するのよ。
――その時だったわ。
「……あら?」
ドアを開けようとしていたレヴァンの動きがピタリと止まる。
「どうしたの?鍵穴が見つからない?」
そんなあるはずがないことを言って、二人の背中越しにドアを見た後、私の顔からドヤ顔が剥がれ落ちたわ。
鍵穴が本当にない。正確には鍵穴があったはずのドアノブ周辺が、鈍器で殴られたように砕け散って無残な空洞を作っていたのよ。ドアは半開きになって、風が吹くたびにギッギッと不吉な音を立てて揺れていたわ。
「……レヴァン、ノア。下がって」
背筋に氷のような冷たいものが走った。漂ってくるのは小麦の香りじゃなくて、泥と鉄の錆びたような臭い。私はノアとレヴァンを背に庇って、慎重にドアを押し開けたわ。
ギギィ……。
嫌な音を立ててドアが全開になる。その先に広がっていた光景を見た瞬間、私の思考は真っ白に染まったわ。
ドサッ。
足元で鈍い音がした。私の手から力が抜けて、大切に抱えていたホールケーキの白い箱が床に落ちたのよ。けれど今の私にはそれを拾うことさえできなかったわ。視界のすべてが、目の前の現実だけに固定されてしまっていたから。
「…………ぁ」
そこにあったのは、今朝まで私たちが笑い合っていた温かいリビングではなかったの。
破壊。その二文字だけが部屋全体を支配していたわ。
パンを並べる陳列棚はなぎ倒され、ガラスケースが粉々に砕け散り、夕日を反射してキラキラと残酷に輝いている。床一面には明日の仕込みのために用意していた真っ白な小麦粉がぶちまけられ、泥足で踏み荒らされて汚泥のように黒ずんでいる。大切にしていた食器は見る影もなく破砕され、壁には何かを叩きつけたような亀裂が走り、焼き窯の中には水が注ぎ込まれて泥だらけになっていたわ。
金目のものを探した泥棒の仕業?いいえ、違うわ。これは略奪じゃない。破壊よ。この店を、この生活を徹底的に踏みにじって、二度と立ち上がれないようにしてやるという粘着質で陰湿な悪意。
「うそ……やだ、お店が……!」
背後でレヴァンが崩れ落ちる気配がした。ノアの喉からヒッという短い悲鳴が漏れ、私のスカートを強く握りしめてガタガタと震え始めたわ。
私の腹の底から煮えたぎるような熱い泥が噴き上がってくる。酒場の時のような感情が抜け落ちた冷たさとは真逆だわ。
カツ、カツ、カツ……。
静まり返った店内に、場違いなほど軽快な金属的な足音が響いた。二階へと続く階段から数人の影が姿を現す。
「おやおや。ずいぶんと風通しが良くなったじゃないか」
先頭に立っていたのは見覚えのある金髪の男だったわ。豪奢なマントに白銀の鎧。酒場で私に絡んできた金髪の若い騎士。彼はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、まるで自分の庭であるかのように瓦礫の上を歩いてくる。
「……貴方ね」
私が地を這うような低い声で呟くと、彼は大げさに肩をすくめて見せたわ。
「人聞きが悪いな。私は巡回中にこの店のドアが開いているのを見つけてな。泥棒が入ったのかと心配して、こうして調査してやっていたところだ」
白々しい嘘。彼の後ろに控える取り巻きだと思う騎士たちが、薄ら笑いを浮かべているのが何よりの証拠。
――間違いだったわ。
金髪は足元に転がっていた箱を拾い上げた。中身が少し飛び出していて、真鍮製の美しいボディが覗いている。それは私が今朝レヴァンに贈ったばかりの泡立て器の箱だったわ。
「ほう。下層民にしては高価な品だな。盗品か?」
「違います!それはアリスが……!」
レヴァンが叫んだ声を遮って、金髪は無造作に泡立て器を踏みつけた。
ガシャリ。
精巧な歯車が歪み悲鳴のような音を立てて砕ける。レヴァンの夢がただの鉄屑に変わった瞬間だったわ。
「あぁ……っ!」
「おっと手が滑った。まあどうせ盗品だ。壊れても問題なかろう?」
金髪は笑いながら靴底でグリグリとそれをねじり潰した。私の身体の奥底で何かがプツリと音を立てて理性が焼き切れたわ。視界が赤く染まっていく。
――こいつを生かしておいたのが間違いだったわ。
今すぐこいつの首をねじ切ってやる!
