嫌悪
「――おい待て」
ご機嫌で有頂天で夢見心地な私の行く手を阻むように、無遠慮な声が掛かったわ。
「……?」
私が足を止めると、近くのテーブル席から一人の男が立ち上がったわ。豪奢なマントに磨き上げられた白銀の鎧。この下層区の酒場には不釣り合いなほど煌びやかな格好をした金髪の若い男。
顔立ちは整っているけれど、酒が入っているのか赤く上気していて、目は傲慢に細められていたわ。
……うわぁ、面倒くさそうなのが出てきたわね
私の面倒ごと回避センサーがけたたましく警報を鳴らしたわ。彼は騎士。この街でふんぞり返ることを許された貴族ね。
さりげなく周囲の様子を窺う。周りのテーブルでは同じような鎧を着た男たちがジョッキを傾けていたわ。
同じテーブルにいた男たちは、鎧の装飾が簡素で背中にマントも羽織っていない。彼らは立ち上がったこの金髪を見て眉をひそめている。多分平民上がりの従士ね。
他のテーブルにいる金髪と同じような身なりをした年配の騎士たちも、ジョッキを傾ける手が止まって苦々しい表情を浮かべている。「またか」「酔っ払いが」……そんな心の声が聞こえてきそうなほど、彼らの視線は冷ややかだったわ。
どうやらこの金髪、騎士団の中でも少し浮いている存在のようね。けれど誰も止めようとはしない。彼が高位の貴族だから?それとも単に、酒の席での揉め事に関わりたくないからかしら?
「その細腕で大樽を運ぶとはな。……それに随分と珍しい物を持っているな」
彼は私と手にある相棒、銀の架け橋をじろじろと見ていたわ。新しい玩具を見つけた子供が値踏みするような無遠慮な視線ね。
私はあらかじめ考えてあった設定を思い出しながら、可憐な看板娘モードのスイッチを入れる。
「ええ。亡くなったお祖母ちゃんの形見なんですけれど、これを握ると不思議と力が湧いてくるんですのよ。きっと天国のお祖母ちゃんが応援してくれているんですわ」
誰も信じないような大嘘を、世界一可愛い上目遣いと言葉選びで言い放つ。普通の男なら「な、なるほど……健気だ」と鼻の下を伸ばしてイチコロのはずよ!
けれど彼は違ったわ。ニヤニヤと笑いながら私に近づいてくる。酒臭い息が漂ってきて不快だわ。
「平民の小娘が持つには過ぎた代物だな。俺によこしてみろ」
出たわ。ジャイアニズム。お前のものは俺のもの。権力を持った人間がよくやる合法的なカツアゲね。
私はスイッチを切り替えて、可憐な不憫少女モードになる。ここで騒ぎを起こして店長さんに迷惑をかけるわけにはいかないもの。
「……これはお祖母ちゃんが残してくださった唯一の形見ですの」
相棒を胸の中にしまい込むように抱えて、悲哀の表情でかわそうとしたわ。けれど金髪は引かない。むしろ興味をそそられたように一歩踏み込んできたわ。
「ほう……なら確かめてやろう」
彼はそう言うと懐から何かを取り出した。それは掌に収まるほどの大きさの、モノクルのような形をした硝子細工。縁には複雑な紋様が刻まれているわ。
……何かしら、あれ。老眼?
小首をかしげていると彼はその硝子を右目に当てがって、私が胸の中にしまい込んだ相棒を覗き込むように視線を向けてくる。
少し経ってからモノクルを外して、指で弄びながら言ったわ。
「柄と穂先……全体から濃密な魔力の反応が滲み出ているぞ」
――は?
私は目を見開いたわ。
反応がある?魔力が滲み出ている?……待って。もしかして、魔力感知!?
「こいつは上等な素材になる。ますます平民には過ぎた代物だな」
衝撃が走ったわ。私は知らなかった。この世界の人間が、これほど異質な魔力感知の術を持っているなんて!
私が使っている魔力感知は、自分の魔力をソナーのように放って反響を探る技術。けれど彼のは違うわ。何の波動も放たずに、モノクルを通して目で見るだけで看破した。
あれは対象をスキャンして魔力を視覚化、あるいは数値化して読み取るための魔道具なんだわ!あんなスカ○ターみたいなのがあるなんて!
「平民風情がなぜこのようなものを隠し持っている?」
金髪が追及するように睨みつけてくる。
けれど不可解だわ。あの魔道具を使っても、私の底なしの魔力には気づいている様子がないわ。私の知らない制限があるのかしら?それとも彼の目が節穴なだけ?
……いいえ、そんな考察は今はどうでもいいわ。それよりも、なんて無作法なのかしら。
勝手に私の相棒の魔力をスキャンするなんて、挨拶もなしに鞄の中身を漁るようなものじゃない。文明人にあるまじき野蛮な行為だわ。
……あら?お前が言うなという声が聞こえてくるわ。私はいいのよ。可愛いから。
「隠しているだなんて、滅相もございま……」
「口答えをするな!」
金髪が声を荒げる。周囲の客たちがビクリとして視線を向けるけれど、相手が騎士だとわかると関わりたくないように目を逸らす。他の従士たちや騎士たちも「おいおい……」と眉をひそめるだけで動こうとしないわ。
「貴様のような平民が、そのような強力な反応を示すものを所持していること自体が不審だ。盗品か?それとも違法な取引で手に入れたか?」
「違います!これはお祖母ちゃんが……」
「問答無用だ。没収する」
彼はニヤリと下卑た笑みを浮かべる。
その顔を見た瞬間、私の胸の奥に忘れかけていた黒い感情が蘇ってきたわ。
私はこの街に来てから、レヴァンやノアと暮らして街の人々とも触れ合ってきた。レヴァンは無償の愛で私を包み込んでくれた。ノアは無邪気な笑顔で私を慕ってくれた。
パン屋に来るお客さんたちも「ありがとう」と微笑んでくれた。市場にいる人も陽気に対応してくれた。この酒場の店長だって約束を守ってボーナスまでくれた。
「ああ……」
だから私は錯覚していたのかもしれないわ。人間というのは案外捨てたものじゃないって。
「領主の息子である俺が有効活用してやる。……ありがたく思え」
けれど目の前の男の欲望に歪んだ顔。自分より弱いと見なした相手を、躊躇なく踏みつけにする傲慢さ。騎士という正義の仮面を被りながら、その実ただの強盗と変わらない浅ましさ。
そうだったわ。忘れていたわ。すっかり平和ボケして目が曇っていたみたいね。
これが人間よ。
これこそが私が森に引きこもる原因になった、人間の本質的な醜さだったわね。レヴァンたちが特別だっただけ。大多数の人間は自分の欲望のために平気で他人を傷つけて、奪って、嘲笑う。
力を持つ者が持たざる者を搾取する。それが当たり前だったじゃない。胃の腑の底から、冷たい泥のような感情がせり上がってくる。
金髪はニヤつきながら私の相棒に汚い手で触れてきた。私が離さないと見るや、彼は私の肩を乱暴に掴んで引き寄せた。ガシッと爪が食い込む痛み。
その手つきは人間に対するものじゃなく、モノに対する無遠慮さそのものだったわ。酒臭い息が鼻先にかかって吐き気がする。
……気持ち悪い。
私の中で燃えていた人間社会への興味、金貨を手に入れた喜び、可憐な少女の演技への情熱といった熱量。それがスッ……と音もなく冷めていったわ。熱湯が一瞬にして絶対零度の氷塊に変わるように。
激昂じゃないわ。もっと静かで、もっと深い断絶。怒り?いいえ。悲しみ?まさか。あるのはただ底なしの冷淡さだけ。
騒がしかった店内の喧騒が、遠い世界の出来事のように遠のいていく。視界から色彩が抜け落ちて、世界がモノクロームの静止画へと変わったわ。
目の前の男の顔が歪んで見える。勝ち誇った笑み、充血した目、開いた毛穴、脂ぎった肌。それらが生物としての特徴ではなく、モノとして認識される。処理すべき障害物。道の端に落ちている踏むと不快な汚物。
ああ……。やっぱり人間って嫌い……。私の相棒に汚い手で触らないで。
私は掴まれた肩の痛みを無視して、状況を確認する。
相手は騎士。酔っ払い。場所は酒場。周囲には多数の目撃者。私は報酬を受け取った。契約は完了している。
つまり今の私はただの客。ここでコレを始末しても、それは業務上のトラブルではなく個人的な喧嘩。店側に責任を押し付けることはできないわね。
消しましょう。
結論は瞬きするよりも早く出たわ。躊躇いなんて微塵もない。害虫を駆除するのに罪悪感を抱く人間がいないように、私にとってコレは私の平穏を脅かす害虫でしかない。
レヴァンやノアのような守りたい人間がいる一方で、コレのような死ぬべき人間もいる。ただそれだけの話よ。
でも、どうやって?
思考はまだ飛ばしちゃダメ。派手にやれば店が壊れるわ。それじゃあ店長さんに迷惑がかかる。あの人は良い人だったわ。報酬くれたし。ボーナスくれたし。金貨くれたし。
だから店に迷惑をかけない方法。あくまで不幸な事故として処理できる方法で。
……そうね。塞ぎましょう。
何も難しいことはないわ。私の得意な魔力障壁。普段は防御に使う透明な盾。コレの大きく開いた口の中。喉の奥。そこに小さな障壁を蓋をするように展開するだけ。
そうすればどうなるかしら。コレがいくら息を吸おうとしても、肺には一息の空気も入っていかない。ただ泥酔者が突然苦しみ出して、何かに喉を詰まらせて倒れたようにしか見えないでしょう。
嘔吐物を詰まらせたのか、あるいは急性アルコール中毒による呼吸不全か。死因なんて医者が適当にでっち上げてくれるわ。
私が刹那の後に魔法を行使しようとした、その時だった。
近くのテーブルで飲んでいた、顎に髭を蓄えた隊長らしき騎士が弾かれたように顔を上げたわ。彼はコレの暴走を苦々しく思いながらも、静観していたはずよね。
……あら?どうしたのかしら?