「……ッ!」
レヴァンが私の腕を掴んだわ。彼女の手は震えている。怒りじゃない。恐怖で震えているのよ。
レヴァンは私の前に出るようにして、金髪に向かって頭を下げたわ。
「……申し訳ありません騎士様。それは頂き物です。決して盗品などでは……」
「口答えをするな平民!」
金髪が声を荒らげると、レヴァンはビクリと肩をすくめたわ。その姿を見て金髪は満足そうに鼻を鳴らす。
「フン。まあいい。今日は警告だけにしておいてやる」
金髪は私の顔を覗き込んで、ねっとりとした視線で舐め回してきたわ。
「身の程を知れ。お前のような素性の知れない余所者が転がり込んでいるから、この店は穢れるんだ。……次からはもっと教育が必要になるかもしれんぞ?」
彼はそう言い捨てると、出口へ向かって歩き出した。
その途中に白い箱があったわ。私が落としたホールケーキの箱。金髪はそれに気づくとニヤリと笑いわざとらしく足を上げる。
グシャリ。
生クリームとスポンジが潰れる鈍い音がしたわ。箱の隙間から赤いイチゴが血のように滲み出る。
「おっと、ゴミが落ちていたな。掃除しておいてやったぞ」
金髪は下卑た笑みを浮かべると、取り巻きの騎士からあるものを受け取る。銀の架け橋……私の箒だわ。
「平民には過ぎた代物だからな。貴族である私が有効活用してやろう」
「……」
「ん?なんだ?文句があるのか?」
私がその顔を焼き尽くすような眼光を向けると、金髪は嘲るように口角を吊り上げただけで背を向けた。反論なんて聞く価値もないと言わんばかりの、徹底して興味なさげな態度だわ。
「文句があるなら上層区に来い。まあ、門前払いがオチだろうがな」
彼らは下卑た高笑いを残して店を出て行った。
遠ざかる足音。金属鎧の擦れる音。それらが完全に聞こえなくなっても、店内の空気は凍りついたままだったわ。残されたのは破壊された店と潰された夢の残骸や、踏み潰されたケーキから漂う甘ったるくて胸が悪くなるような匂いだけ。
「…………」
私は拳を握りしめすぎて、爪が皮膚に食い込んでいたわ。血が出ているかもしれないけれど痛みなんて感じない。ただ身体の奥底から、ドス黒い何かがせり上がってくる感覚だけがあったわ。
殺してやる。今すぐ追いかけて、あいつらの手足を一本ずつねじ切って、汚い口を永遠に塞いでやる。
「……アリス」
私が踵を返そうとした時にレヴァンが立ち上がった。彼女は無言で踏み潰されたケーキの箱を拾い上げる。中身はぐちゃぐちゃよ。あんなに美味しそうだったクリームが、泥と混ざって見る影もない。
「……床掃除の手間が省けたわね」
レヴァンは震える声でそう言ったわ。無理に作った笑顔。その頬には涙の筋が何本も走っているのに。
「さあ、二階へ行って今日は休みましょう。ここは……明日の朝また片付ければいいわ」
「でも……!」
「いいから!……お願いアリス。今は、休ませて」
レヴァンの悲痛な叫びに私は言葉を失う。彼女は震えているノアの手を引いて、逃げるように階段を上がっていった。私は砕けた泡立て器の残骸を呆然と見つめた後、重い足取りで自分の部屋に戻ったわ。
――そこもまた、無事では済んでいなかったわ。
部屋のドアは半開きになってノブが歪んでいる。中に入ると、足の踏み場もない惨状が広がっている。引き出しはすべて引き抜かれ、私のささやかな私物や下着が床にぶちまけられていたわ。
あいつらは店だけじゃなく、二階の部屋にも侵入していたのよ。私は震える手でドアを閉め、重い家具を引きずってバリケードにしたわ。
そうしてようやく外界との繋がりを断つことが出来て、そのままドアに背を預けてズルズルと座り込む。膝を抱えて散乱した部屋の隅で顔を埋め、暗闇の中で抑え込んでいた感情が決壊したわ。
「殺して……やる。殺して、やる……ッ」
膝に顔を埋めたまま喉の奥から絞り出した。
「殺してやる。殺してやる、殺してやる……!」
あいつらの喉を焼き切って、目玉をくり抜いて、指を一本ずつへし折って、この店にしたこと以上の絶望を与えてから、地獄へ送ってやる。
――けれど。
脳内でどれだけ残酷な報復を遂げても、私の胸の奥で暴れまわるマグマのような怒りは収まらなかったわ。むしろ急速に冷たくなって、重たい鉛のような何かへと変わっていく。
だって、あいつらを殺したところで何になるの?壊された泡立て器は戻らない。踏み潰されたケーキは戻らない。何よりレヴァンとノアの心に刻まれた恐怖は消えない。あんなに震えていたノア。無理やり笑おうとして泣いていたレヴァン。
どうしてこんなことになったの?どうしてあいつらは来たの?