私はまだ魔法を発動していない。予備動作なんてない。殺気もない。処理するだけだもの。
けれど彼の顔から血の気が失せていて、私の瞳の奥にある虚無と彼の目が合ったわ。
「い、いい加減になされッ!テオドール様!」
髭騎士は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。その声は酒場の喧騒を切り裂く悲鳴にも似ていたわ。
「ひぃっ!?」
私の肩を掴んでいたコレは剣幕に驚いて、小物のような悲鳴とともに飛び上がる。髭騎士はドカドカと私たちの間に割って入ると、私の肩を抱くように引き剥がして、自らの背中で私を隠したわ。
「な、なんなんですか隊長!私はこの不審者を尋問して……」
アレは不満げに口を尖らせた。上官であるはずの隊長に対して、どこか舐めたような態度だわ。実家が太いのか単に性格が悪いのか。どちらにせよ不愉快ね。
「黙りなさい!」
髭騎士はアレの言葉を怒鳴り声で遮った。その額には脂汗が玉のように浮かんでいる。瞳は泳いていて、必死に私の方を見ないようにしているのが分かるわ。
……この髭騎士は私の異質さに気付いたみたいね。モノクルのような魔力感知なのか、歴戦の勘なのかはわからないけれど。
「父君が治めるこの街で、あろうことか強盗を働くつもりか!」
「は、はあ?強盗!?人聞きの悪い!私はただ職務として没収を……」
「か弱い少女の持ち物を無理やり奪うことが、いつから騎士の職務になったのですか!嘆かわしい!」
髭騎士はアレを怒鳴りつけながらも、その体は私を守るように――いえ、私からアレを遠ざけるように立ちはだかっていたわ。他のベテランっぽい従士たちも遅れて立ち上がると、アレを取り囲むようにして壁を作る。
「そ、そうですよ旦那!ガハハ!いくらなんでも酔いすぎですぜ!」
「さあ座って!水を飲みましょう、水を!」
彼らは豪快に笑い飛ばしているけれど、目が笑っていないわ。チラチラと私の方を見ては、怯えたように視線を逸らしている。テーブルの下では剣の柄に手をかけている者さえいるわ。
……彼らも私の正体までは分からなくても、ヤバイものに触れそうになったという、本能的な危機感は共有されたようね。優秀な勘をお持ちのようで何よりだわ。もっと早く止めてくれれば言うことなかったけれどね。
体内の温度がスッと平熱に戻っていく。モノクロームだった視界に、再び酒場の暖かな色彩が戻ってきたわ。
「……ありがとうございます~、騎士様たち。怖かったですわ~」
私は可憐な少女の仮面を被り直そうとして、小刻みに震えてみせる。さっきまでの気持ちの余韻が残っていたのか、声が棒になってしまったわ。
髭騎士が恐る恐る振り返って私の顔を見ると、ゴクリと唾を飲み込んで引きつった笑顔を向けてきた。
「い、いや……すまない、お嬢さん。うちの若いのが……ちょっと悪ふざけが過ぎた」
「いいえ、助かりましたわ。……本当に」
髭騎士に向かって頑張って微笑んだわ。私の笑顔を見て彼はさらに顔色を悪くしたようだったけれど「き、気をつけて帰りなさい……」と声を絞り出す。
ぺこりと頭を下げて私は酒場を出たわ。
重い扉が閉まると、外の冷たく澄んだ空気が頬を撫でた。頭上には満天の星空。路地裏は静まり返っている。
「……ふぅ。もう少しで殺っちゃうところだったわ」
私は小さく息を吐き自分の掌を見つめた。危なかったわ。いくら完全犯罪でも貴族が死んだら、調査が入ったりして私の楽しいショッピング計画に支障が出るかもしれないものね。
「短気は損気ね。限界まで我慢した私、偉いわ」
自分を褒めてあげると、懐の革袋の上から金貨の硬い感触を確かめた。その温もりがささくれ立った心を癒やしてくれる。
チャリン。
心の中で勝利の音がしたわ。嫌な奴に絡まれたけれど結果として私は無傷。報酬も手元にあるわ。そして明日は待ちに待ったお買い物デー!
「さあ、帰りましょう!レヴァンとノアが待っているわ!」
先程までのことは綺麗さっぱり忘れ、パッと顔を上げてスキップでもしそうな勢いで歩き出したわ。
プレゼントのリボンは何色にしようかしら?どんな風に渡すのがベストかしら?私の想像力はすでに輝かしい未来へと飛翔していたわ。
……ま、あの金髪の顔は覚えたけれどね。もし次にまたふざけたことをするようなら、その時は誰かが止めに入る暇もないくらいの速さで、永遠に口を閉ざしてあげることにしましょう。
暗い夜道で誰にも見えないようにニッコリと微笑んだわ。