……答えなんて考えるまでもないわ。あいつらの狙いは私の箒だった。私が譲らずに、私の態度が気に食わなかったから、私への当てつけに、店を壊したのよ。
全部、私のせいじゃない。
身体の震えが止まらない。怒りによるものじゃなく、あまりにも残酷な真実に気づいてしまったことへの恐怖だったわ。
――私が間違っていたのよ。最初から。何もかも。
私の存在が異物だったから。私が箒を譲らなかったから。私が酒場で目立ったから。私がレヴァンとノアの家に転がり込んだから。私が人間の街に来たから。私が森を出たから。私が分不相応な幸せを望んだから。だからあいつらはここに来たのよ。
この惨状はすべて私が招いたことだわ。
こういうことが起きないように魔女の旅の心得を定めたんじゃなかったのかしら。正体は隠して深入りしないで甘い汁だけを啜る。
実際にやったことは、魔法を気軽に使って、レヴァンとノアに深入り、二人の笑顔で満足する。何一つ守れてないじゃない。
「……はぁ」
私が不老不死の魔女であることを隠して、ただの少女のふりをして家族ごっこに興じていたツケよ。平和ボケしていたわ。ここは人間の世界、理不尽で汚い世界だったのに。
「……私が、いなければ」
喉から血のような言葉が漏れたわ。
私がこの家に来なければ、二人は貧しくても平穏に暮らせていたはずよ。レヴァンは古い泡立て器で腕を痛めながらも、笑顔でパンを焼いていたでしょう。ノアは小さくなった靴を履きながらも、元気に走り回っていたでしょう。
裕福ではないけれど幸せに暮らしていたはずよ。誰かに憎まれることもなく。今日のように、私のとばっちりで恐怖に震えることもなく。
私の傲慢さが、私の軽率さが、彼女たちの日常を破壊したのよ。
「…………」
店を直しても、あいつらの悪意は残っている。あいつらは学習したのよ。この店の住人は抵抗しない、何をしてもいいと。
私が箒を譲らなかったくらいで、こんなことをしてくるのよ。店を直せばまた壊しに来るでしょう。次はもっと酷いことをするかもしれない。レヴァンが傷つけられるかもしれない。ノアが攫われるかもしれない。
私がここにいる限り危険は去らないわ。私が笑えば笑うほど影が二人を飲み込んでいくのよ……。
自責の念に囚われている間に、夜の帷はとっくに降りていたわ。窓の外から風の音が聞こえる。まるで私を責めるような冷たい響きね。
ゆっくりと顔を上げる。涙は枯れていたわ。代わりに、冷たく静かな決意が心の中に満ちている。償わなきゃいけない。壊してしまったものの代償を。奪ってしまった安寧を。
私が取るべき行動。
――害虫を駆除して損害を補填。そして消えること。
私は立ち上がって、荒らされたクローゼットへと歩み寄る。聖櫃二号と呼んでいた宝物庫は、無残にこじ開けられていたわ。レヴァンからもらった色んな服が、床に散乱して泥ついた靴跡が残されている。
一番奥に隠してあった藍色の三角帽子とローブは、くしゃくしゃになりながらも残されていたわ。金目のものに見えなかったから捨て置かれたのでしょう。
当然のように私の片割れである銀色の箒はどこにもなかったわ。あいつらが奪っていったのよ。私の大事な相棒を。
私は帽子とローブを拾い上げて身につけた。これが私にお似合いよ。誰からも愛されず孤独に生きる魔女の装束。
そして散乱した荷物の中から黒革のバッグだけを拾う。私の痕跡は出来るだけ残さない。あいつらを殺して、箒を取り返し、金を奪ったら森に戻る。二度と日の当たる場所に出ない。レヴァンとノアともお別れ。
それでいいわ。それが相応しい末路よ。短い間だったけれど夢のような時間だったわ。温かいスープ。焼きたてのパンの香り。ノアの笑い声。レヴァンの優しい手。それらを思い出にする資格すら私にはもうないけれど。
「さようなら、レヴァン、ノア。……本当にごめんなさい」
私は誰にも聞こえない声で呟いたわ。
バリケードをどけて部屋を出ると、廊下は静まり返っている。レヴァンとノアが寝ている部屋の前を通り過ぎる時、心臓が引き裂かれそうになったけれど足は止めない。
一階へ降りる。帰ってきたときと変わらない惨状を見ても、もう心は揺れなかったわ。今から行く場所はもっと酷いことになる。上層区を血の海に変える。奪ったお金でここに最高の職人を送り込む。それが私にできる最後の、そして唯一の家族孝行よ。
私は壊されたドアノブに手をかけたわ。隙間から冷たい夜風が吹き込んでくる。
さあ、行きましょう。私の居場所なんて、最初からどこにもなかったのだから。




